見出し画像

サンデル新刊「能力主義は正義か」と日本のネット論壇が描く新しい未来像

今回は、あの「ハーバード白熱教室」のマイケル・サンデルが日本のネット論壇と同じことを言っている!・・・と話題になっていた新刊

「実力も運のうち 能力主義は正義か?」


画像1

の書評をしながら、「日本のネット論壇」との共通性や、その議論から導かれる新しい時代の方向性に、バイデン大統領の「中間層重視」政策も含まれていて、その中で日本が取るべき進路はどういうものだろうか、という話をする記事です。

「ネオリベ時代」が終わり、何らかの「共同体主義」の復権が模索される中で、日本はそれにどう向き合っていけばいいのか?という話ですね。

体裁として有料記事になっていますが、「有料部分」はほぼ別記事のようになっており、無料部分だけで成立するように書いてあるので、とりあえず無料部分だけでも読んでいってくれたらと思います。

1●バイデン「中間層重視」政策の背後にある「欧州型共同体主義」

さっきまで、Findersというウェブメディアに、バイデン大統領の中間層重視政策について、その背後にある大きな流れの解説・・・という記事を書いていたんですが・・・・

すでにアップされているので、以下の記事もぜひどうぞ。

↑この「バイデンの政策」って、数年前ぐらいまでの「アメリカで普通の経済学者の議論」からするとかなり違和感があるものが含まれているんですね。

バイデンの政策(富裕層増税と中間層子育て支援の拡充)については日経のこの記事がわかりやすいです。

「ウォール街でなく中間層こそがこの国を作ったのだ」とかいう施政方針演説はなかなかキャッチーでしたね。

以下のツイートのように、「富裕層がもっと豊かになれば”滴り落ちる”ように皆が豊かになる」という、いわゆる「トリクルダウン」などは起きなかった。下から、そして中間層からの経済発展について考えるべきときだ・・・と「アメリカの現役大統領」が言うというのは、過去30−40年ぐらいを考えるとかなりの異常事態と言っていいと思います。

Findersの記事で紹介したのですが、この動き↑の背後には、「アメリカの主流派経済学者」とは違う、主にフランス人の経済学者が脈々と作ってきた議論が反映されているんですね。

例えばこの↓フランス人(スペイン生まれ)経済学者のエマニュエル・サエズ氏(ただしアメリカの大学の教授ではある・・・”サヨク志向で有名なカリフォルニア大学バークレー校”ですね)が書いた

つくられた格差 不公平税制が生んだ所得の不平等

画像2

という本をはじめとして、この人は「r>g」のトマ・ピケティの共同研究者らしいんですが、フランス人のインテリが主導して作ったきた議論の流れがあるんですよ。

たとえばこの本で提唱されていた、「多国籍企業への法人税を、国際協調の枠組みの中で無理なく上げていく仕組みの提案」の案については、先日アメリカ財務長官のイエレン氏が実際にG20会合で取り上げたというニュースに繋がっていますし、バイデンの今回の政策も増税部分のほとんどはこのサエズ氏の議論が元ネタとなっていると思います。

で、このサエズ氏の本の中では、しょっちゅう

「アメリカの主流の経済学者はこう考えないだろうが、私の研究によればこうだ」

っていう議論が展開されているんですね。

たとえば、80年代のレーガン時代というのがアメリカにとって大きな「ネオリベ方向への転換点」だったわけですが、サエズ氏はレーガンの税制改革(富裕層の最高税率が9割近かったところから28%にまで劇的に下げられた改革について)以下のように書いている。

現在ではこの法案は、格差を拡大する大きな要因になったと広く認識されているが、その作成に関わった人はみな、いまだにこの改革を肯定的にとらえている。アメリカの大学に籍をおく経済学者たちも、この改革の利点を吹聴することを職業上の義務とみなしているかのようだ。

こんな感じ↑で、「アメリカの過去30−40年間の主流の論理」を「仮想敵」的にいちいち引用して、色んな経済政策の細部について「より共同体的」発想で「本来あるべき姿」を議論していこうという流れになっている。

要するに、アメリカ的に「個」しか存在しない、「個」だけを神聖化したような思想や社会運営法が過去30−40年間世界中を席巻してきたわけですが、その限界も色々と明らかになるなかで、

「共産主義に戻るわけではないが、”社会的公正性”を考えれば具体的なココの部分はこういう風に是正されるべき」

みたいな議論の積み上げが、フランス人のインテリをベースに過去10年ぐらい続いてきていて、それがついにアメリカ大統領が公式にツイートするまでに至ったのだ・・・という

