見出し画像

つれないつり(8) イワナ

大野の白く長い冬が揺らぎ始めると、渓流釣りは解禁になる。

大野に通って1年ほどになった。地元に何人かの友人ができた。彼らは釣りを始めて数ヶ月なのに、すでにイワナを釣っているという。しかも、一匹や二匹ではなく、二桁を越えていた。私はまだ一匹も釣ったことがないというのに。地元だから何度も行けるとはいえ、私も数回行っている。しかし、釣りの経験は私の方が長い。イワナは地元の人間にやさしいのか。山に住む人の感覚がイワナを釣らせるのか。何はともあれ一緒に釣りにいこうということになった。

春の川に入るためにはウェーダーが必要になる。大野に1軒しかない釣具屋に足を運んだ。がらんとした店内には妙に艶かしい老女が店番をしていた。緑の髪の色で胸元の開いたドレスを着て、きちんとメイクをしている。釣具屋とスナックでも兼業しているのだろうか。そう考えると両方水商売ではある。狭い店内の隅でウェーダーが埃をかぶっていた。腰までのものと、オーバーオールのように胸までのものがあった。腰までのものが安かったので買った。今年の遊魚券も買った。

行った場所は雲川だった。アブの強襲を受けた場所である。恐怖のアブはいなかった。アブは夏にだけ発生するそうだ。集まったのは6人と多かった。細い川なのでこれだけ人数がいると釣り場も少なくなる。2組に分かれ、私を含む1組は下流へ、もう 1組は上流へと向かった。初めてウェーダーを着ておそるおそる川に入った。春の川なのに冷たくない。ウェーダーが完全に水を遮断している。ブーツの底にフェルトのソールがついていて、サンダルのようにツルツルとすべることはない。川の中をこんなに自由に移動できるものなのか。ウェーダーを早く買えばよかった。

「釣れた!」

Hの声が聞こえた。大きな石がゴロゴロとする足場の悪い河川敷を歩いて声の方へと近づいた。銀色のものが見えた。15センチほどのイワナだった。真近で見る初めてのイワナだった。背中は銀と黒と緑が混ざった不思議な光沢を帯び、だんだんと腹にかけて白くなり、腹は無防備なほどに白い。全身にはまるでポール・スミスのシャツのような、かわいく、規則正しい、白い水玉模様が重なっている。腹の方はまるでイワナ が恥ずかしがっているかのような、紅色の水玉模様が混ざる。海、池、湖と今まで魚を釣ってきたが、あきらかに色彩の系統が違う。神は魚の着色において、渓流ではまったく違う方法を試したのだろうか。なんと美しい色なんだろう。

ほどなくKも釣り上げた。同じサイズのイワナだった。これだけ釣れるということはイワナは天然記念物ではないということだ。あとは私だけである。イワナはいる。でも、釣れない。ポイントを探そうと水の中を歩き回っていると急に足に冷気を感じた。水温が変化したかと思ったがあまりにも急激である。ウェーダーに水が浸水した。安物を買うべきではなかった。こんな足が冷たくては釣りにならない。岸へ上がって釣ることにした。

まったく釣れる気配がない。よく見ると、みんなは赤や緑などの色付きの糸を使っていた。だからどこにルアーが着水し、どこを流れているかわかる。私は透明の糸を使っていた。イワナは釣り人の気配を機敏に察するという。色付きの糸だとバレてしまうと思っていた。ただでさえ細い渓流釣りの糸は見えにくいのに、早い流れにルアーを乗せる、白波が立つ瀬にルアーを投げ込むといったことが多い。糸の色が透明だと、糸が背景に溶け込み、ルアーがどこにいったかわからない。着水のタイミングも音や、なんとなくの感覚で察知していた。確かにこれではルアーのアクションに差は出る。さらに、私は相変わらずスプーンを使っていたが、2人ともミノーを使っていた。ミノーとは小魚を模したプラスティック製のルアーである。小指ほどの小さなミノーを使っていた。こんな渓流でミノーで釣れると言うことにびっくりした。ミノーはブラックバスや、スズキのような獰猛なフィッシュイーターたちに使うものと思っていたからだ。渓流と言えばスプーンというのが頭の中にずっとあった。イワナという小さな魚に対して、より小さな魚を食わせるのか。ミノーなどまったく持ち合わせていない。

私たちは細い支流へと登っていった。藪のトンネルを抜け、人が一人歩けるかのかの細い流れを上がっていくと、視界が開け、落ち込みがあった。その下は直径5メートルほどのプールになっていた。

「ここ絶対釣れますよ。はじめにどうぞ」

Kが一投目をお膳立てしてくれた。

「ミノーなら絶対釣れますから、貸しましょうか?」

さらにもう一つお膳がやってきた。KとHが見守るなか、スプーンをミノーに差し替えた。見られている、待たしていると思うと焦って手元が狂うものである。何度か失敗をしてようやくミノーをセットをした。

私はミノーを投げた。ポイントのずいぶん手前に落ちた。緊張してうまく投げられなかった。もう一度、挑戦する。今度は強めに投げた。すると、落ち込みのはるか上の木にひっかかってしまった。力が入りすぎてしまった。高校の時、私はテニス部だった。大事なポイントがかかった時のサーブを思い出した。今回はダブルフォルトだ。そう、私は本番に弱かった。

ひっかかったミノーを回収しに行くと魚にバレてしまう。ミノーは絡まったまま、Kに次を譲った。すると、魚がヒットした。20センチほどのイワナが釣れた。その後、Hは18センチのイワナを釣った。その後、私はルアーを回収した。

それからしばらく釣りを続けたが結局、私は何も釣れなかった。KとHで3匹ずつ釣り上げた。下流に行ったグループもそれぞれ2匹ずつ釣れたようだ。ボウズは私だけだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?