「おいおいどうすんねんこれ?」状態の選挙結果を希望に変えるノーベル経済学賞研究の話
数日たってある程度冷静になってきたとところもありますが、衆院選の結果はほとんどあらゆる立場の人にとって「どーすんねんこれ?」っていう不安感があったものだと思います。
以下のxポストがバズってて笑いましたw
なんというか、コレ、立憲民主党の支持者とか関係者も、ある程度はこの「どうすんねんこれ」感を感じててくれないと困るみたいな感じはありますよね。
「へっへっへ、自分とこの議席増えたし自民は減ったぜヨッシャー!」だけで終わられても困るっていうか、ただ混乱する事自体を喜びとされても困るんで、国を運営するという共通目標の為にちゃんと考えてくれないと困るという話ではある。
で、この日本の政治状況を、「ポジティブに」捉える枠組みとして、今年のノーベル経済学賞を受賞したダロン・アセモグル氏の研究が使えるのではないか?っていう話を今回はします。
アセモグル氏は、「繁栄する国家と衰退する国家は制度的に何が違うのか」を経済学的に分析している人なんですが、「繁栄する国家」は、「回廊」と呼ばれる細い一本道を通り続けているという分析がなされていて。
今回の政治状況は、その「繁栄の回廊」に日本が間違いなく入っていくための重要な一歩になるのではないか?という話をします。
アセモグル氏の本は何冊か翻訳されていますが、特にこの本↓が個人的にはすごく考えさせられました。
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1●「国家」と「社会」の綱引き状態が拮抗することが重要
アセモグル氏の本の基本コンセプトは以下の図にまとめられます。
これ、縦軸を上に行くほど「国家の力」が強く、横軸を右に行くほど「社会の力」が強いという構造なんですが。
「繁栄し続ける国家」というのは、「足枷のリバイアサン」と書かれている部分の「狭い回廊」の一本道を外れずに進んでいくことが重要だとされます。
その「狭い回廊」よりも国家の力が強いのが「張り子のリバイアサン(南米やアフリカなどの統治が失敗している国家)、あるいは「専横のリバイアサン(中国など)」と呼ばれているゾーンで、「狭い回廊」よりも国家の力が弱くて社会の力の方だけが強いのが「不在のリバイアサン(古代の自然状態の部族社会など)」と呼ばれます。
ちょっといきなり「特殊な用語」が並んで面食らったかもしれませんが、この本の非常に重要な点は、
…という部分を揺るぎなく論証している部分なんですね。
日本人は牧歌的なところがあるので、
「繁栄の条件である”自由”が実現している国家」=「”強権的な国家”的なものが全部排除された自然的な共同体」
…みたいなイメージがあるんだけどそれは違うんだ、というのを強く論証している本なんですよ。
これは、アメリカなどの言論状況だと、ガチ経済保守派(強烈な”小さな政府”主義者)が「警察と軍隊以外の政府機能など全部排除してしまえ」みたいな事を根強く言ってるので、左派寄りの人が「いや国家大事なんだよ!」って口を酸っぱくしていう必要が出てくるという状況があるのだと思います。この本も「そういう敵」に対して論証している側面は結構あると思う。
一方で日本では、むしろ左派よりの人が、「”国家”みたいなマッチョな発想が一切存在しない自然状態的理想郷」的なアナキズム寄りの理想像を描きがちであり、一方で保守派側が「国家!!」って言ってるのも、アセモグル氏がいうところの「国家の力」というよりは、「自然的共同体思想」的な意味で言っていることが多いように感じられます。
要するに、日本は戦争の経緯もあって「あらゆる”国”的なものを悪と捉える」ようなエネルギーが強すぎて、左派側だけでなく保守派側の多くも「国」のパワーをいかに押さえつけるかばかり考える状態になってしまっているために、上図でいう
『不在のリバイアサン』
…状態に落ち込みかけているのをなんとか「狭い回廊」に引き戻したいところがあるわけですよね。
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2●「国のパワーが弱すぎる」=「不在のリバイアサン」とはどういう状況か?