「アメリカ的に”個”しか存在しないネオリベ世界観」から「欧州的に何らかの共同体的調和を重視する路線」への転換を目指す「大きな流れ」

があるんですね。

折しも、最近欧州サッカーのスーパーリーグ構想(アメリカの投資銀行JPモルガンが首謀者のひとつだったらしい)・・・という「めちゃくちゃネオリベ」的な発想の案が発表されたかと思ったら、一瞬で世界中の「草の根サッカーファンの反発」で潰えた・・・という”事件”がありましたが、それも同じ流れの中で出来事なんだと思います。

「アメリカ的に個しか見ない」運動が、欧州的な発想と共鳴し合うことで、「何らかの共同体主義的解決」に向かう大きな流れが、今世界中で進行中という感じなんですね。

サンデルはアメリカ人ですが、若い頃英国留学経験もありますし、専門が欧州思想そのものって感じなので、だからこそこの「共同体主義」を主張する本は、ここまで書いてきた「アメリカ的に個しか見ないネオリベ主義から欧州的共同体主義への転換」という流れの中にある本だと言えると思います。

2●「”個のみ”のネオリベ世界」から共同体主義を目指すサンデルの本の趣旨

で、じゃあサンデルの本はどういう趣旨かというと、

「アメリカの有名大学を中心とするエリート主義が、無意識に”普通の人”を見下している事がトランプ的ポピュリストの反撃に繋がったのであり、そういう”能力主義”とは隔絶した”国民にとっての共通善”という概念を取り戻すべきだ」

みたいな話なんですね。

つまり「個しか存在しない世界観」を脱却して「共同体主義」に到るには、「自分は自分の努力だけで成功したんだから何の義理も社会に対して持っていないのだ」と思いがちな個人主義のエリートに対して、何らかの「社会への義理」を思い出してもらうロジックが必要になるわけですよね。

で、サンデルの分析によれば、過去のアメリカが「差別問題」を解決しようとする流れの中で、あまりに「機会均等」のことしか考えない政策を行ってきた結果、

「その競争の勝利者は勝利を自分だけのものと感じて徹底的に利己的に振る舞う反面、敗北者は徹底的に自分の責任によってその境遇に落ち込んだのだという論理に屈辱を感じ、社会の分断が進んでトランプ型のポピュリストの活躍する余地を作ったのだ」

みたいな主張を展開するわけです。

特に、この「差別解消文脈の背後には、隠された本能的な弱肉強食的ネオリベ優勝劣敗主義があるのだ」みたいな論点がなかなか「非アメリカ的」というか、アメリカのインテリが展開する話ではあまり見なかった展開であるように思いました。

なかでも、オバマやヒラリーといった民主党側の「政治的に正しそう」な政治家が演説の中でかなり「ちゃんと勉強して有名大学に入ったエリート」以外への蔑視感を本能的に裏付けてしまうような言葉遣いをついついしてしまっている事について、本人たちの色んな具体的発言を引用しながら分析しているところが、なかなか鋭い指摘だと感じました。

3●サンデル本と日本の「ネット論壇」の共通性

で、サンデルの新刊についてのアマゾンレビューに以下のようなのがあったんですが(笑)

白饅頭はサンデルの裏アカウント?というジョークに潜む真実

発売日に買って読んだ。素晴らしかった。
興味深いのは、日本のツイッター論壇との共時性だ。
dada、エタ風、白饅頭、わかり手、パンナコッタソといった叩き上げのツイッタラーの発信内容との共通点を少なくない人が感じたのではないだろうか。
(中略)
機を見るに敏な日本の社会学者や哲学者は、このサンデルの著作を読んで「転向」できるだろうか?それとも不都合な真実から目を背けるだろうか?はたまた「『実力も運のうち』であっても、偏差値の低い人間は野蛮だ」と自らの主張との折り合いをつけるだろうか?
YouTubeがテレビを凌駕したように「ネット論壇が日本の論壇を凌駕する」とすれば、本書はその発火点となるだろう。
革命的な1冊。

文中にあげられている日本の「アルファツイッタラー」の全員を細かく知っているわけではありませんが、でもだいたいの論調として、

「”差別解消”的ロジックの背後にある”隠された弱肉強食性”に対するカウンター」

という意味で、ある意味で日本のネット論壇には「アメリカ的文脈の直輸入では消されてしまいがちだった重要な論点」について、はやくから問題提起をし続けてきた先見性があったのだ・・・という事は言えると思います。

先月物凄く広く読んでいただいた上記記事↑の最後にも書いたように、そして以下にも述べるように、日本の「リベラル」は、「本当にガチガチの”ネット右翼”」的な方向性と決別したいなら、一種この「白饅頭型アルファツイッタラー的ネット論壇」とは、何らかの形でちゃんと向き合う必要があるのだと私は考えています。

