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行動経済学の学び方:室岡健志 インタビュー

はじめに

編集部 この note では、行動経済学を学ぶうえで、室岡健志『行動経済学』をどのように活用できるか、著者である室岡先生ご自身に、目的別に伺っていきます。

本書は、行動経済学を伝統的な経済学の発展・拡張と位置付け、その理論・応用・実証を体系的にまとめたものですが、今回は大きく以下の3つのケース、に分けて、それぞれ詳しくお話をいただきます。

  1. 学部生や研究者を目指さない修士課程の学生の方々は行動経済学をどのように学ぶのがよいか

  2. 学術論文の出版を目指す場合はどうか

  3. 実証・実験研究を専門とする方々が本書で学べる理論をご自身の研究や学習にどう生かせるか

行動経済学の理論の学習に本書がどう使えるか、実証分析や実験において、本書で学べる理論がどう活かせるか、さまざまな目的にあわせてまとめていきます。

室岡健志『行動経済学』日本評論社、2023年刊、
A5判、260頁、税込2750円
サポートサイト」では追加情報なども提供中!

本書は、第66回日経・経済図書文化賞を受賞しました
また、『週刊ダイヤモンド』の2023年ベスト経済書・第1位にも選出

■ プロフィール

室岡 健志 さん(むろおか・たけし)

2007年、筑波大学第一学群社会学類卒業(経済学主専攻)。2009年、東京大学大学院経済学研究科修士課程修了。2014年、カリフォルニア大学バークレー校経済学部博士課程修了(Ph.D. in Economics)。ミュンヘン大学経済学部Assistant Professor、大阪大学大学院国際公共政策研究科准教授等を経て、2024年4月より大阪大学社会経済研究所教授。
著書『行動経済学』(日本評論社、2023年)が、第66回日経・経済図書文化賞を受賞。また同書は、『週刊ダイヤモンド』の2023年ベスト経済書、第1位に選出された。

1 学部・修士課程:学術誌への出版を目指さないケース

編集部 まずは、学部生や修士課程の段階で、どのように本書を使って行動経済学の理論を学ぶことができるかについてお伺いします。

室岡 学術論文としての出版を目指さない場合、たとえばゼミで論文を書く場合、あるいはレポートや卒業論文を執筆する場合などを想定すると、「経済理論を拡張・応用する練習」にこの本が活用できると思います。ありがたいことに、行動経済学の理論に興味を持つ学部生や修士課程の学生の方々は一定数おられるようで、すでに本書をゼミなどで使っていただいた先生方から、「ある特定の理論をベースに、それを拡張・応用する練習をするための教材として本書が役立っている」とのフィードバックをいただきました。この使い方は自分では想定していなかったのですが、なるほどと感じました。たとえば、既存の教科書に載っている標準的なモデルに対して、この本で説明している「近視眼性」や「合理的期待に基づく参照点依存」、あるいはErnst FehrとKlaus Schmidtの「公平性(不平等回避)」[1] などを組み入れたら結果や含意がどう変わるかを考えてみるという学び方が、よいエクササイズになるようです。

[1] Fehr, E. and Schmidt, K. M. (1999) “A Theory of Fairness, Competition, and Cooperation,” Quarterly Journal of Economics, 114(3): 817–868.

学術論文としての出版を目指す場合には、行動経済学的な要素を加えることで生まれる価値や新規性が必要ですが、学部の卒業論文やゼミ論文、あるいは修士論文でも学術誌への出版を目指さないのであれば、そうした貢献や新規性のある結果が得られなくても、まずはモデルの設定をきちんと理解し、行動経済学的な要素を正しく組み入れたモデルを書き、そのモデルを自分で解き切って、結果が元のモデルからどう変わるかをまとめるという作業から得られる学びは大きいはずです。

その際、本書を最初から通読する必要はありません。関心のあるトピックが含まれている部分をピックアップして、そこで説明されている行動経済学的な要素を伝統的な経済理論に組み入れたら一体何が起こるのかを考えてみる、という使い方ができると思います。

