日本人が異国でぶつかるのは、言語の壁ではなく、意見が合わないことを前提にコミュニケーションする文化の壁

日本人が海外で生活をしてぶつかる壁って言語が大きいと言われるのですが、実はそれ以上に、意見が合わないことを前提にコミュニケーションをする人たちの中に馴染めないことなのではないかと思います。私たち日本人は意見が合わないことを前提にコミュニケーションするという文化で生きてこなかったからです。

海外に行くサッカー選手の場合、もちろん言葉が通じないことによる弊害はプレーする上でたくさんあります。監督が何を言っているのかわからない。チームメイトが話す内容が理解できない。そうなると苦しいのは当然です。

しかし、ピッチに出たら勝利を目指す為にやることは決まっているのです。自分の良さを表現して、勝利に貢献して、チームに認めてもらうことです。これがすごく重要なのですが、日本で生きてきた我々日本人にとって、この自分を表現するということがなかなか難しいのです。

サッカーはたくさんのコミュニケーションが求められます。俺が俺がと貪欲なチームメイトは、当然のことながらあらゆる要求をしてきます。パスを出すタイミング、裏へ抜けるタイミング、サポートの動き方、ディフェンス時のポジション調整…etc、言葉が分からないことなんてお構いなしにぐいぐい要求してきます。

自分の求めていることを明確に意思表示できないと、パスなんて回ってきません。言葉が通じなくても、意思表示ができないと存在がないものにされます。どんなに技術があっても、パーソナリティを表現できなければ彼らは認めてくれません。

これはサッカーだけの話ではなく、日常のあらゆる局面、仕事でも同様だと思います。

コミュニケーション文化の差

彼らのコミュニケーションの取り方は、日本と比べると極めて直接的です。イエスかノーかを相手に求め、自分と意見が違ってもストレスなく話を発展させていく。それがデフォルトの文化なのです。みんなそれぞれ個性があってスタイルが異なるのは当たり前、意見が合わないのも当たり前だよねという文化です。

(※海外・外国人と抽象度が高いので補足させてください。私が経験した文化圏は主に南米中心のスペイン語圏、アメリカ、イギリスなどの英語圏なので、当然例外もあるということをご理解ください。)

それに対して、日本人のコミュニケーションの取り方は、意見が合わない場合、相手に無理やり合わせて、その場をやり過ごすか、排除されるか(いじられる)のどちらかが傾向として強いと思います。これは日本に蔓延する同調圧力の影響だと思います。周りの意見に合わせないといじめられる。出る杭は打たれる。

そんな傾向が強い日本で育った私たち日本人は、意見が合わないことを前提にコミュニケーションする文化の中で適応するのは大変なことなのです。

私は言語の壁よりもコミュニケーション文化の壁の方が大きいと思います。

自分を表現する力はとても大切

私が海外で生活して痛感したのは、自分の意思を表明することの大切さです。日本と違って、誰も空気を読んでくれません。意思を表明しなければ誰も振り向いてくれませんでした。

私が研究しているサッカーにおいては、ことさら意思表示することは重要なのです。

以前、日本で行われたジュニアユースの国際大会を取材したときの話です。

アルゼンチンの名門、ボカジュニアーズの14歳以下と日本の選抜チームの試合を見たときのことです。試合を見ていて強烈に感じたのが、技術の差などではなく存在感の差です。

ピッチで自分を表現しようとする選手たちが圧倒的にボカジュニアーズの子たちの方が多かった。感情の発露、大人の審判への猛烈な抗議、あからさまな時間稼ぎ…それはもうやってるサッカーが全然違うわけです。どんなに泥臭くても自分を表現して勝利をもぎ取ろうとする強い情熱を感じました。今でもあのピッチにいたボカジュニアーズの子たちの表情は思い出すことができます。それほど存在感があったんです。

日本という国、社会は周囲の人と同じことが正解だと強く思い込まされているような気がする。しかし、みんなと同じであることが正しいという同調圧力は個人の可能性を喪失させる側面がある気がするし、みんなと違うことに勝機があると気付きにくいことは損失だなぁと個性が輝くユース年代の子供たちを見て改めて強く感じた。

日本人に求められるのは自己表現力

きっと、日本の子どもたちに足りていないのは、技術や戦術以前に、自分を表現する力なのだと思うのです。

日本の教育は子どもたちの自己表現を制御する傾向があります。

周りに合わせないといけないよ。みんなと同じようにできるようになろうね。みんなと違うことしちゃダメだよ。って自分に最適化するのではなく、周囲に最適化する教育になってしまっているのです。極めて全体主義な教育だと思います。

子どもたちが、自分を表現することができるようになる為に、私たち大人が気をつけるべきなのは「教える」ことよりも「引き出す」ことなのだと思います。

子どもたちにサッカーを教えていて感じることがあります。子どもたちが、自分をどう表現して良いか分からなくなってしまっていることです。負けて悔しい。勝ちたくてしかたがないという時の感情がなかなか表に出せないのです。

日常的に感情表現を抑制されてしまっているからか、自分自身を解放することができないのだと思います。
サッカーを教えるときも、まずは子どもたちの感情を引き出すことからはじめなければなりません。

これからは国境という概念が徐々に溶けていく可能性が高いと思います。島国日本にも多くの外国人が行き来するようになり、海外へも簡単に行けるようになりました。

コロナウイルスの影響でこれまでより気軽にいけなくなる可能性はありますが、テクノロジーの発展により、翻訳技術は目まぐるしく上がり、オンラインのみならずオフラインでも言語の壁は少しづつなくなっていくはずです。そうなると、言語の壁よりもコミュニケーションの壁が課題になると思います。

自分を躊躇なく表現するマインド、意思を表明するというマインドを育みながら、多様性を前提にしたコミュニケーションが取れるように教育をアップデートしていく必要があるのだと思います。

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