「中韓をやたら蔑視するとかそういうレベルの右翼」と決別しつつも、ちゃんと「草の根レベルまで含めた国」を動かしていくには、この「白饅頭的ネット論壇」とは、別に”一緒に共闘”とかしなくてもいいけど「受けて立つ」必要があるというか。

4●「富裕層や多国籍企業への増税はやる気と大義名分の問題」だからこそ・・・

さっきのサエズ氏の本を読んでいて面白かったのは「中間層重視」ができるかどうか、例えば富裕層増税みたいなことができるかどうかは、単純に「やる気の問題」というか、その「大義名分を社会が承認しているか」という話らしいんですね。

「富裕層や多国籍企業は”一般国民”に対して義理があるからちゃんと応分の負担をするべき」

という「機運」があれば、税の抜け穴を塞ぐ動きもちゃんとできるし、累進税率も高い状態に持っていける。法人税を下げて、消費税を中心とした個人への税率を挙げていく・・・という「ネオリベ型税制改革」の風潮にも抗うことができる。

しかし、

「頑張っている富裕層や多国籍企業に対して、貧乏人どもがタダ乗りして泥棒しているのが税金なのだ」

みたいな風潮が高まってくれば、まず税制の変更以前に実際の税逃れが先に増えはじめて、それを後追いするように徐々にロビー活動が功を奏してネオリベ的税制変更が進んでいくそうです。

で、本当に中間層を重視する政策を具現化するには、こういった「個人主義的エリート」を何らかの形で掣肘するための「ロジック」が必要で、サンデルにしろサエズにしろ、共同体主義の論理を必死に盛り上げることでその「アメリカ的個を掣肘する」風潮をいかに作り上げられるか・・・というチャレンジをしているのだと考えていいと思います。

ただ、この「欧州的共同体主義」の文章、サエズ氏のものにしろサンデル氏のものにしろ、読んでいて結構パターナリスティック(ザツに訳すと”上から目線的”)に感じる部分も正直あるんですよね。

少なくとも過去数十年の間世界中の人間に染み付いた「個人の自由こそが至上」っていう世界観からすると、ちょっと高圧的な部分がどうしても出てきてしまう。

だからこそ、こういう「インテリの内輪」的議論を「草の根」レベルまで浸透させるためにはもう一つのジャンプが必要なんですよ。

で、アメリカにおいてこの「アメリカ的個を掣肘するロジック」を「草の根」まで浸透させるためのご本尊は、フランクリン・ルーズベルトなんですね。

フランクリン・ルーズベルトは第二次大戦中の大統領ですが、富豪の税逃れ的なアクションに対してかなり厳しく対処して、「そういうのは悪だ」ということを言いまくっていたそうで、そしてそれが「戦争の記憶」とともに受け継がれている70年代までは、アメリカは世界的に見ても累進税率が高くて法人税も高い国だった。

要するに「そういう風潮」さえナショナルに共有できていれば、「制度」も実現させられる・・・みたいな話なんですね。

今回のバイデンの改革は、米国民主党の過去の栄光であるルーズベルトをかなり意識している・・・と言われるんですが、「単なる知的エリートの内輪の議論」を超えて、「トランプ派の反撃」を超えて改革をすすめるには、

「欧州由来の共同体主義的理想を具体的政策論へと地道に転換する細部の議論をちゃんとやること」

「何らかのナショナルなもの」との感情的共鳴でパッケージする

ことが必要なのだということだと思われます。

「ネオリベすぎる改革」の欧州スーパーリーグが頓挫したのも、「ビッグクラブ以外のそれほど有名ではない街のローカルチーム」とかに狂気レベルの思い入れを持っている無数の欧州人たちと、それに共鳴する世界中のサッカーファンという、「何らかのナショナルなもの」と結びついたからこそなのだ・・・というのは言えると思います。

5●日本において、「欧州的理想」と「ナショナルなもの」をいかに共鳴させるのかが課題

日本においても、アメリカ型格差社会に近かった戦前から、戦争中の「国家総動員体制」を経ることで、「日本型雇用モデル」を中心とする昭和の「一億総中流」的社会が実現した・・・という指摘はよくされていますよね。

赤木智弘というライターさんが

「丸山眞男」をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。

という論考を発表して以前話題になっていましたが、

「現代の個人主義的文明社会が果てしなく社会を”個人”だけにバラバラにしていくと、富裕層への課税といった政策課題への合意すら本能レベルで雲散霧消してしまい、結局そういう社会の存続すら危うくなってしまうのだ」

という人間社会の真実とぶち当たっているのかもしれません。

で、アメリカだったら、フランクリン・ルーズベルトって「めっちゃポリコレ的に正しい」大統領だから、その思い出を引き出してくるだけで「紐帯」を保てるかもしれないが、日本における「国家総動員体制」の方は、あまりにスティグマを一方的に貼られまくっているのが、なかなか今後難しい問題となっていくように思います。