ただし、すでに確立された2つのモデルを組み合わせるというのは、簡単なことのようで実は難しい場合が多いです。特に、両者を整合的に定式化して解き切るのはなかなか大変です。学部生の場合、たとえば労働経済学の標準的なモデルに近視眼性を入れる際に、モデルを正しく定式化してそれを解くだけでも、かなり困難な作業になるはずです。この作業自体がトレーニングとして非常に有益ですし、もしおもしろい結果が得られれば学術論文の執筆を目指すこともできるかもしれません。

編集部 労働経済学以外の分野ではどんな例があるでしょうか。

室岡 異時点間の選択は、マクロ経済学や金融・ファイナンスでは非常に重要です。自分が興味のあるトピックと、近視眼性や投影バイアスなど異時点間の選択に関する行動経済理論の両方に興味があるなら、その両者を組み合わせたモデルを考えてみるのもよいと思います。

編集部 本書の第Ⅲ部で解説されている社会的選好などの「感情」の理論が結び付きやすい分野としては、何があるでしょうか。

室岡 たとえば、政治経済学で分析されている投票行動などは、感情の要素を入れた自然な拡張ができると思います。また、ゲーム理論においても公平性(不平等回避)などの要素が組み入れられて応用されることがあります。

編集部 政策としてたびたび話題になる減税や給付金への反応なども、行動経済学の要素を入れるとおもしろくなりそうです。

室岡 減税や給付金は、参照点依存を組み入れて応用されたりもしています。

編集部 課税や給付金が消費・貯蓄選択へ与える影響を考えるといったイメージになるでしょうか。

室岡 はい。たとえば、普段は月に30万円稼いでいる人がいるとして、何かの要因で出費を28万円から29万円に1万円増やさなければならなくなった場合と、30万円から31万円に増やさなければならなくなった(貯蓄を減らさなければならなくなった)場合で、異なる消費行動をとる人がいるかもしれません。そういう人の行動を、具体的にどんなモデルで分析できるかを考えるのも興味深いです。

また、フレーミング効果の枠組みで考えれば減税と給付金は別物とみなせるので、どんなモデルで両者の違いを分析できるかを考えるだけでも学習として有益ですし、減税や給付金などのホットな時事問題を想定した研究ができるのもよいと思います。世の中の理解を深めるという意味でも意義があるのではないでしょうか。

まとめると、卒論や修論などを書くための練習としては、まず自分の問題意識を定めて、標準的な理論モデルと、それに関連しそうな行動経済理論を組み合わせてきちんと定式化し、それを実際に解くことで何が見えてくるかを確かめてみることが重要です。この作業は、モデルを構築して解く練習という意味でも得られるものが多いはずです。また、いきなり学術論文を読んで、そこにあるモデルを自分の問題意識にあわせて修正するよりは取り組みやすいのではないかと思います。

2 修士・博士課程以降:学術誌への出版を目指すケース

編集部 次は、博士課程などで学術論文としての出版を目指す場合に、本書がどのように使えるかを伺っていきます。

室岡 学術誌への出版を目指す場合は、どんなに小さくてもオリジナルな貢献が求められます。そのために私がお勧めしたいのは、行動経済学的な拡張をする前の土台となる各分野の伝統的な理論をまずはしっかり修めることです。

本書では、行動経済理論を伝統的な経済学の拡張と位置付けています。学術論文の執筆を考えるうえでは、労働経済学なら労働経済学の理論、公共経済学なら公共経済学の理論をしっかりと修めてから、行動経済理論と組み合わせる必要があります。なぜなら、何が学術的に新しい知見なのかを判断するには、伝統的な理論に関する知識がどうしても必要となるからです。そのためにも、ご自身の興味のある分野をまずは1つしっかり学ぶことが重要だと思います。

