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ジブリ新作『君たちはどう生きるか』ネタバレなしレビュー。これほんとに遺作になるかも?

ジブリ新作『君たちはどう生きるか』、公開初日のレイトショーで見てきました。

どんな映画だった?かを一言で言うと、帰りに目の前の席に座ってた30代中盤ぐらいのヤンキーっぽい兄ちゃんが、隣にいる女性(多分奥さん)に、

お前話のスジわかった?俺ぜんっぜんわからんかったわ(笑)

って結構大声で言っててまわりの人も苦笑いしてた…という映画でした。

ただし!もう一つ付け加えたい大事な事は、

その兄ちゃんも含めてみんなそんな不満そうでもなくて、全体として会場の気分は「ジブリの新作見れて良かったね〜」みたいな感じだった…という映画

…だったところですかね。

なんか公式サイトもないぐらい情報が制限されていて、「いつの時代のどういう主人公の話なのか」っていうのも話すのちょっと躊躇われるぐらいなんで、できるだけネタバレなしに、「こういう感じの映画だったよ」というのが伝わるような記事を書きます。

見に行こうかどうか迷ってる人は参考にしていただくとともに、「日本社会にとってのジブリ作品とは?」「そしてそれが果たしている役割は今後どう変化していきそうか?」みたいな考察までできればと思っています。

(いつものように体裁として有料記事になっていますが、「有料部分」は月三回の会員向けコンテンツ的な位置づけでほぼ別記事になっており、無料部分だけで成立するように書いてあるので、とりあえず無料部分だけでも読んでいってくれたらと思います。)

1●レイトショーなのに大会場が満席。スラダン映画以来の大入り

まず驚いたのは、レイトショーなのに大会場が満席だったことですね。

私が普段行くのはレイトショーの場合作品によっては観客席に10人もいない状態になるシネコンなんですけど、今回は『一番大きなシアターが満席』になっててびっくりしました。

油断して予約なしで行ったんですが、券売機が15分前にはこんな感じ↓になってて、しかも後ろにも長蛇の列があってその後完売になってました。

私はその映画館でちょいちょい映画見てますけど、こんな大入りだったのは「SLAM DUNK THE FIRST(これも確か初日のレイトショー)」以来という感じでした。

2●「老若男女、普段会わない日本人に会える」映画

スラダン映画の時は、「同世代の男女同窓会」みたいな感じで、30代〜40代男女のみ、同じ日本社会に暮らしてて普段あまり顔合わせなくなってるけど俺たち同じ時代を生きてるよな〜みたいな顔ぶれだったんですけど。

「君たちはどう生きるか」は、もっともっと本気で「老若男女」って感じで、独特の体験でした。

レイトショーだけど11時直前に終わる比較的早い時間だったから、小学生の子を連れてる若いお母さんとかもいたし、老夫婦って感じの人もいたし、凄い着飾った週末デートって感じの若者おしゃれカップルもいたし、ヤンキーっぽい兄ちゃんグループやカップル、オタクっぽい男グループ、そして「考察」とかするのが大好きそうな女性ひとり客の人(偏見ですいませんw…でも個人的印象としては”ひとり客”は男性より女性の方がかなり多かった印象でした)もかなりいた。

人間、公立小学校を出てからは、だんだん社会階層というか生きてるクラスタが分断されていきがちですけど、ジブリ映画の新作ともなれば「同窓会」的な感じの祝祭感があるというか、「普段会わないけど一緒に日本社会で生きてるよね」感があって凄い良かったです。

3●どういう映画だったか?

で、どういう映画だったか?っていうのを一言でいうと、冒頭のヤンキー兄ちゃんの大声がめっちゃ当てはまる感じだったんですよね。

お前話のスジわかった?俺ぜんっぜんわからんかったわ(笑)

こういう↑作品だけど、ただ「ジブリ見てる喜び」みたいなのは結構ある映画という感じ。

何かに似てるなあ、と思ったのは、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』とか、あとはいくつかの村上春樹作品みたいな感じです。

冒頭は一応ちゃんと「話がわかる」んですよね。どういう時代のどういうキャラクターがどういう思いを抱えて生きているのか…が一応わかる。

でもそこから「日常のすぐそばにある不穏な何か」が忍び込んできて、だんだんザワザワしてきて…どこかから”マジックレアリズム”的な展開が始まって…

そこから先はなんだか幻想の世界の中でわかったのかわからんような展開が続いていく…という感じ。

「日常」の隣に「怪異」が潜み混んでくる感じの不気味さ、ヒタヒタと迫ってくる感じとか、前半は凄いドキドキして見れました。

でもその先、これって例えば村上春樹作品とかでもそうなんだけど、前半に小出しにされたミステリ的小道具があまり回収されずに終わるところがあるんですよね(笑)