日本の「右派」の人が、戦前の日本も含めた「日本人の紐帯」をベースにしてMMT理論的な世界観から中間層の復活を主張していく・・・というのは、ある意味で一貫性がある。(MMT理論についての賛否についてはこちらに書きましたので興味あればどうぞ)

一方で、日本における左派の人が、「日本人の紐帯の解体」を目指しつつ、中間層の底上げ的な政策を「草の根」レベルまで浸透させていくには、「フランクリン・ルーズベルト」的な「反対者を黙らせるロジックの象徴」がない分、なかなか困難があるでしょう。

昨今の日本における「右派的言説」の隆盛には、明らかに「アメリカ的に個しか見ない風潮からギリギリ日本的な助け合いの紐帯を守り切る必要性」が隠れていると私は考えていて、自分が右派ならそれでいいにしろ、「右派的なやり方」が気に食わないのであれば、「左派なり」にこの「紐帯の基礎を守り切る」ための発想について真剣に考えることが必要になってくると思います。

そのためには、話題の日本史学者網野善彦を引用して考察した以下の記事で書いたように、

単なる欧米的議論の直輸入的なものでなく、深く日本の歴史を考察した上で本質的な解決について模索していく姿勢が必要となるでしょう。

そういう「深い議論」によって、左派的理想を「草の根の民衆的感情」のレベルまでしっかりと結びつけ、「日本におけるトランプ主義」的なものとガチンコで押し合っても負けない紐帯を作り出す、「左派的な愛国心の旗」に仕上げることではじめて、実際の「金銭的分配」のレベルへの影響力を成立させる事が可能となる

端的に言えば、私がいつも言っているように、「19−20世紀における国際社会の問題」を全部「戦前の日本という悪役」にスティグマを貼り付けて終わりにするんじゃなくて、

「19世紀ー20世紀における欧米の帝国主義への必死の反撃」としての戦前の日本をちゃんとフェアな目線で名誉回復した上で、一方でその大きな流れに巻き込まれた結果としての、国内・国外の戦争被害者への平等な補償や敬意を持った接し方を両立させていく・・・という難しい課題を両立させること

といった議論が必要になってくるはずです。

そしてそれは、先日のFinders記事で書いた

ような、「中国の膨張的野心にちゃんとNOと言うためにこそ、欧米文明中心主義とは離れた独自の視座を提示することが日本の使命となる」といった話につながってくるはずです。

6●「弱者男性論壇」との付き合い方

で、より具体的に、サンデルの論理と「白饅頭型アルファツイッタラー的日本ネット論壇」の共通性を考える時に、「弱者男性」論ってのがあると思うんですね。

いわゆる「ポリコレ運動」が、アメリカにおいて、「大卒でない白人男性」に対してあまりに攻撃的な態度に出過ぎることの問題・・・っていうのが、サンデルの本ではかなり指摘されています。

純粋にニュートラルな経済現象としての「既得権益」と「差別解消」・・・というロジックだけを展開できればいいんですが、それに付随してかなり無意識的に「大卒でない白人男性ならいくらでもディスっていい」みたいな風潮があって、そこが問題を大きくしているのだ・・・というサンデルの論理は、まるで日本のネットの「弱者男性」論壇の論理そのものという感じがします。

アメリカ文化全体として、たとえばハリウッド映画で描かれる「保守的な田舎町で迫害されて育ったマトモで知的な主人公が、東西両岸の”知性的な人が住む街”に脱出することで本当の自分の生き方に出会う」みたいな話が量産されること自体が、「知的階級エリートがブルーカラー階層を蔑視する無意識の傾向」を表していて、それへの怒りがトランプ型ポピュリストに繋がったのだ・・という話でした。

サンデルが指摘している例として具体的には、ヒラリーがトランプ支持者を「みじめな人たち(deplorable)」と呼んで、それをトランプ支持者が逆手に取って「deplorable」と書いたTシャツを皆で着るようになった事件とか、検索したら2008年の記事が出てきましたが、オバマが対立勢力のことを「銃と宗教にすがる人たち」と呼んで大問題になった事件などがあげられていました。