行動経済理論だけを専門とするのは、不可能ではないかもしれませんが、実際にそういう研究者は少数だと思います。たとえば、行動経済学を組み入れたミクロ理論で国際的な業績を上げている研究者たちの多くは、行動経済学以外の分野でも学術論文の出版実績を持っています。行動経済学の理論の専門家になるには、行動経済学的な要素を入れていない理論分野でも学術論文を出版できるくらいの素地がないと難しいだろうというのが、個人的な印象です。これは私の博士課程における指導教員の2人、Botond KőszegiMatthew Rabinも例外ではなく、Kőszegiはキャリアコンサーン [2]、Rabinはチープトーク [3] の論文も出版しています。

[2] Kőszegi, B. and Li, W. (2008) “Drive and Talent,” Journal of the European Economic Association, 6(1): 210-236.
[3] Rabin, M. (1994) “A Model of Pre-Game Communication,” Journal of Economic Theory, 63(2): 370-391.

また、行動経済学以外に別の専門分野を1つ持っておけば、自分の研究の幅も広がります。たとえば、行動経済学と産業組織論の両方を修めると、行動経済学の研究者と産業組織論の研究者の両方と研究の話ができるようになり、議論できる人が増えてアイデアの幅も広がります。結果として、自分が研究できるテーマも増えます。この意味でも、行動経済学に加えてもう1つ自分の専門分野を持つのはお勧めで、学術論文の出版への近道にもなると思います。

編集部 室岡先生は、最初はどんな分野を専攻されたのですか。

室岡 実は、私自身の卒業論文と修士論文のテーマは社会的選好です。

編集部 いきなり行動経済学ですね。

室岡 いきなり行動経済学です(笑)。ただし、少しはオリジナリティのある修士論文を書いたつもりだったのですが、それをカリフォルニア大学バークレー校に留学するときに持っていったら、留学先ではそれはやめておこうとアドバイスされ、修士論文のプロジェクトは凍結させることになりました。

ただ、私は修士課程と博士課程1年目の最初は東京大学大学院経済学研究科に所属し博士課程1年目の夏から留学したのですが、幸運なことに、留学する直前の春学期に松村敏弘先生が担当されていた産業組織論の授業を履修したことで、松村先生と共著の論文を書き始めることができました [4]。また、その講義から着想を得て単著で論文を書き始めることもできました [5]。その後、産業組織論に行動経済学的な要素を組み入れるとどうなるかを考えることで、行動経済学を組み入れた産業組織論の論文の出版にもつながりました。

[4] Matsumura, T., Murooka, T. and Ogawa, A. (2011) “Randomized Strategy Equilibrium in the Action Commitment Game with Costs of Leading,” Operations Research Letters, 39(2): 115-117.
[5] Murooka, T. (2013) “A Note on Credible Spatial Preemption in an Entry-Exit Game,” Economics Letters, 118(1): 26-28.

編集部 行動経済学をどのように組み入れると学術的な価値があるのか、価値がありそうな拡張の方向はどうやって探せばよいのかなど、実際に考えると非常に難しそうです。何かヒントになるアドバイスをいただけますか。

室岡 それについては、「伝統的な経済理論では出ない、あるいは極めて不自然な形でしか出せないような結果を、行動経済学的な要素を入れて拡張をすることで自然に導けるか否か」という見方が、1つのベンチマークになると思います。というのも、伝統的な経済理論で自然にその結果が導けるなら、わざわざそのモデルを拡張する意義は大きく薄れるからです。ただしこれは絶対ではなく、たとえばモデルの結果や厚生に関する質的な方向は同じであっても量的にはまったく異なる可能性がある場合など、他に行動経済学の要素を組み入れる意義があることもあります。ですので、これはあくまでも1つの目安程度に考えてほしいのですが、行動経済学的な要素を入れることで何らかの結果がはじめて導け、かつその結果が現実を説明するうえで有用である場合は、論文の売りになる可能性が高いです。