「あのシーンでああいうセリフがあったけど、あの問題は結局解決したわけ?」

…みたいな事を言い始めると、途端に「結局どういうことだったんだろうねえ」みたいな感じになる。多分作者自身すらもその辺よくわかってないんだろうという感じがする。

結局あまり細かい事は気にせずに、とりあえずなんか解決したっぽい感じだからいいんじゃね?みたいな…そういう見方をするのが観客の9割で、残りの1割は、作者も考えていなかったんじゃないかというレベルの設定の裏読みをはじめて、投げっぱなしになっている作品の空白部分を完全に埋めるネット上の議論が続くという感じ(茶化してるようですがそういうことができる人の事は尊敬してます)になる。

ジブリ作品で言えば、『ポニョ』の後半、ポニョとソウスケが船に乗って水没した世界を進みながら色んな人と出会ったり、結局あのお婆ちゃんたちは死んだってこと?このシーンは何を表しているの?…みたいなのがよくわからないまま放置されてなんとなく大団円っぽく終わるあのあたりの感じに近い映画だったです。

スタジオジブリ公式

今回の『君たちはどう生きるか』を見てから思い返せば、前回の『風立ちぬ』の方はよほど「ちゃんと説明してくれてる映画」だったんだなあ、って気持ちになったね(笑)

ジブリ公式

4●『説明しない映画』の功罪

ここまでの私の文章を読んで、「いやいや、あのポニョの後半だって今回の映画だって、実はちゃんと説明されていてこういう意味があるんだよ!」みたいに思う人もいるかもしれません。

ただそういう人は、「物語を読み解く能力」が他人よりもかなり発達している一握りの人であって、実際見てる人の9割ぐらいはなんとなくよくわからんまま放置されて終わってるのが実情だと思います。

この「説明しなさ」はかなりちょっと古臭い印象ではあるんですよね。

もっと今の「現代的」な映画においては、怪異や超常現象を扱う時にも、ちゃんと「説明」は首尾一貫していて万人に”客観的”に理解可能な形のものが多いはずなんですよ。

例えば、私は新海誠『すずめの戸締まり』を全然期待せず観に行ったら凄い好きだった…という連ツイをした事があるんですが↓(クリックしたら下に連なるスレッドが読めます)

「すずめの戸締まり』は”わけわからん超常現象”を扱ってる話だけど、「話の設定」がかなり明確にわかりやすくできていて、「要石」っていう存在が世界に厄災を起こさないよう引き止めるために必要で、それを復活させようとしている話なんだな、っていう部分に疑いが一切ない。

『なるほど、6種類のオーブってものを集めると神鳥ラーミアが復活して行ける場所が増えるってことだな!』

ドラクエ3

『なるほど、メタルグレイモンになる分にはいいけどスカルグレイモンになると困る。だからコロモンからやり直すって話ね』

呪術廻戦(の五条悟のセリフ)

こういうレベル↑の「話のルール」が明確に提示されていれば、超常現象をただ超常的に扱っているんであっても、冒頭のヤンキー兄ちゃんが「ぜんっぜんわからんかったわ!」みたいな事を言わない感じになる

これは「ディテールをどこまで説明するか」とは別問題なんですよ。

もちろん「ディテールをあえて説明しない事で考察の余地を残す」という手法自体は今も有効なんですが、やはり「全体の構造」ぐらいは提示しておいてくれないと、ディテールだけほったらかされても考察のしようがない、みたいなところはある。

さっき地味に例に出した『呪術廻戦』とかは、「呪術というシステム」について物凄く詳細な設定があることがイメージできるから、「ディテール」は説明されずにほったらかしにされてもむしろ観客が楽しんでそれを補完してネットで議論してるみたいな状況になる。

しかしその「世界を成り立たせている構造」自体が全然わからん状態で謎のディテールだけ並べられると、ちょっとついてこれる人は限られるみたいなところはある。

つまり、超常現象を描く時にも「最低限の枠組みは説明してしまうのが現代のルール」みたいなところがある中で、それこそ宮沢賢治とか村上春樹とか、そして宮崎駿とかの世代以上の作家にのみ許された語りの形式、みたいなところはあるかもしれない。

で、そういう映画でいいのかどうか?っていうのは難しい問題で、僕がたまたま行った映画館は満席でしたけど、それは「初日にジブリ見に行く層」にとっては待望だったから埋まっていただけで、「その先」へ延焼していくかどうかはまた別の問題かもねという話はある。

案外、三連休の都内映画館の予約状況は少し軟調だというニュースも見ました。

今回の「説明しない」タイプの販促手法についてよくスラダン映画と比較されますけど、スラダン映画は本編自体はメチャクチャ説明的というか、何の曖昧さも一切残さない感じだったからこそ国際レベルで口コミが広がった…みたいなところはあったですよね。

だから今回映画に関していえば、むしろ「10年ぶりジブリ映画新作!」って大々的にやった方が良かった可能性はあるのかも?