結果として、アメリカの中年白人男女は、自殺や薬物の過剰摂取、アルコール性肝臓疾患などによる「絶望死」が1997年から2017年の間で3倍にも増えていたりする。

こういう時に、サンデルが名付けるところの「現代のアメリカで主流となっているテクノクラート的な発想」からすると、

白人ブルーカラーよりもさらにマイノリティの方が、統計数字的に”純粋に経済的に”さらに厳しい状況にあることは明らかだ。だからその白人どもの不満は聴く必要がない

という風な議論がされることが多いわけですよね。この議論↑は個人的にここ10年ぐらい何度も聞いた気がします。今でもツイッターでしょっちゅう見る。

しかし一方で、「絶望死」などの数字においては明らかに他のマイノリティグループと比べても白人中年男女が厳しい状況におかれていることは明らかで、その原因として「社会的承認」の差みたいなのが大きいはずだ・・・みたいな議論がサンデルの主張なんですが、ほんとこういう「議論」ってすごく「今までのアメリカのインテリ」にはなかった感覚で、「日本のネット論壇」の先見性(笑)にも繋がっているところだと思います。

日本の男性論壇では、「主観的な幸福度」的なものの男女差が世界で最も大きい(女性の方が圧倒的に幸せを感じている)国が日本で・・・みたいな例の話がありますが、ああいう系統のロジックの話ですね。

要するに、マイノリティや新しい移民コミュニティっていうのは、「自分たちの文化」が「ポリコレ」的に保護される対象として称揚されるし、それを軸に寄り集まっていれば、「実際の助け合い」にも繋がるし、繋がりたい男女が繋がるキッカケがそういうコミュニティによって提供される事で「攻撃性」が暴発せずに済む要素があるわけです。

しかし、『罪深きマジョリティ』扱いされるような白人ブルーカラーが培ってきた文化・・・たとえばたぶんキリスト教会だとか銃と狩猟だとか、その他色んな「自分たちの紐帯を守るための風習」は、今の時代まとめて「諸悪の根源たちが持っている文化」扱いされがちで、そこが「純粋な経済的配分の数字」以上の敬意の問題を引き起こしているのだ・・・みたいな議論があるわけですね。

これらは要するに、「罪深きマジョリティが持っていた文化」の中に、単に社会を「個」だけにバラけさせないで共通の共同体へと結びつけようとするアレコレのギミックが含まれていたはずなのに、それを一緒くたに否定しようとするから、白人中年層がポピュリストに持っていかれたり、昨今アメリカで問題となっている色んなヘイト犯罪的な暴発へと繋がっているのだ・・・みたいな話ですね。

そして、現行の「”罪深きマジョリティ”の批判者」たちは、単にその「マジョリティの文化」を否定するだけで、「そこにあった共同体を維持するための色々の機能」をバカにしていて自分たちは担おうとしないでいるので、色んなバックラッシュを受けることになるのだ・・・みたいな話でしょうか。

7●アイデンティティ・ポリティクス批判を超えられるか

こういう批判は、アメリカでも前からあって、

コロンビア大学教授のマーク・リラという人の「リベラル再生宣言」

画像3

という本では、「経済的に難しい構造問題に踏み込まず、物凄く”多様性”にまつわる細かいマナーの問題ばかりを扱ってしまうリベラル派」が「アイデンティティポリティクスの欺瞞」として批判されています。

要するに「経済構造問題」に本当に切り込むには、「自分たち知的なリベラル階層の経済的特権」自体にも踏み込まざるを得ず、それは「単なる個人主義の追認ではない、フランクリン・ルーズベルト的な結集軸」を自分たちの責任で作っていく努力を必要とするわけですが、そういうのは難しいので、そういう難しい問題からは逃げて、大して考えなくても果てしなく「頭の古いマジョリティ」を糾弾しまくれる「マイノリティ問題」にばかり熱中するようになったことが問題なのだ・・・みたいな話ですね。

日本における「弱者男性論」というのも、「純粋な個人主義では維持できない部分の社会の紐帯」の部分において、”構成員の納得”を取り付けることから逃げてはいけないのだ・・・という事を教えてくれているのだと理解するといいのだと思います。

要するに「弱者男性論」が言っていることを丸呑みにする必要はないわけですが、一種の「devil's advocate(悪魔の代弁者)」として扱う必要はあるというか。

単に「リベラルな個人主義からして気に入らない敵を攻撃する」のではなくて、「その敵が果たしていて役割を自分たちが納得できる形で代理解決」することによって、はじめてその「敵」に打ち勝つことができる。

以下の図は私の著書で使った図ですが、

画像4

この「質問4」とちゃんと向き合っていくことが大事なんですよね。

もし「弱者男性論」的なものが気に入らないのだとしたら、

「僕が一番、ガンダムをうまく操れるんだ!」

的な感じで、

「右派や弱者男性論なんかより、私たちの方が”生きている日本人の同意を取り付けて具体的な中間層重視の政策を立ち上げられるのだ」

という課題と”本当に向き合う”のならば、弱者男性論や右派をハネツケルことがはじめて可能になる。

しかしそのためには、先程も書いたように、日本の場合における「フランクリン・ルーズベルト」的なストーリーを「紐帯の軸」としていかに立ち上げるか・・・という大きな課題と向き合う必要があり、「開明的な欧米諸国じゃあこうなのに日本って遅れてるよね論法」の限界とちゃんと向き合うことの重要性を乗り越える必要もあるでしょう。