編集部 「伝統的な経済理論では不自然な形でしか得られない結果」とは、具体的にはどういうものでしょうか。

室岡 次の例がわかりやすいと思います。本書の第1章などで説明している「特定の価格に対して不注意になる」という話は、実はある仮定を置けば伝統的な経済理論でも簡単に説明できます。それは、「特定の価格を払う方が好き、たとえば基本料金を払うよりも追加料金を払う方が好き」という仮定です。

しかし、第1にそんな仮定は不自然ですし、第2にそんな仮定を置いてしまうと厚生分析や政策評価でおかしな結論が出てきます。この例のような場合は、実際に起こりうると考えられる行動経済学的な仮定を置いてモデルを組み立てて議論する方が受け入れられやすいと思います。

編集部 室岡先生は、実際にどのような問題や理論から行動経済学的な拡張をひらめいたのでしょうか。

室岡 それについては、第1章の冒頭などで紹介した契約の自動更新やオプションへの強制加入を分析した論文を書いたときのことを例にお話しします[6]。この論文のアイデアは、私の実体験がもとになっています。バークレーを卒業し、2014年にドイツのミュンヘン大学に就職してドイツに引っ越しました。そこで自宅のインターネット回線を契約する際に、強制的にウイルス対策ソフトの月額オプションにも加入させられました。業者には「すでに自分のパソコンには別のウイルス対策のソフトを入れているので不要だ」と伝えたのですが、「これは契約上強制なので外せない」と言われました。こうした契約は、ドイツではその後規制されることになるのですが、2014年当時はまだ違法ではありませんでした。「無料期間があるので、もしこのオプションが不要ならその期間内に自分でキャンセルすればよい」というのが業者の主張です。3カ月は無料で、その後は毎月3.98ユーロかかるという契約でした。オプションなのに強制加入なのはおかしいと感じていたのですが、その後ドイツの大手大衆紙が掲載した独自調査に基づいた記事で、そのようなインターネット契約をしたうち8割以上の人は、オプションで付いてくるウイルス対策ソフトをダウンロードすらしていない(1度も使っていない)にもかかわらず無料期間後も毎月このオプションにお金を払い続けていると報じられました。どのような政策を実施すればこうした搾取的な契約をなくせるかを考えて、この論文を書きました。

[6] Murooka, T. and Schwarz, M. A. (2018) “The Timing of Choice-Enhancing Policies,” Journal of Public Economics, 157: 27–40.

編集部 そのときに土台になった伝統的な理論モデルは何でしょうか。

室岡 Paul Klempererの「スイッチングコスト」の理論です [7]。インターネット業者の主張は、先にも述べた通り不要なら無料期間中に解約すればよいというもので、それは一見フェアなようにも感じます。しかし、解約するには努力費用がかかります。ましてやドイツ語がほとんどできない私が、どうすれば解約できるかを調べ、実際にキャンセルするのは相当大変です。最終的にはドイツ人の同僚に頼んだのですが、彼が時間をかけて探してようやくわかったというぐらい解約手続きは複雑でした。

[7] Klemperer, P. (1987) “Markets with Consumer Switching Costs,” Quarterly Journal of Economics, 102(2): 375-394.

この問題を、すでに確立された理論であるKlempererのスイッチングコストの理論に基づいて考えました。私が書いた上記論文の枠組みでは、企業が消費者に最適契約を提供する場合、企業が「オプションに強制加入させ、その後で一部の消費者が解約する」という契約を提示するという結論は、消費者全員が完全合理的であれば通常は出てきません。スイッチングコストは社会的には無駄なコストなので、無駄に社会的損失を負わせる契約を避けるためです。では、強制加入が最適になるのはどんな場合だろうかと考えて、この論文では近視眼性に対するナイーブさ(もしくは不注意)の要素を入れました。すると、オプションに強制加入させ、その後ナイーブな人から搾取する契約が最適契約として導けました。

ただし、このような分析をしている既存研究はすでにありましたので、さらにそこからどのような消費者保護政策・競争政策を考えれば、完全合理的な消費者に損をさせずに、近視眼性に対してナイーブな消費者や不注意な消費者を保護できるかという問いで深掘りした結果、おもしろい示唆が得られました。そして、その部分がオリジナルな貢献となり、学術論文として出版されました。