それでとりあず足を運んでくれれば、「説明しづらいよくわからん映画だったけど、ジブリの良さみたいなのは感じられたよ」というこの気分が多くの人に伝わったはずだからですね。

一方で、宣伝を絞りまくってくれたからこそ、何の前情報もなしに、「どんな話なんだろう?」「この後どうなるんだろう」を全く先入観なしに映画館で見れた事自体は個人的には結構良い体験ではありました。

5●とはいえ、『バルス的瞬間のカタルシス』は凄いありました。

要するに私個人は結構楽しんだわけで、確かに「わけわからん話」ではあるけど「全然オススメできない映画」かっていうとそうじゃないんですよ。

冒頭のヤンキー兄ちゃんの大声のセリフを何回も引用してるけど、その兄ちゃん自身もまあまあ楽しんでそうだったしね。

特に、宮崎駿作品はよく最後の方で「バルス的瞬間」がやってくるじゃないですか。

ジブリ公式

ハウルの城がぶっ壊れたり、シシ神さまのあれこれで世界が変わってしまったりとか、ああいう「大崩壊のカタルシス」みたいなのがある作品は多いですけど、今回もなんか凄いそういうのを感じたんですよね。

しかも、詳細はあまりうまく説明できませんが、

建て増し建て増ししてきてわけがわからなくなってるジブリ作品の世界自体を終わらせる。若い世代はゼロから新しく作ってくれ。

…という宮崎駿からの本能的メッセージのような要素があった感じがして、そこが凄く印象的でした。

まさに”ジブリという古代文明”に対する「バルス!」的作品だったというか。

だからこれが宮崎駿の遺作になったとしたらそれは凄く納得感がある…という感じ(まださらに一作ぐらい作るかもですがw)。

もう人類社会は「ジブリの次」へと動き出しているし、日本アニメにもジブリ以外で世界で売れている存在が出てきているし、そしてそこには「新しい語りの形式」で「更に推し進めたようなテーマ」を追求している世界もある。

しかもそれを「ちゃんと説明する」形で展開していく時代が来ているところがある。

一方でとはいえジブリには、どんどんバラバラになっていく日本社会を土俵際でつなぎとめて「同じ景色」を見せてくれる原風景としての役割はまだ残り続ける。

そういう「共有神話としてのジブリ」は残るけど、日本社会は「その先」へ進んで行け、みたいな志向性が、宮崎駿氏の本能的なメッセージとして図らずも伝わってくる感じがあって、そこの部分だけでも「見てよかった感」がありました。

そういう「バルス的瞬間のカタルシス」という点だけで言えば、ラピュタやハウルやもののけ姫の「大崩壊」よりも、「今回の大崩壊」の方が個人的になにか伝わってくるものがありました。

なんか、「わけわからん映画だった!」と言いつつも観客の気分がそれなりに明るい感じだったのも、そういうところにあるんだと思います。

全然「話の中身」は説明しないで、ネタバレなしで今回の映画を説明するとこんな感じでした。

ピンと来たら、ぜひ映画館に観に行ってみていただければと思います。

7●より大きな視点から見た関連記事について

長い記事をここまで読んでいただいてありがとうございました。

なんかこう、過去30年近くの間、ジブリ作品を成り立たせるために、「とりあえず疑いない前提としてしまっていたもの」が単純に当然視できない時代になってきて、「説明しないでやる」のに限界が来ているという感じは個人的に凄いありましたね。

そしてこれからは、「ちゃんと説明する」形で、ジブリ的なテーマをもっと掘り下げて展開していく役割が日本コンテンツには求められているところがあるんじゃないかと思いました。

時代の「変化」もそれを後押ししてるっていうか。

例えば以下の記事たちで書いたような話で、「世界」「欧米」の側が、「単純な欧米的理屈だけでは割り切れない人類社会のリアル」に対してだんだん自覚的になってきて、それを「補完」する役割を担わされていた日本コンテンツを「直に」理解できる世代が欧米社会側にも生まれてきている。

結果として、「欧米文明に対するオルタナティブ(代替案)」としてのジブリ作品の「素朴主義の絶対化」…みたいな構造が時代の中での役割を終えつつあるところがあるような。

もう欧米とか非欧米とかない、「人類一個の若者文化」みたいなのが成立しつつある世界の中では、「ムスカ(欧米由来の現代文明)」を切り出して排除し、「パズーやシータ(古来からの素朴主義の絶対化)」の側の英雄譚だけを描くみたいな構造自体が意味を持ち得なくなっているところがあるというか。