邪悪で強権的な「国」なんて要素が排除された自然で平和な共同体の何が悪いんだ?・・・と思う人も日本人には多いと思うんですが、アセモグル氏が「国のパワーが弱すぎる状態=不在のリバイアサン」と呼んでいる色々な国家(多くは歴史上観察された自然発生的な国家の場合が多い)においては、
「不在のリバイアサン」は以下のどちらかの状態に落ち込んでしまうことが示されています。
で、なんかこの「国」的な制度を憎むあまり、「昔ながらの慣習の延長」みたいなもので構成員をバリバリに縛り付けることで平穏さを無理やり実現している状態・・・って、個人的には「めっちゃ今の日本を感じる」と思ったんですがどうでしょうか。
「慣習」で縛り付けていると自由な経済活動の変化を取り込んで自然に社会を変えていくことができなくて、徐々に経済的には衰退していくことが本の中には示されているんですが、結構まさに「そういう状況」があるところが今の日本という感じがありますよね。
もう一度この図↑を見てほしいんですが、日本は昔はこの真ん中の「狭い回廊」を通れていたんだけど、色々あって下側の「不在のリバイアサン」ゾーンに落ち込みかけている状況で、それゆえに「慣習」の力で無理やり社会の安定を保つ息苦しさと、経済的なダイナミズムの不足・・・という情勢に落ち込んでいたといえるのではないでしょうか。
ここから、どうやって「狭い回廊」に戻していくことができるのか?という事を考えていきたいんですね。
これは要するに、
…という状況が放置されてきたがために、この右派も左派も両方「本来の意味での国のパワー」というものを排除してしまいがちになり、「昔ながらの慣習の力で構成員を縛りつける」=「不在のリバイアサン」状態に落ち込み気味だったところがあるのではないか、ってことですね。
結果としてどういう感じに過去20年ぐらいはなってきたかというと…
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3●「夢はあるが非現実的な左派政党」vs「現実的だが希望がない保守派政権」をいかに辞められるか?
やっぱりコレが「平成時代↑」的な日本政治の不幸だったところがあると思う人は多いと思うんですよね。
「覇権国家」が交代するかもぐらいの状況になれば絶対戦争になるのは歴史上の絶対ルールみたいな状況があった中で、中国のGDP総額がアメリカを抜くかも?という予測がなされていた時代には米中対立が盛り上がるのは必然としてあった。
「ソレ」に対して何らか具体的な対処が必要なのは当然で、そういうのと一切関係なく
「戦争というのは世界情勢と一切関係なく、”日本政府という絶対悪”が戦争がしたくてたまらない自民党によってリードされることで起こされるもので、それにNOと言ってさえいれば決しておきないものだ」
…みたいな精神でいられても困る。
僕自身はどっちかといえば「護憲派」ですらあるんですが、しかし米中対立の火種が「憲法という国内問題」だけでなんとかなるという認識自体には「ヤバすぎるほどヤバい」ものを感じてました。(そういうのが左派運動のスタンダードで、民放テレビ界隈も含めて絶対化されてるような情勢にはほんと絶望してましたね)
結果として、安倍政権が主導した「自由で開かれたインド太平洋」戦略は今の国際社会の基礎レベルにまで確立しましたし、それで拮抗状態をキチンと維持しているので、ロシアのウクライナ戦争みたいな事態には現時点ではならずに済んでいる。
「英米秩序がムカつくからといって上り調子のコワモテ二番手に肩入れすべき(昔はドイツ、今は中国)と言い出す」みたいなのが国際秩序の安定性を破壊して戦争の危機を近づける、みたいなのは、普通に第二次大戦について反省してれば当たり前の事ですよね。
もちろん「英米秩序のアンフェアネス」自体をちゃんと批判し変えていくことは大事なんだけど、それはそれ、これはこれとして戦争回避の努力自体はやらないと、「自分たち何も悪いことしてない庶民を、何の理由もなくただただ悪辣な軍部とか権力者が戦争に駆り立てる」みたいなファンタジーに引きこもられても困る。
この「戦争回避」問題にしても、とにかく平成時代の政治というのは「あまりにも無茶なことをいう左翼」vs「ある程度現実的だが少し考え方が古いし社会変革に繋がりづらい保守政権」みたいなある意味不毛な二項対立が放置さてきていましたよね。
これは結局「アナキスト寄りの左派像」が、あらゆる現実の国際社会における「国」という構造の重要性そのものをぶっ潰しにかかるので、保守派側が必死にその「国」の構造を保とうとしたんだけど、そのために逆に「普遍性を持った本来の国」という制度ではなく「古来からの日本的共同体の慣習」というようなものを必死に押し立てることが必要になってしまった・・・というようにまとめられるのではないかと。
そういう視点から考えると今後の日本は、
という形で「狭い繁栄の回廊」に日本を引き戻していける流れが見えてくるのではないでしょうか?