編集部 まさに、伝統的な産業組織理論の土台に、行動経済学的な要素を加えることで、新たに現実に直面した問題を説明できるというだけでなく、問題を是正するための政策を考えることもできたという意味で、新たな知見や含意が得られた論文だということですね。

このテーマの最後に、本書の次にどのようなステップで学び、研究を進めていけばよいかアドバイスをお願いします。

室岡 本書の次に読む候補としては、第1章などでも紹介している Handbook of Behavioral Economics があります [8]。初学者がいきなりこのHandbookを読むのは厳しいと思いますが、『行動経済学』を読んだ後なら、おそらくどの章でも大まかには読めるレベルになっていると思います。この本で学んだ後は、ぜひHandbookの中で自分の興味のある章を読んでみてください。

[8] Bernheim, B. D., DellaVigna, S. and Laibson, D. eds. (2018-2019) Handbook of Behavioral Economics: Foundations and Applications 1 and 2: North Holland. 【Vol. 1 へのリンク】【Vol. 2 へのリンク

編集部 元論文よりもHandbookの方が読みやすいのでしょうか。

室岡 Handbookではビッグピクチャーが明確にまとめられているという点が重要です。たとえば、行動産業組織論にはどんなトピックがあるか、その中で価格に対して不注意になるという論点はどういう文脈で研究されているか、関連する研究としてはどんなものがあるかなど、研究の一連の流れを知ることができます。もちろん、一般的な学術論文でも先行研究のサーベイは行われていますが、Handbookに比して分野全体の包括性という点では劣ると思います。学術論文の出版を目指すなら、当該トピックの流れを押さえて、その中で自分の貢献を位置付ける必要があります。Handbookはそのための知識を得るのに非常に有用です。

3 実証・実験研究に応用するケース

編集部 3つ目のテーマとして、この本で学べる行動経済学の知識が、観察データを使った実証研究や実験研究でどのように活用できるかをお伺いしたいと思います。

3.1 観察データを用いた実証研究への応用

室岡 まず、実証研究を専門としている、あるいは専門にしたいと思っている方々については、特に実証研究を行ううえで、ご自身が専門とする分野の伝統的な理論では説明できないような動きがデータで見られた際に、それを説明するための理論的な枠組みの1つとして、この本で解説した行動経済学の理論が使えるのではないかと思います。

たとえば、行動経済学には、価格上昇時と下落時で消費者の反応が異なることを説明する理論があります。最近の例では、東京大学の飯塚敏晃先生と重岡仁先生の論文で [9]、医療費の自己負担額が上がった場合と下がった場合で価格弾力性が大きく変わることを実証した研究があります。このような結果は標準的な経済理論では説明し難いため、たとえば参照点依存の理論に基づいて説明することが考えられます。具体的には、病院での支払いが500円から100円に下がるということは、参照点の定義次第ですが、今までに比べて自分の支払いが減るということなので利得領域に当たると考えることができます。一方、100円から500円に上がるということは、今までに比べて支払う料金が増えるということなので損失領域に当たると考えることができます。そして、利得領域と損失領域で価格弾力性が異なるという理論に基づけば、データの解釈が可能となる場合があります。このように、データを分析していて一見するとよくわからない動きが見られた場合、すなわち伝統的な経済学では説明が難しい状況に直面した場合に、それを説明するための理論的な枠組みの1つとして行動経済学の理論を使うことができると考えています。

[9] Iizuka, T. and Shigeoka, H. (2023) “Asymmetric Demand Response When Prices Increase and Decrease: The Case of Child Health Care,” Review of Economics and Statistics, 105(5): 1325-1333.

