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2020年の顔認証と1974年の自動車

先日配信された『Lobsterr Letter vol.52』で岡橋惇さん(Twitter: @AOkahashi)が書いていたことと、僕がいま読んでいる本で紹介されていた経済学者・宇沢弘文の言葉が、時代を超えて共鳴していた。そのことについて少し考察しておこうと思う。

岡橋さんは、保育施設で広がっている顔認証システムから監視資本主義社会へと話を展開しつつ、次のように書いている。

保護者たちは気に入った写真があれば有料で購入できるようになっている。このアプリには画像認証技術が使われており、子どもたちの顔は自動的に識別され、未購入の画像には"SAMPLE"というウォーターマークがかけられる仕様になっている。
〈中略〉
今後テクノロジーと政治の力によって人々の営みはデータ化され、世の中がより監視資本主義的な価値観を受け入れていく流れは不可逆的なのだろうか? ぼくらの子どもたちは「秘密のない」人生を歩んでいかないといけないのだろうか?

イギリス人SF作家のダグラス・アダムスは「人は、自分が生まれたときに既に存在したテクノロジーを、自然な世界の一部として感じ」、常識として受け入れると論じているが、ぼくは監視資本主義が息子の常識になってほしくないと切に思う
<Lobsterr Letter vol.52: Outlook『Life with Secrets マイクのひみつ』>

顔認証システムが生み出そうとしている監視資本主義社会への違和感と、それが子どもたちにとって当たり前になってしまうことへの抵抗感が綴られている。

一方、日本が高度経済成長期と呼ばれた時代を海外で過ごした経済学者の宇沢弘文は、帰国後に東京の車社会を目の当たりにしたときのショックを次のように書いている。

わたくしは十年間ほど外国にいて、数年前に帰国したが、そのときに受けたショックからまだ立ち直ることができないでいる。はじめて東京の街を歩いたときに、わたくしたちのすぐ近くを疾走する乗用車、トラックの風圧を受けながら、足がすくんでしまったことがある。東京の生活になれるにつれて、その恐怖感は少しずつうすれていったが、いまでも道を歩いているとき、自動車が近くを追い越したりすると、そのときの恐怖感がよみがえってくる。子どもたちはじきになれてしまって、あまり苦にしなくなったようであるが、毎日学校から帰ってくるまで、交通事故にあわないかと心配することが現在までつづいている
〈『資本主義と闘った男 宇沢弘文と経済学の世界』(佐々木実)(373-374頁)から孫引き。オリジナルは『自動車の社会的費用』(宇沢弘文)のまえがき〉

この文章は1974年に発表されている。2020年のいま岡橋さん(僕も同じ思いだ)が感じている監視技術への抵抗感と、およそ50年前に宇沢弘文が自動車に感じた抵抗感は同種のものだろう

僕はいま、自動車を「自然な世界の一部として」受け入れている。それはダグラス・アダムスが指摘したように自動車は僕が生まれたときから既に存在していたからだろう。しかし、宇沢にとっては自動車は新しいテクノロジーだった。僕たちにとっての顔認証システムのように。

僕たちは顔認証システムのような(利点は認めつつも負の側面へは抵抗を感じる)テクノロジーを前にしたとき、どう対処したらよいのだろう。子供たちが「自然な世界の一部として」受け入れていく過程をあきらめながら眺めているしかないのだろうか。

対処の仕方のひとつの形を宇沢弘文は教えてくれている。

先に紹介した言葉は宇沢の著書『自動車の社会的費用』(1974年)のまえがきに書かれている。この本で宇沢は、自動車の登場により発生した様々な社会的費用(社会全体や車に乗らない人も含めた第三者が負担している費用)を明確にし、具体的に試算した。そこには、自動車を中心とした都市整備費用はもちろん、環境破壊、公害、交通事故などによって人々が被っている損失も含まれている。

車の売り手と買い手の間での取引(マーケット)が満足しているからといって経済的に正当であるというのは間違いであり、「取引に関与しない人々や社会が被る不利益(外部不経済)が常に考慮されなければならない」ことを宇沢は自動車を例に明確に社会に示した

公害や多発する交通事故が多くの人々にとって切実な問題となっていた当時の日本で、この本は広く読まれ、社会に影響を与えた。その後、公害や交通事故を防ぐための多くの規制が設けられて、現在の自動車社会はかつてよりも「マシな」社会になっているはずだ。

僕たちはいま町に車が走っている世界を当然のものとして受け入れているけれど、それはただ安易に新しいテクノロジーを受け入れた世界ではなく、改善された、マシな世界である。それは多くの苦しんだ人々や、宇沢のような闘った人々の努力の上にある世界である。

新しいテクノロジーを社会に生み出すときは、そのテクノロジーによって社会が強いられる負担を社会的費用として広く検討し、その費用を新しいテクノロジーによって利益を得る人々が負担する(社会的費用の内部化)ことが必要であると宇沢弘文は教えてくれている。

顔認証システムという新しいテクノロジーは社会を便利にしたり、安全にしたりといった多くの利益をもたらすだろう。一方で、岡橋さんが危惧するように監視資本主義社会を作りあげる要素にもなる。顔認証システムによって生まれる不利益(監視される苦痛、プライバシー権の侵害など)を社会的費用として広く検討、社会で共有し、その費用を企業など利益を得る人々に負担してもらうことが必要だろう。

そうすることで、多くの不利益をもたらす場合にはその分だけ多くの費用をその企業が負担することになるので、資本主義の暴走を防ぐことにつながる。多くの公害問題のように発生したあとから裁判などによってその費用を還してもらうのではなく、事前にそのテクノロジーに費用として組み込む努力を続けることが重要で、僕たちはそれを求め続けなければならない。

テクノロジーの進歩を止めることは不可能だ。このことは歴史が教えてくれているし、多くの科学者もそう考えている。それでも宇沢は将来子どもたちにとって常識となる自動車というテクノロジーを安易には受け入れず抵抗した。そしてその抵抗には意味があった。

僕たちは、いずれそのテクノロジーが常識になるのだとしてもあきらめてはいけない。抵抗には意味がある。新たなテクノロジーをより良い形で社会に取り入れ、少しでもマシな社会を作るために。

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中村 佳太|エッセイスト,コーヒー焙煎家
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