これはめっちゃ本質的な課題ですけど、なかなかやりがいがあるテーマでもあると思うので、僕自身もその一員として、なんとか「新しい自分たちの中心軸」を米中冷戦時代に打ち立てていく仕事をやっていければと思っています。

8●あるフェミニストのつぶやきから

サンデルの新刊で盛り上がる界隈に向かって、日本のある”フェミニスト”ツイッターアカウントが、

機会均等で排除される人がいたとして、それは要するに「虐げられたマイノリティ」の犠牲によって下駄を履かされていたのがあるべき姿に戻るってことなんだから、そもそも文句言う筋合いないよね。黙って私たちに譲れって話じゃない。

みたいなことを言っていて(すいません、流れ去ってしまって見つけられませんでした)、さっきのサンデルの議論における「典型的な」問題だなあ、と思ったんですが。

要するに問題なのは、「機会均等だけを考える社会運営」をすると、そのメカニズムが「民心」をちゃんと吸収できなくなるので、治安も崩壊するし、実際に「マジョリティによるマイノリティへの加害案件」みたいなもも止められなくなるんだってことなんですよね。そして「そういう問題」まで責任持って向き合うことが「社会をリードする側にまわる」ってことなんですよ。

だからこそ、「虐げられたマイノリティ」の立場から脱して、「平等な扱い」を要求し、「社会をリードする側」に回るのであれば、「自分の改革でワリを食う層にもとにかく納得させるようなビジョン」を提示する責任があるってことなんですよね。

単なる「自分個人の問題」じゃなくて、「自分たちの共同体においての新しい”公”=フランクリン・ルーズベルト的なもの」を打ち立てていく使命が自分たちにはあるのだ・・・という問題とちゃんと向き合い、その「至誠」が大衆レベルまで共感を得るところまで行ければ、”ネット右翼的な右派の議論”も”弱者男性論壇”もハネツケルことがやっと可能になるでしょう。

それに、「弱者論壇」の参加者のことを深く知っているわけではないですが、その参加者の多くはその「新しいレベルのオリジナルな”至誠”のビジョンと具体的な中間層重視の政策パッケージ」さえ大衆の支持を得られるレベルに具体化すれば、「ならもう言うことはない」的に納得するタイプの人が多いと個人的には感じています。

彼らの議論は「個」の不満のようで「個」だけの問題じゃないわけですね。というのは、本当にリアルに女性蔑視的な男は「弱者男性論壇」みたいな持って回ったことしてないで日常的にシレッと女性差別しまくってますからね(笑)

「弱者男性論壇」みたいなのを形成するタイプの男は、「そこの納得感」をないがしろにしたまま進むと、社会の紐帯をちゃんと維持することができなくなって、アメリカみたいにあちこちで「ヘイトクライム」的な暴発が起き始めたりしたって知らないぜ・・・というような「警告」を発してくれてるのだと考えるといいと思います。

「アメリカ型に個しか見ない」議論が、レーガン大統領以来40年間世界中を制覇しきって今「引き返し」に入る局面において、「日本における新しい共同体主義」を立ち上げていく試みが始まるわけですね。

単純な例としてですが、例の医学部私立入試の男女差別問題で、それが「崩壊寸前の国民皆保険制度を超高齢化の中で維持しつつ、貧乏人にも日本クオリティの医療を提供しようとするギリギリのせめぎあいの結果としてあったこと」という理解をせずに、単に「女性差別をしたい男どものエゴ」によって行われているのだ・・・と糾弾するような姿勢からは脱却していただければと思っています。

「あの事件の語られ方」に関する、「現場レベルで働く人達への敬意の欠如」と「単なる国際的流行の受け売りでなくちゃんと現地社会の事情とローカライズする意思の欠如」が本当に日本において「改革を求める勢力」の大衆的信頼感を損なっている大元凶だと思うので。

「過去数十年のアメリカ型」に「全部古い社会が悪い」的に糾弾して終わりでなく、「古い社会に属する人間」も含めた「新しい公」を打ち立てようと模索する運動であれば、今の幸薄い議論よりももっと意味のある議論になりますし、立場は違えど色んな参加者の具体的提案を飲み込んで社会を前進させていけるようになるでしょう。

