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# 104_「当時者兼つくり手」の定義について教えてください

 当事者に関して言えば、なんらかの問題を自分に直接的に関係することとして捉えている人であり、かつ、つくり手であるというのは、その問題に対してつくるという行為を通じて寄り添っている人と定義しています。つまり、一般に言う「当事者」や「つくり手」の定義とは異なる「当事者兼つくり手」という対になって成立する造語、独自の定義された言葉です。
 そして、その当時者兼つくり手という見方において、FabBiotope2.0で募集する弱視者の方とエンジニアの方は、いずれも当事者でありつくり手であります。本プロジェクトで募集するそれぞれの像に関して、別途詳細を回答する文章[1]がございますので、そちらも参照いただきたいのですが、前者であれば自らの生き方をつくっている弱視の方、後者であれば自らが真に生きるためにエンジニアリングを実践しているエンジニアの方を本プロジェクトでは募集しています。前者であれば「当事者」が前景化していますが、実は「つくり手」であるのだと強調したい。後者であれば「つくり手」が前景化していますが、実は「当事者」であるのだと強調したい。
 自らの生き方をつくっている弱視者の方は、目の見えづらさを起点にそれぞれの個別の課題が立ち現れ、課題というのはそれぞれ違うのだけど大まかな括りとしては目の見えづらさを起点とした問題の当事者である。と同時に、生き方をつくっている弱視者の方は、自らのそれぞれの工夫によって自らが一人でできることを増やし、また他者との創造的な協働を試みている。そのなんらかの「工夫」それ自体が、私にはつくっている行為に映ります。場合によっては、いわゆる美術教育を受けたクリエイターよりも、自らの生き方をつくっている弱視者の方が本質的に創造的である、つくり手であると感じることが少なくありません。そういった意味で、一般的なつくるという行為からは外れるかもしれませんが、自らの生き方をつくっている弱視者は当事者でありながら「つくり手」であると言えると、そう考えています。
 次に、後者の真に生きるためにエンジニアリングを実践しているエンジニアに関しては、エンジニアリングがなにかを生み出す行為であるという点においてそれはクリエイションであり、その実践者はつくり手であると言ってよさそうです。では、どういった意味で「当事者」なのか、それを考えるために「真に生きる」あるいは「死なない」ためのつくる行為、と私が言っているそれはなんなのかについて追っていくことで、見えてくるものがありそうです。
 ここからは私自身の世界に対する認識のような話になっていってしまい、根拠部分が弱くなっていってしまいますが、まず前提として、今、私たちが生きている社会は真に生きる、自らの本来性を失うことなく生きる、誰かの(あるいは、なにかの)大きな物語の一部ではなく、自らの小さな物語を持って、多義的な存在のままに生きるということが、とても難しくなっていると考えています。そのことに自覚的になっている人たちというのはもちろんいて、それぞれがそれぞれの方法を持ってして、それに立ち向かっているように見えます。
 そして、私の場合のその問題への応答の在り方のひとつが「つくること」なのです。つまり、本質的には誰もがなんらかの当事者なのです。それは所謂なんらか定義のある社会的マイノリティである場合に限りません。もちろん、そうである場合もあります。しかし、その分類的なものは問題ではないのです。つくることによって、それぞれの個別の現実が生起する可能性があると考えているのです。自分ではどうしようもできないと思っていた問題に、まずそれ自体の存在をはっきりと認識し、解決するものとして接するのではなく、つくることによって寄り添い続けるという姿勢あるいは態度が、当事者でありつくり手であるという状態なのです。つくることによって自らの現実が立ち上がり触れられるようになる。問題と寄り添い続ける、それと共にいることが可能な自分だけの小さな物語を紡ぎ続ける。その自分自身と、その問題が共にいることを俯瞰的に見ていることが、当事者としての自覚を持つことができている状態なのです。
 工業化の時代に入って、つくる行為が分業化された後、今、主には情報技術を中心に民主化が行われ、個人がつくることや、またそれによって経済圏を形成することのハードルが低くなっています。つくり手になりやすい環境ができ、日々それが更新されている世界として今の時代を読むことができそうです。しかし、そのそもそもの目的と言いましょうか、なんのためにつくるのか、もしそれが不在のままつくり続けるならば、一見、自らの意志でなにかをつくっているように見えて、それはまた新たな大きな物語に包まれて、自らがつくっているような錯覚の中で、実はその大きな物語の一部としてつくらされている、という不可思議な状況に陥りかねません。
 つまり、このつくることが民主化された時代において重要なのは、ひるがえって「当事者性」なのではないかと考えているのです。小さな問題の解決、その多くは効率性の向上につながっていきます。その効率性を上げるための問題の解決ではなく、短期的には解決不可能な大きな問題でありながら至極個人的な問題と自らが寄り添っていくために、つくることが民主化された環境を使う。それは、ある種、美学の問題かもしれませんが、今この時代におけるそれが重要なのではないかと考えているのです。
 そして、その当事者としてつくるという超個人的なつくる行為によって生まれた知が、同じような問題を抱える自らに似たような人たちに届く。超個人的なその実践によって小さな公が、個人的であることと普遍的であることが、ぴったりと重なるサイズの空間が生まれる。おそらく、それが真の経済圏と言えるものになるでしょう。
 そのようにして、まず本テキスト内で指した二種類の当事者兼つくり手の方を本プロジェクトの参加者として募集し、参加者個々人が持っている自立のための方法論を抽出する実践をしていただきたいと考えております。この詳細も別の回答文[2]で紹介しております。その次の段階として参加者同士の協働による発明の実践に移っていきます。そこには、また、別種の新たな難しさが立ち上がってくるでしょう。その難しさに取り組んでいくのが、FabBiotope2.0の中心にあるものだと言っていいかもしれません。
 そして、その実践の積み重ねの先に当事者兼つくり手のネットワークが、協働してつくるというコミュニケーションの回路を持った新たな共同体が、立ち現れてくるのではないか。その地道な実践の積み重ね、それによる共同体の醸成によって造形可能な社会、手触り感のある社会というのが生まれてくるのではないか。そして、その社会像において、当事者兼つくり手がそれぞれの問題に寄り添い続けてきたこと、また、それぞれの関係性が編まれ、寄り添える問題の幅が広がること、その強度が高まること、それによって、今まで存在しえなかった個別性や多様性がありのまま在る、ということが少しずつ実現していくのではないか。あなた自身が持っているあなたにとっては大きくて、しかし個人的な問題というのは、ある視点において、つまり、つくり手として接する場合においては、個別性や多様性を発明する種になりえるかもしれない、ということなのです。

[1] 「なぜ対象が弱視者なのですか?」と、「なぜ対象がエンジニアなのですか?」の章を参照のこと
[2] 「FabBiotope2.0に参加する弱視者は、どのような実践をするのですか?」と、「FabBiotope2.0に参加するエンジニアは、どのような実践をするのですか?」の章を参照のこと

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Keisuke Shimakage

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