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4●「新しい中道回帰路線」の分厚い共有が見えてきている
今回の選挙関係の記事はコレが三本目で、どれも結構好評をいただいていますが…
この上記の2つの記事でも繰り返し書いていますが、以下の議席配分は、
短期的に見れば「これどうせえっちゅうねん」っていう混乱状態ではあるけど、より本質的に見れば「分厚い中道現実路線の共有」という軸が定まってきているのだと見ることが可能だと思います。
このあたりの話について、安倍時代の言論環境がいかに不健全だったかという話について、ガチ左派東京新聞が岸田政権時代に「キシダの支持率こんな低いのになぜ野党は伸び悩むのか」という話について、政治学者の境家史郎・東大教授にインタビューしてる記事が印象的だったんですが…
こういう場↑でも「左派が憲法問題の神学論争みたいなのに熱中するからすぐバラバラになって左派の現実路線が形にならない」という分析がなされていて、保守派側からすると当たり前すぎる話なんだけどガチ左派新聞の人もわかってんじゃん、と思ったということがあったんですが(笑)
平成時代は本当に、「どうやって米中冷戦時代の勢力均衡を生み出すのか」みたいな視点が全部吹き飛んでしまったようなレベルで、「全部憲法問題」「邪悪な日本政府さえ私たち市民が抑止していれば戦争など起こらない」みたいなレベルの運動が「左派のスタンダード」になっていて、ほんと困った状態だったんですが。
今回、「蓮舫さんの都知事選敗北→共産党と距離を置く野田代表路線で立民が票を伸ばす」という情勢になった事も、この「最左翼層のアナキスト傾向」を少数野党状態に弾き出すことができた大きな前進があったといえるでしょう。
それによって、10年前から私が予言してきたように…以下の「M字」に分断された状態から、
以下の「凸字」の形に「コンセンサスを共有しやすいゾーン」が移行してくる事ができている。
つまり、
「過激左派のアナキスト傾向」→「”国”制度の必要性を守るためにあまりに”古い共同体の連帯感の延長”を押し込んでギリギリ共有軸を保つ時代」
こういう↑状況だったところに、今は
一番左の「アナキスト型左派」も、最も右の「日本的共同体至上主義」みたいな勢力も、両方キチンと「少数政党」として分離できる状態になった
…わけですよね。
で、この「少数政党に分離した最右翼と最左翼」にも意味はあって、上記の「凸字」の図に「シグナルとしての異端者」っていうのがありますが、例えば共産党が裏金問題を延々と報道して政治資金問題の清浄化を目指したりすることには意味があるし、あと逆にガチ右翼さんが何を見ても「中国の侵略だ!」っていう形に見えるのも、民主主義社会のSNSへのロシアや中国の工作活動っていうのは「実際にある」ので、それが有効な「センサー」として働く事には意味がある。
それに、最左翼が「政権交代可能な左派政党」と分離し、最右翼が自民党と分離することは、彼らはあまり現実に対する責任を取らずに理想論を述べる事ができる大変自由な立場を得られるということですから、彼ら自身にとっても悪いことではないでしょう。
こうなっていくことで、
「最右翼・最左翼層の分離」→「分厚い中道路線の共有」
…が実現し、また、以下記事で書いたように「保守派側にも普通に女性議員が増える」という情勢も加わる事で・・・
欧米が
ガチでwoke型の政治勢力vsびっくりするほど反動的な政治勢力
…に分断されてしまう状況の中で、日本は、
あまりにアナキスト型の左派運動はハネツケルが、全体としてまあまあリベラルな落とし所を常に模索しつつ、「古い共同体」的なものとも強烈に分離しないように結びつけて一歩ずつ変わっていける安定状態
…を実現していける情勢が実現するでしょう。
私はこういう方向性を「ベタな正義」同士の血みどろの対立を超える「メタ正義」と呼んでいますが、日本は
メタ正義以外を「排除」はしないが、過激な極左と極右がある一定レベル以上には決して繁茂しない培地
…のような情勢に持っていくことができ、結果として果てしなく分断されていき第三次世界大戦もありえるか?という状況にある人類社会を一つにつなぎとめる希望の光となるわけですね。
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5●中国経済の限界は指摘されていた。さて日本は?