この記事の無料部分はここまでです。

以下の部分では、「世界を制覇したネオリベの曲がり角としての欧州スーパーリーグの話」をしたいと思っています。

サッカーに興味ない人は知らないかもしれませんが、つい先日、JPモルガンというアメリカの投資銀行が主導して、欧州の有名ビッグサッカークラブだけを限定とした新しいリーグを設立するという発表があったんですが、世界中のサッカーファンから反発があって頓挫した・・・っていう事があったんですよね。

欧州サッカーは「各国リーグ」がまずあって、その上位チームだけで争う「UEFAチャンピオンズリーグ」ってのが今でもあるわけですが、「各国リーグの結果」からだけで出場チームを選ぶと、必ずしも有名チームばかりが出場するわけでもないし、各国リーグとの兼ね合いもあって試合数も少ないしで、視聴率が取れて儲かる「ビッグクラブ同士」のカードがそう頻繁にあるわけでもない。

だから、「アメリカの投資銀行家」の発想からすれば、

「ブランド力のある有名チームだけを元から集めたリーグ」を作れば、もっとビッグクラブ同士の対戦が増えて儲かるぜ

となるのはわからないでもないが・・・

しかしね、欧州サッカーの魅力って、「世界的には大した有名度ではない地元チーム」を狂気レベルでサポートする色んな街があった上で、そういう中で揉まれたビッグクラブが、たまーにチャンピオンズリーグでぶつかるから興奮するわけで!

みたいな話があって、これはほぼ世界中の「サッカーファン」の反対に合って、スーパーリーグ構想はほぼ頓挫した状況になっているようです。

「ウォール・ストリート・ジャーナル」↑では、ちょっと悔し紛れ的な感じで(笑)、「米国スポーツと比べて欧州スポーツはマネタイズに失敗している。だから”わけわからんこだわり”でスーパーリーグを拒否したって、どうせいつかは”米国化”するはずだ」・・・みたいな論考を載せていて面白かったです。

ただ、「アメリカのスポーツ」といっても、強烈なマネタイズに成功しているアメフトNFLが、「各地のローカルファンの気持ち」的なものを大事にしてないかっていうとメッチャ気にしてる感じがするんですね。

NFLの試合数は、欧州サッカーとかと比べてもメチャクチャ少ないしね。しかし、一個一個の試合に、「民衆の草の根の気持ち」を吸い上げてショーアップする事を真剣にやっている。

だから欧州スーパーリーグは、アメリカ式とか欧州式とかでなく、要するに「草の根ファンの気持ちを考えずにカネカンジョウのことだけ」考えて改革したら絶対ダメですよねという見本・・・になっていると思うわけですが。

とはいえ、じゃあ「本当にサッカーの未来を考える正義のUEFAと悪のビッグクラブのエゴ」という風に理解できるかというとそうでもないらしく。

そのあたりの、「UEFAも大概だぞ」という議論については以下のブログが非常に勉強になったので良かったらどうぞ。

https://www.rrr3k.com/entry/2021/04/19/180000

で、要するに、「カネと資源の最適配分」みたいな問題があった時に、

・できるだけグローバルな流れと無理に逆らわずに調和できたほうがいい

・しかしローカルの人たちの”気持ち”を無視したシステムをゴリ押ししたら未来はない

みたいな矛盾の中で細かい調整をする時に、「UEFA的存在」をどう扱うか・・・って凄い重要な問題があるな、って思うんですね。

要するに、「グローバルな無慈悲の資本の流れ」から「大衆の気持ちを守る」防波堤である・・・という立て付けとしてUEFAがあるんだけど、だからといってUEFAが清廉潔白かというと全然そういうわけでもない。

ただ、「グローバルvsローカル」という軸で対立が激化すると、現実問題として「UEFAの悪」は見過ごされがちになるんですね。

これと「同じ構造」の問題が、今の日本政府が、アレコレと強硬的な国会答弁をしたりとか、色んなことをしても許される流れにあるのは、この「グローバルvsローカル」における「グローバル側のローカルへの配慮」が足りなすぎるから生まれている真空空間なわけで。

最近、元中央官僚の宇佐美典也氏が書いた新刊、「菅政権 東大話法とやってる感政治」という本を読んだら、

画像5

特に中央官僚の立場からすると「小泉政権の熱狂の記憶」が大きくて、その熱狂に任せて破滅的なことになってしまわないために、菅総理の官房長官時代から(宇佐美氏の分析によればもともと枝野幸男氏が与党時代に始めたそうですが)続く「なにか改革やってるフリ」的な話法が定着してしまったのだ・・・という分析が面白かったです。(本筋と関係ないですが、スガ総理の答弁スタイルをストリートファイターの”待ちガイル”に例えて話すところが世代的にめっちゃ面白かった)

