見出し画像

つれないつり(3) ガシラ

Sがカヤックを買った。釣り用のカヤックである。Sは釣りを始めたばかりで糸の結び方も知らず、満潮も干潮もよくわかっていない。それがいきなりカヤックを買った。固定電話もないのに、ポケベルも飛び越えて、いきなりケータイを持ったマサイ族のような技術の素っ飛ばし方である。釣りには順序というものがある。まあ、それはさておき、彼はカヤックを買った。さっそくカヤックで釣りに行こうということになる。ぼくはカヤックをレンタルした。10月頃だった。

カヤックは背丈ほどの長さである。中央に背もたれがついた椅子がある。その椅子に足を伸ばして座る。椅子の後ろには荷物を置く場所がある。そこにクーラーボックス を積んだ。椅子の後方の船体に穴が空いていて、竿をそこに入れて立てておく。マダイ狙いの仕掛けと、いろんな魚種が狙える軽めの仕掛けの2本を穴に入れた。突き出た2本の竿は昆虫の触覚のようだ。最悪の場合、海に落ちてもいいように、上にラッシュガード、下に海水パンツ、その上からレインコートの上下を着て、ライフジャケットを羽織った。準備は万端だ。

砂浜からカヤックに乗り込んだ。波が押し寄せて離岸できない。パドルで底を突いて強引に前へ進んだ。波打ち際さえ越えるとスムーズに動いた。パドリングをする。フォームも手順もめちゃくちゃだが、カヤックは動く。水面を滑るように動く。大海原を自分の力で動いていくのは気持ちがいい。カヤック フィッシングとは釣りの楽しみにカヤックの楽しみが加わったものである。釣れなくてもカヤックを楽しんだと思えばいいではないか。しかし、カヤックとはこんなに不安定なものなのだろうか。少しバランスを崩すと傾いて海に落ちそうになる。これほど簡単に落ちるわけはない。私が慣れないからそう思うだけできっとこういうものなのだろう。現に横を走るSはスイスイと漕いでいる。

「カヤックってグラグラする?」

「めっちゃ安定してる」

なるほど。この感覚がカヤックにおける安定という感覚なのか。慣れるしかない。沖に出てみたものの、うねりがあり、転覆が怖いので、自分は戻って岸近くで釣りをすることにした。Sはそのままそこへ残った。落ちないようにとバランスに気を配りながら磯に近づく。浅くなってきたからか、底が見えてきた。岩がたくさん沈み、水草も生えている。釣れそうな雰囲気だ。パドルをしまい、竿を手に取った。エビ型のワームを底に落として、底を感じながらちょんちょん動かす。これはブラックバスで培った釣り方だ。数回投げると、ガツンとアタリがあった。引き応えがある。リールを巻く。魚は暴れないが水の抵抗がある。デカイかもしれない。グリグリと強引に巻いた。ふわふわと赤い魚が浮き上がってきた。ガシラだった。カヤックの甲板に引き揚げた。サイズを測ってみると31cm。ガシラ(通称カサゴ)にしてはとても大きい。今までたくさん釣ったが、これは確実に自己ベストだ。

このあたりは岸から投げても届かない。船が入るには浅すぎる。カヤックしか入れない。だから、大きなガシラが釣られることなく残っていたのだろう。針を外し、防水ケースに入ったスマホで撮影をした。ガシラを後ろのクーラーボックス に入れようと体をねじった。カヤックが大きく揺れた。バランスを取ろうと逆に体重をかけた。今度は体重をかけた方に大きく傾いた。逆に体重をかけた。もう間に合わなかった。カヤックはひっくり返った。ぼくは水中に落ちた。慌てて体を動かした。しかし、体が思うように動かない。体に浮力があった。ライフジャケットを着ていたからだ。そうか、ぼくは溺れることはないのか。心を落ち着けゆっくりと水面に顔を出した。カヤックに近づいて、それをつかんだ。大きいものにすがると心は安定するものだ。一息ついていると水中に気配があった。驚いて下を見た。釣ったガシラが泳いでいた。自分が今、どこにいるのか確かめていた。水中にいることがわかると慌てて底へと泳いでいった。そして、そのまま見えなくなった。それを追いかけるように2本の釣り竿が沈んでいった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?