では同じ論理で、「経済」の話についても掘り下げていきましょう。
アセモグル氏の本は経年で古いものからちょいちょい日本語になってるんですが、中国経済が絶好調だった時期にも「中国経済の躍進(特にその持続性)」について一貫して批判的だったのも特徴なんですよね。
この図の左上側、つまり「国家の力」が強すぎるバージョンとして、アセモグル氏は以下の2つを上げています。
で、アセモグル氏は、「あまりに国家が弱い状態」からは、こういう「張り子」→「専横」という形で国家機能を高めることが必要な時もあることは認めてるんですね。
そもそも財産権が保護されず個人の自由もなく、常に争い事で身の危険があったり逆に強烈な古い習慣でガチガチに統制されているような国だと経済発展などありえないので…
そこに「国という存在」を打ち立てるために、まずは「張り子」→「専横」のリバイアサン状態を作り出して、「財産権が保護されていて争い事の調停が暴力でなく法的に行われる安定した社会」を創り出すことが、経済発展の第一歩になる事がある事は認めている。(日本はこの”専横のリバイアサン”から始めて国家統一機能を整備し、その後”狭い回廊”に移動した成功例として紹介されています)
一方で、この「専横のリバイアサン」状態のまま経済発展を続けることは決してできない、という風にも言っていて、中国経済が今よりよっぽど順調だった時期に書かれた本でもそのあたりは一貫して批判的なんですね。
「経済発展」が「専横のリバイアサン」の体制を切り崩してしまうので、それを排除するために権力の構成員たちが必死に経済を統制しようとしはじめて、「自由」が失われた経済は当然のようにそのパワーを失っていくだろうということが予言されています。
最近の中国経済の不調っぷりは、まさにそういう形で「専横のリバイアサン」状態のまま経済発展を続けることはできないという限界が露呈してきていると言えるかもしれません。
では、果たして日本の今後はどうでしょうか?
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6●アベノミクスに全開回帰!はできづらくなった状況をポジティブに見るべき
前回記事でも触れましたが、選挙の日にxスペース(ラジオみたいに配信しながら色んな人に発言してもらえる場)で配信しながら、色んな人が何を理由にどこに投票したのか延々聞いていくイベントをやったんですが…(以下リンクから見れます。聞き所へのタイムスタンプ目次もついてるのでご興味があればつまみ食いでちょっと聞いてみていただければと)
その中である結構有名な半導体ジャーナリストの人が発言しにきてくれて、
…という話をしていて「すごいナルホド」と思ったんですよね。
中国があれだけ国家主導の経済をやって競争をしかけて来ている以上、何らかの国の産業政策が必要な部分はあきらかにあって、20年前のガチのネオリベ経済学者のように、「国が関与する時代じゃないんだから何もするな」ではどうしようもないところはある。
一方で、「国の関与」が大きすぎると経済が余計に停滞するのも、アセモグル氏の研究を引用するまでもない事実としてあって、やはりどうしても国家主導だとスピードも判断もボヤケがちですし、柔軟な方針変更をして何としても結果を出すみたいなダイナミズムも弱くなってしまいかねない。
既に始めちゃったラピダス(北海道)自体はなんとか頑張ってもらうとしても、徐々に「国家主導でなんとかする」型の産業政策が通りづらくなる流れに自然になっていく事は考えられます。
そもそも、たとえ総理が高市さんにバトンタッチしたとしても、「全力でアベノミクスに回帰する」という形は取りづらい情勢になってきてますよね。
国債発行はまだかなりできるにしても、今よりさらに強烈に円安になったら、セブンイレブンだけじゃなくトヨタも日立もソニーも全部外資に買われちゃう情勢になっちゃうわけで。
例えばかなりポピュリスト的な政治手法で今回得票を伸ばした国民民主党玉木氏は、なんだかんだ「無限に国債発行できるから」というような立場からは巧妙に距離を置いている事がわかります。
これ、「国債は無限に発行できる」派の気持ちをうまく吸い上げるポピュリスト的振る舞いという感じではありつつ、全体としてどういう事を言ってるかというと、「インフレによってGDPの”名目の数字”はかなり伸びており、過去の借金の実質負担額は下がってきているのだから、n兆円ぐらいの部分は自由に使える余地が生まれるはずだ」というようなロジックで話していることがわかります。
これ↑は結構正統派の経済学者の人もまあまあ納得する論理展開みたいなところがあるのではないでしょうか("程度問題”としては異論があるとしてもね)。
何の留保もなく「国債は無限に発行できるのだ!」と言ってるわけではなくなってきているということですね。ただそれでも”主張の見た目”はあんま変わってないところが玉木氏の深謀遠慮なところなんですねw