この「小泉政権の熱狂」ってまさに「ネオリベまっしぐら」の竹中平蔵路線て感じだったじゃないですか。

だから「改革!」って叫ぶのは「グローバルな資本の流れに全権を任せるネオリベ路線」でやるなら簡単なんだけど、それでいいのか?って問題が起きてきているわけですよね。

そしたら、結局「グローバルな資本の論理だけを見る世界」から自分たちを守るために、「UEFA的存在の強権」が必要になっちゃうわけですけど・・・

これ「UEFA」を批判すりゃ解決する問題じゃないんですよね。「もっと困った破滅」に対抗するための壁として現状必要なのが「UEFA」なので。

そのへんが、今のリベラル野党の支持率が地を這う状態になってしまっていて、自民党政権が凄い支持されてるわけでもないけど・・・みたいな行き詰まりになってしまっている原因なわけですよ。

「UEFA的存在としての自民党のようなもの」のダメな部分を克服するには、単に「UEFAや自民党のダメなとこ」を批判するだけじゃダメで、単なる「批判するなら代替案を考えろ」という話でもなくて、「ネオリベ全盛期を超える新しい世界観」をリベラル的にOKな形で打ち立てて行く必要があるのだ・・・ってことなんだと私は考えていて、宇佐美氏の本もかなりそういう路線だったんですが。

その「ビジョンの内容」については以前この記事↑に書いてめっちゃ読まれましたが、以下の部分では、「政治プロセス」としてそれを実現していく時に考えるべき方針を、バイデンがトランプ主義やサンダース主義をうまく距離を取りながら中庸路線を実現していこうとしている様子などを分析しながら書いてみたいと思います。

要するに、この問題を解決するには、単に「自民党的存在」の「ダメな部分」を指摘するだけじゃダメで、「グローバルの論理」自体をちゃんと「ローカルの事情」にもっと合わせたものアップデートしていく必要があるのだ・・・みたいな話なんですね。

「自民党的存在」よりも、「自民党支持者のタイプの人間が深く憂慮する」問題について「もっと真剣に考えた答え」を「自分たちは用意しているぞ!」という立ち位置を真剣に追求することで、「グローバルな風潮の無理解の裏返しとしてのローカルの強権」を乗り越えることが可能になるんですね。

そのために具体的に考えなくてはいけないことは何なのか・・・みたいなことを、以下の有料部分では書きたいと思っています。

2022年7月から、記事単位の有料部分の「バラ売り」はできなくなりましたが、一方で入会していただくと、既に百個近くある過去記事の有料部分をすべて読めるようになりました。これを機会に購読を考えていただければと思います。

普段なかなか掘り起こす機会はありませんが、数年前のものも含めて今でも面白い記事は多いので、ぜひ遡って読んでいってみていただければと。

また、倉本圭造の最新刊「日本人のための議論と対話の教科書」もよろしくお願いします。以下のページで試し読みできます。

ここまでの無料部分だけでも、感想などいただければと思います。私のツイッターに話しかけるか、こちらのメールフォームからどうぞ。不定期に色んな媒体に書いている私の文章の更新情報はツイッターをフォローいただければと思います。

「色んな個人と文通しながら人生について考える」サービスもやってます。あんまり数が増えても困るサービスなんで宣伝してなかったんですが、最近やっぱり今の時代を共有して生きている老若男女色んな人との「あたらしい出会い」が凄い楽しいなと思うようになったので、もうちょっと増やせればと思っています。私の文章にピンと来たあなた、友達になりましょう(笑)こちらからどうぞ。

また、この連載の趣旨に興味を持たれた方は、コロナ以前に書いた本ではありますが、単なる極論同士の罵り合いに陥らず、「みんなで豊かになる」という大目標に向かって適切な社会運営・経済運営を行っていくにはどういうことを考える必要があるのか?という視点から書いた、「みんなで豊かになる社会はどうすれば実現するのか?」をお読みいただければと思います(Kindleアンリミテッド登録者は無料で読めます)。「経営コンサルタント」的な視点と、「思想家」的な大きな捉え返しを往復することで、無内容な「日本ダメ」VS「日本スゴイ」論的な罵り合いを超えるあたらしい視点を提示する本となっています。

また、上記著書に加えて「幻の新刊」も公開されました。こっちは結構「ハウツー」的にリアルな話が多い構成になっています。まずは概要的説明のページだけでも読んでいってください。

ここから先は

1,879字
最低でも月3回は更新します(できればもっと多く)。同時期開始のメルマガと内容は同じになる予定なのでお好みの配信方法を選んでください。 連載バナーデザイン(大嶋二郎氏)

ウェブ連載や著作になる前の段階で、私(倉本圭造)は日々の生活や仕事の中で色んなことを考えて生きているわけですが、一握りの”文通”の中で形に…

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?