また、最近はデータが非常にリッチになってきています。そして、データがリッチになるほど、伝統的な理論では説明できない現象に直面するケースが増えてきます。ということは、行動経済学の理論が検証しやすくなっているとも考えられます。そのため、今後は行動経済学の理論を知っておくと役に立つ機会が増えるはずです。

特に、この本は通常の索引に加えて、参考文献の分野別一覧を追加するなど工夫を凝らしています。分野別文献一覧から探すことで、ご自身の関心に関連するトピックの理論が確認しやすくなるようになっていますので、ぜひ活用していただければと思います。

編集部 応用例で特に多いのは、家計に関するトピックでしょうか。

室岡 そうですね。消費・貯蓄、投資、教育などについては、多くの研究が行われています。また、年金や課税も応用先として大きなトピックです。

編集部 こうした分野では、近年は行政データや企業の業務データなどが用いられることも多くなり、非常にサンプルサイズが大きく、また頻繁に繰り返し観察された粒度の細かいデータが得られる機会も多くなっている気がします。

室岡 はい。ただ、必ずしもサンプルサイズが巨大である必要はなく、データのリッチさ、つまり観測頻度や含まれる変数の豊富さの方が重要です。たとえば、1年に1回しかデータが記録されていない場合は、どんなにサンプルサイズが大きくても、近視眼性を検証することは極めて難しいです。近視眼性の検証は、たとえばクレジットカードの使用履歴や銀行口座の出納履歴が毎日記録されたデータがあれば、給料日前後に着目して消費額が大きく変化していないかなどを確認することで可能になります。また、豊富な消費項目が含まれていることも理論の検証に役立ちます。

また、たとえばクレジットカードの使用履歴データと、別の投資の履歴データを組み合わせて分析するといったことも行われています。この場合、データを片方ずつ見ていた場合には伝統的な経済学で説明できたけれども、両者を組み合わせたら伝統的な経済学では説明できない動きが見られた、といった場面にも直面することがあります。この場合も、行動経済学の理論で説明できることがあるかもしれません。

3.2 実験研究への応用

編集部 次は、行動経済学の理論が実験研究でどのように役立てられるかを伺っていきたいと思います。実験経済学は、もともと行動経済学と関連が深く、相性もよい分野かと思います。

室岡 そうですね。行動経済学は、もともとは実験室(ラボ)実験(および近年はフィールド実験)とともに発展してきた分野なので、実験経済学との関連は深いです。実験研究では、実際に実験を行う前に、仮説を立てる必要があります。その際、まずは非常に簡単なモデルを組み、それを解いたうえで、理論ベースの仮説を立てることが重要です。本書では簡単なモデルとその応用例を解説しているので、理論ベースの仮説を立てる際の手助けとして使えると思います。

たとえば、異時点間の選択に関する実験を行う際に、実験デザインを決めたら、まずは理論モデルを解き切ったうえで、よく使われている数値を当てはめて、実際にどのように結果が動くかを実験する前に確認しておくことが重要だと思います。たとえば、「伝統的な指数割引に基づいた理論で割引率のパラメターによく使われている値を当てはめたら、これくらいの結果が出るはずだ」、そして「そこに近視眼性があると結果はこう変わるはずだ」といったことを想定しておくイメージです。

これは重要なことで、たとえば実験デザインをつくって、指数割引と近視眼性の間で、質的な違いが出るはずだと見込んでいたとしても、一般的に使われるパラメター値を入れた場合、それを検証するには膨大なサンプルサイズが必要で、50~100といった実験室実験でよく用いられるサンプルサイズではその差が検出できないこともありえるわけです。そのため、事前にモデルを使ってどの程度のサンプルサイズで検証できるか目途を付けておくべきだと思います。

また、実際にモデルを解いたら複数均衡が存在して、実験結果としてどの均衡に行き着くかわからないようなケースも起こりえます。複数均衡の問題は、ゲーム理論関連の実験で特に気を付ける必要があります。戦略的相互依存関係のある場合では、ある理論に何らかの行動経済学的な要素を加えたら結果がこう変わるのではないか、という仮説があっても、モデル上は複数均衡が存在するためにその要素を加えてもどう結果が動いたか不明瞭になるといったこともありえます。複数均衡のあるケースでは、事前にしっかりモデルを解いてみることがより重要になると思います。