また、リハックというYouTube番組にあの参政党の神谷宗幣氏が出ていた時も、なんだかんだ「国債消化が国内がメインであるうちはなんとかなる」という論理立てだったのが、「狂気の全開パワーの背後にあるちょこっと真顔な部分」を感じてかなり意外に思ったりしましたw
「れいわ」はもっと狂気全開な感じですし、共産党は「お前は”大企業の内部留保に課税”っていうのがいかに現実離れしてるかあと何万回指摘されれば学ぶんだ」みたいなことを言ってる感じですが、そういう少数の例外を除けば全体として「着地可能なゾーン」を徐々に絞って具体的な議論をする情勢は満ちてきているといえるように思います。
ちなみに共産党支持者などが望む「消費税みたいに個人から取るのでなく儲けてる企業から取れ」みたいな話も、国際的にシンガポールみたいに税金を下げまくる「底辺への競争」はやめようという流れが徐々に広がってきている中で、その流れとシンクロしつつ現実的な落とし所を探る議論を粘り強くやっていければ可能性はあるし、納得する正統派の経済学者も中道派議員もいるはずなんですよね。
それが、「内部留保課税」っていうのがいかに現実離れしてるか何万回と言われてるのに、支持層向けのリップサービスで言い続けるのとか、ちょっとやっぱりこういうのは「狂気のアナキズム寄りエネルギー」であって、余計に民主主義の安定性を損ないかねないところがあると思います。
どちらにしろこれらの「あらゆる過激派のフカシ発言」が徐々に「現実の制約」とぶつかりあうことで、
「日本が現実的に取りうる範囲」を理性的に勘案したうえでの経済の議論
…が徐々に立ち上がってきているといえるでしょう。
果てしなく無責任なフカシ発言を右も左もしていた時代から、「日本が通りうる狭い回廊」を理解したうえで慎重にそこを狙っていく議論に収束しつつある。
「アベノミクスに賛成か反対か」みたいな話で、「安倍は自分たち左派の”敵”なんだから徹底的に逆向きのことを主張するのが当然。はんたーい、はんたーい!」みたいなののバカバカしさも可視化されてきているところがありますよね。
だからこそ今後は、「アベノミクスに反対なんだから当然メチャクチャ緊縮方向に振る事を主張するべき」みたいな狂気をうまく抑え込みつつ、一方で玉木氏のように
…みたいな感じで、「ポピュリズムエネルギーを吸い込みつつ、なんとか現実的な着地点に落とせるように頑張っている」層の得票が伸びているのは、「ポピュリズムの狂気が国全体を危うくする方向に暴走しがち」な欧米にはない可能性を感じる部分だなと思います。
この案に対する「共産党側の批判」に対して、「共産党がいうように最低賃金一気に上げたらすぐ103万円の壁に達するだろうが。お前自分の政策の一貫性理解してるのか?」という感じの反論が一斉に寄せられているのを見かけたんですが、これもすごい希望を感じましたね。
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7●「狭い回廊」に戻って繁栄の道を進んでいこう
再びこの図↑に戻りますが、安倍時代の日本は「アナキスト寄りの左派の暴走」を抑えて現実的な戦争抑止策を積んでいくための事情などがあって、かなり「古来からの日本的共同体」的なパワーを揺り起こしていたところがあり、そういう意味では「国家」が弱い分”慣習”の力で構成員を縛り付ける「不在のリバイアサン」的要素があったと言えます。
一方で、経済面ではかなり国家主導の「専横のリバイアサン」的要素があったところもあり、そういう「統制型」の経済が必要なダイナミズムを損なっていた面もあったはず。
これが今度、「一番左のアナキスト志向と一番右の日本至上主義志向」が両方とも徐々に「少数政党に切り出され」ていく一方で、中道派の揺るぎない共有軸が見えてくることになれば、経済面における「専横のリバイアサン」のパワーを弱めることも可能になる情勢になるはず。
というか、「無限に国債を刷ってなんとかする」ことが徐々に現実的制約にぶつかっていく中で、自然と「専横のリバイアサン」から「繁栄の狭い回廊」へと戻っていく流れが起きるだろうということですね。
そのあたりで、今日本で徐々に進んでいる「中小零細企業の”中堅企業”への自然な統合」というプロセスがうまく噛み合えば、ちゃんと給料を上げられる自然な転換が実現していくでしょう。(そのあたりは私のこの本などで詳しく書いているのでぜひ。来年発売予定の新刊ではより詳しく掘り下げています)
同時に、そうやって「機能する国家」のパワーをちゃんと回復していけば、「
古来からの慣習」的なもので無理やり個人を縛り付けて平和を保つ必要がなくなる事でもあるので、同性婚だとか夫婦別姓だとかいった感じのリベラル系アジェンダも通りやすくなる情勢になっていくことが当然予見されるわけですね。
