きっと、ひねくれている人は繊細なんだと思う。
自分はひねくれているな、と思う。
みんながイエスと言うと、ノーと言いたくなるし、みんなが同じ方向に行くと、反対に行きたくなる。
そんなひねくれた自分自身を人生経験を重ねるにつれて、肯定することができるようになってきたように思う。
でもなぜ、こんなにもひねくれているのだろうか、と考えると、あぁ自分は人と同じことができないコンプレックスがあるんだなぁ、だからひねくれないといけなかったし、ひねくれたことによってなんとか生きてこれたのかもしれないなと思う。
みんながイエスと言うと、そのイエスだとちょっと自分はやっていけないかもれないと思っていたし、みんなが行く方向に向かってしまうと、自分は上手くやれなそうだなと思うことが多かった。
だから、ひねくれるしかなかったように思う。
誰よりも不器用で、普通の人達がやれることができない子どもだったし、それは大人になってからもそう変わらないように思う。
だから同調圧力が嫌いだったし、それによってないがしろにされる人を見るのも嫌だった。
でも、若い頃の自分は、都合の良い時にその同調圧力を利用していたこともあったし、低俗で脆い子どもだった。
弱さと脆さを隠しながら、泥臭く、誰かを傷つけながら、自分が傷つかないように生きてきた。
振り返って考えてみると、繊細であるがゆえに、ひねくれていったんだろうなと思う。
みんなと同じものを同じように見ることができない代わりに、みんなと同じものを、少し異なる視点で見ることができるようにも思う。
みんなと同じことができない代わりに、みんなとは少し異なるやり方でできることもあるように思う。
なぜなら私は、不器用で繊細だから。
「繊細で敏感なあなたは、この国で生きるのは大変よ」
「みんなが気にしないことを、気にしてしまうあなたには日本は大変よね」
最近、異国に住む方と話をする機会があって、立て続けにそのようなことを言われて掲題のテーマを考えている。
きっと、ひねくれている人はみんな繊細なんだと思う。
そして、繊細であることは、普通の人が気がつかないことに気がつき、言語化する力を持ちやすいようにも思う。
普通にできないからこそ、ひねくれなければ生きていけないから。
人生を38年生きてきて、違和感を感じることができることはとても大切なことだと思う。
そしてその違和感をそのままにしないこと、社会と自分の距離を詰めすぎないこと、誰かの為の自分ではなく、自分の為の自分をつくっていくこと。
そのように自分がつくられて、本当の意味で社会の中の自分の居場所を見出せるようになるように思う。
でも、そのようなことはあまり教わらない。
同調圧力も強く、出る杭は打たれてしまう空気感が強い社会では、どうしても長いものに巻かれた方が楽だし、そのように世間に適応してしまうと、おかしいことに気がつけなくなっていく。違和感を感じなくなっていく。
みんながそうしてるから、それはそういうものだから、伝統だからと。
でも、そのようにしてないがしろにされてきた人やものがある。
それを、私はそのままにしておきたくない。
不器用でひねくれている私にしかできないことはきっとある。
ひねくれている繊細な自分を肯定していくために。
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