シンプルな仮説でも、モデルを定式化して解き切って吟味することではじめて気が付くことは多々あります。そのため、仮説をきちんと立てることは大前提として、理論に基づいてその仮説を検討し、何か問題がないか、きちんとやりたい実験ができるかを確かめることが重要です。加えて、モデルを解いて検討するプロセスの中で、実験デザインをさらに洗練させられないかを考えることもできるため、適切な実験結果を得るためにも、このプロセスは重要だと思います。

編集部 実際に学術誌に出版されるような実験論文を書くためには、こうした手続きを踏むべきということでしょうか。

室岡 やった方がよいのは間違いないと思います。観察データと実験データの最も大きな違いは、前者はすでに存在するデータなので研究者は手を加えられない一方、後者はデータが生成される過程に自分で手を加えられることです。これは、実験データの最大のメリットでもあり、最も恐ろしい点でもあります。もし間違った手続きでデータを生成してしまったら、本来であればわかったはずのことがわからなくなる、あるいはミスリーディングな結果しか得られなくなるといったことにもつながりかねません。

また、選好という概念に基づいて厚生判断が可能となる確立された理論モデルがあり、それに基づいた検証ができるというのは、経済学という分野の非常に大きな強みです。モデルを用い、定性的にも定量的にも実験前に結果の予測を行うことができるのは大きな利点と言えると思います。

4 おわりに

編集部 室岡先生は政府関連の委員会などにも参加されているとのことですが、最後にそのご経験もふまえて、政策現場のどのようなところで経済理論を生かせる可能性があるか一言いただければと思います。

室岡 ここ数年、日本の消費者契約法や消費者委員会などに関わる機会をいただきました。それらに参加してみて、消費者保護政策は、競争政策や金融政策などに比べ、法学者の割合が圧倒的に多い分野であるということを強く実感しました。しかし、消費者保護を考える際には消費者厚生や戦略的関係をふまえて議論することが重要です。必ずしも行動経済学の専門家である必要はなく、標準的な経済学に基づいて議論できる人が10人のメンバーのうち1~2人程度いれば、よりよい議論ができるのではないかと感じています。

なお、消費者保護の議論と行動経済学との相性は特によいと思います。というのも、完全合理的な消費者であれば消費者保護政策が必要な状況は非常に限られてしまうからです [10]。人々が忘れることがなく、怠けることもなく、不注意になることもなければ、消費者を保護すべき状況は契約が正しく履行されない場合や詐欺に遭ってしまう場合など、きわめて限定的になります。他方で、不注意になってしまう消費者が一部でもいれば、それらの消費者が不注意にならないような施策を考える必要があるかもしれません。そのため、消費者保護と行動経済学は非常に相性がよく、そのため私にもお声掛けいただいているのだと認識しています。

[10] 室岡健志(2020)「消費者保護政策の経済分析と行動経済学」『行動経済学』13:105-109。

ただ繰り返しになりますが、競争政策や金融政策と同様、消費者保護などの議論でも伝統的な経済学の考え方が活用できる余地はたくさんあると感じています。消費者厚生を考えるにとどまらず、消費者保護のための規制を考える際には規制の経済学・産業組織論の知見が役に立つ場合が多々ありますし、それ以外にも伝統的な経済学から得られる含意が重要となることも多いと思います。実際、政府関連の委員会等でも私が行動経済学の知見に基づいてコメントしたのは体感で全体の2割程度で、残り8割程度は通常のインセンティブ設計の観点からなど、伝統的な経済理論に基づいて意見を述べている気がします。より多くの経済学者に消費者法や消費者保護政策に関心を持っていただき、ぜひ積極的に関与していただければと願っています。

編集部 ありがとうございました。

[2023年11月10日収録]


この note は、『経済セミナー』2024年2・3月号からの転載です。

https://www.nippyo.co.jp/shop/magazine/9192.html

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室岡健志『行動経済学』第1章より


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