「20年前なら、欧米文明とは違う日本というエキゾティックな異文化の中ではパズーやシータのような善良さが生きているのね、オー!ファンタスティック!」みたいな受け取られ方ができたけど、今は「皆が同じ船の中にいる」ので、外部にそういう理想郷を切り出してテキトーに決着つけるみたいな世界観の説得力がなくなってきてしまっている。

そういう変化を推し進めた先に、以下の記事で書いたような構造変化が起きている。

日本社会(に限らず今の人類社会も分断で反・欧米側にいる国)の人々のリアルが「欧米的理想」から遠いように見えても、それをただ断罪して終わるのではなくそこに新しい共有了解を言葉で作ったいかないといけない時代になってきてるところがあるんですよね。

上記記事で紹介した一橋大学の橋本先生と今度対談するウェブメディアの企画が決まったんですけど、ああいう「海外一流大学で博士号取った移民問題のガチの専門家」みたいな人が、単なる旧来の出羽守みたいなワンパターンの言論を超えていく時代になりつつあるんですよね。

「ガチの専門家」のレベルになれば、「欧米という理想郷に比べてほんと日本てダメだよね」みたいな幻想の押し売りじゃなくて、「欧米でも等しく問題になっているこの課題を現実レベルで解決するやり方を日本で考えましょう」という視点が成立するようになってくる。

「単純な欧米的理想で割り切れないもの」をただ断罪して終わるのではなく、そこがそうなっている理由に遡って掘り下げて、あくまで言葉を尽くして「共有できる新しい世界観」を作っていくプロセスが世界中で進行している。

その中では、だんだんと過去のジブリ作品の作法のような

「人は土を離れては生きていけないのよ」的な「素朴主義の絶対化」みたいな視点

…では現実の細部の課題を扱えなくなってきている。

そのへんは、以下の記事に書いたような問題として現出しているテーマだと言えるかもしれない。

「宮崎駿の次の作品」があるかないかは別としても、単純に彼の年齢的な事を考えるだけでも、やはり「宮崎駿の時代」が終わっていきつつあるというのは避けられないわけですよね。

やっぱり今の視点で見れば「古臭い」と感じる部分もゼロではないしね。

ただ一方でその「古臭さによって維持されている価値」みたいなのもあるわけだから、単に「どっちが良い」「どっちが悪い」という話にしていても物事が前に進まないわけですよね。

そのあたりの難しさによって、過去の「当たり前」を今までのように共有しづらくなって、かといって新しい方向性で「みんな」がちゃんと乗れるだけの度量があるものも全然ない…という日本社会の「今」の混乱状態に繋がっている。

そういう時には、「古い世界観によって維持されていた美点を、新しい世界観の中に再現するにはどうすればいいか?」という観点で考えていく必要がある。

どちらがわの「ベタな正義」も否定しない「メタな正義」を考えていく必要がある。

そのへんの、「方向感を失って漂流する今の日本社会が進むべき方向」を見出す「メタ正義」感覚については、以下の本なんかを読んでいただければと思います。

日本人のための議論と対話の教科書



ここからは、なんか、もうちょっと踏み込んでジブリ映画が「使命を終えつつある」と感じるポイントとか、逆にディズニーとかのアメリカ映画のトレンドに比べてジブリ映画が持っている可能性とはどういう部分にあるのか、みたいな話を掘り下げたいと思っています。

あと、Twitterでよく見るこのアシタカの画像が「大喜利ネタ」に使われる理由

…とかについても考えてみたい。

今回映画の主人公のマヒトくんにしても、アシタカにしても、そして風立ちぬのジロウにしても、ある独特の「感じ」が共通してあって、それがジブリ作品の魅力でもあり、ある意味で「呪い」でもあるって話をしたいんですよね。

単純に言うと、ジブリ作品は「ムスカ」を「悪」として切り出して「パズー」側の話だけにして、「元気なお婆ちゃんバンザイ!」みたいな話にすれば収まりが良くて皆「ジブリ作品っていいよねえ」って納得してもらえるストーリーになるんですよね。

でもアシタカには「パズー」と「ムスカ」が両方同居していて、そういう志向性があることが宮崎駿作品のコア的な魅力の源泉ではあるんだけど、でもそういう「アシタカ」的存在を描こうとするとだいたい毎回「ストーリー」の方が破綻する…という構造になっているんだと私は考えています。

ここ以後は、そういう「アシタカ」性とはどういうものなのか?を掘り下げつつ、よく言われる「棒読み」セリフみたいなのを宮崎駿が求める意味は何なのかとか、それが自分は案外好きだけど、その先にもっとちゃんと「説明できる世界」の中での「アシタカ」のあり方を描いていく必要がこれからはあるよね・・・みたいな話を書きます。

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