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どーなることやら?って感じの選挙結果でしたけど、ここ数回の記事を書いて、どれも結構好評に受け止めていただいてるうちに、だんだん「これからの日本」が明確に見えてきて僕個人は安心してきましたね。
それどころか、自分が10年前に書いた本から一貫して予言してきたような方向に着地しつつあるのでは?という希望すら感じるようになってきた。
最左翼層と最右翼層が極小政党として分離していき、分厚い中道路線の中で現実的な施策を積んでいこうとする新しい共有軸が明確になれば、社会が果てしなく両極分化していく欧米社会の課題を乗り越える新しい希望の旗を実現しつつ、あまりに国家主導でない自由な経済的繁栄の狭い回廊を通り抜けることも可能な情勢になっていくでしょう。
今まで、「日本国の古来の共同体」のパワーでなんとか現実が破綻しないように握りしめてきた情勢が「ゆるんで」しまうわけなんで、不安感を感じている人は沢山いると思うんですよね。
でもその先で、「ちゃんと”個人の尊厳”みたいなものも尊重」したりしつつ、その上でも現実的な中庸路線の具体的議論は吹き飛んでしまわない情勢を作っていけるようになったのだ・・・というようにポジティブに捉える感覚が、私の数回の記事などから伝わっていただければ幸いです。
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長い記事をここまで読んでいただいてありがとうございました。
ここからは、ある、自民党の落選した議員で、「いかにも古いタイプの自民党議員」って感じなのかなという印象だった人が、落選後の行動としてかなり「いいなあ」と思うエピソードを聞いて、単純にイメージで判断しちゃいかんな、という気持ちになった話を、一種の懺悔として聞いてほしいと思っています。
そういう「古くから伝わってきた自民党議員の流儀」の中にポジティブなものがあるとしたらそれはどういうものか、みたいな話ですね。
そして、アメリカ大統領選の最後に「敗北者側のスピーチ(コンセッションスピーチ)」が行われる伝統があった事が最近グダグダになってるのがアメリカの最近の混乱を作っているのでは、という話もします。
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2022年7月から、記事単位の有料部分の「バラ売り」はできなくなりましたが、一方で入会していただくと、既に百個以上ある過去記事の有料部分をすべて読めるようになりました。これを機会に購読を考えていただければと思います。(これはまだ確定ではありませんが、月3回の記事以外でも、もう少し別の企画を増やす計画もあります。)
普段なかなか掘り起こす機会はありませんが、数年前のものも含めて今でも面白い記事は多いので、ぜひ遡って読んでいってみていただければと。
ここまでの無料部分だけでも、感想などいただければと思います。私のツイッターに話しかけるか、こちらのメールフォームからどうぞ。不定期に色んな媒体に書いている私の文章の更新情報はツイッターをフォローいただければと思います。
「色んな個人と文通しながら人生について考える」サービスもやってます。あんまり数が増えても困るサービスなんで宣伝してなかったんですが、最近やっぱり今の時代を共有して生きている老若男女色んな人との「あたらしい出会い」が凄い楽しいなと思うようになったので、もうちょっと増やせればと思っています。私の文章にピンと来たあなた、友達になりましょう(笑)こちらからどうぞ。
また、この連載の趣旨に興味を持たれた方は、コロナ以前に書いた本ではありますが、単なる極論同士の罵り合いに陥らず、「みんなで豊かになる」という大目標に向かって適切な社会運営・経済運営を行っていくにはどういうことを考える必要があるのか?という視点から書いた、「みんなで豊かになる社会はどうすれば実現するのか?」をお読みいただければと思います(Kindleアンリミテッド登録者は無料で読めます)。「経営コンサルタント」的な視点と、「思想家」的な大きな捉え返しを往復することで、無内容な「日本ダメ」VS「日本スゴイ」論的な罵り合いを超えるあたらしい視点を提示する本となっています。
また、上記著書に加えて「幻の新刊」も公開されました。こっちは結構「ハウツー」的にリアルな話が多い構成になっています。まずは概要的説明のページだけでも読んでいってください。
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倉本圭造のひとりごとマガジン
ウェブ連載や著作になる前の段階で、私(倉本圭造)は日々の生活や仕事の中で色んなことを考えて生きているわけですが、一握りの”文通”の中で形に…
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