書評:有賀健/著『京都――未完の産業都市のゆくえ』(安達貴教/評)
評者:安達貴教(あだち・たかのり)
京都大学経営管理大学院准教授
戦後京都の軌跡、都市としての姿を
経済学の視点で解き明かす
川端康成の『雪国』(初版1937年、1948年完結)と『古都』(1962年)は、それぞれ戦前と戦後の作品とは言え、(川端が考えるところの)「美しい日本」を表象する越後湯沢と京都が舞台である。周知のように、湯沢は、いわゆるバブル崩壊(前号の特集参照)によって完全に終焉した(広義の)高度成長期におけるリゾート開発によって、川端が描く古臭い温泉地の面影は現在ではほぼ失われていると言ってよいであろう。
対して、『古都』のストーリーの基調にある四季折々の自然や年中行事は、京都においては今でも脈々と保たれている。現在の京都は、日本の大中小の都市部、あるいは農村部も含めて、いわば、「高度成長期なかりせば」という「反実仮想」都市なのだ。実際、著者が指摘するように(p.248)、京都はしばしば、「住んでみたい都市」に位置付けられるものの、別の都市圏での生活に慣れた人が京都に引っ越してから感じるように、これほど「住みにくい都市」もないであろう。著者は、この理由を、産業都市としての京都が「未完に終わった」(p.252)ことに求める。
実のところ、戦前期の京都は、「交通インフラの整備、南西部を中心とした近代的な製造業の発達」によって、他の大都市圏と同様に産業都市としての成長」を遂げていた(p.54)。しかしながら、高度成長期、京都は、市内・市外の南西部に「電機や機械を中心とする多くの企業群が集積」したが、「市自体が高度の産業集積を実現することはなかった」(p.60)のである。それはなぜか?
そのヒントは、毎年7月に市の中心部、いわゆる「田の字地区」を中心として展開され、京都を象徴するとも言える祇園祭を担う町衆にあると著者は指摘する。すなわち、町衆が中心部に居続けたがために、東京や大阪のように、「新しい職種を持ち高所得で社会階層の高い住民が流入」(p.118)することで都市中心部がオフィス機能に集積するという動きが阻まれたのである。
そう言えば、『古都』の主人公の一人である佐田千重子が育てられた呉服問屋は、典型的な町衆の構成員であった。この小説の舞台は1960年前後であるが、日本が高度成長期にあったちょうどこの時期、京都においては、統計学者から政治家に転身し1950年から78年までの28年間京都府知事を務めた蜷川虎三(1897~1981)による「革新府政」と符合する。
著者は、蜷川の打ち出した施策が、革新勢力からバックアップされたのみならず、市内中心部の町衆との利益とも合致していたことを指摘する。そうして、市内中心部での再開発に歯止めが掛けられ、中小の自営業者が優遇されたのである。これを著者は端的に、「政治イデオロギーとしての革新と地方自治における保守性とは問題なく結びついた。そのカギは歴史都市京都を守る、というスローガンである」(p.256)と看破する。
こうした政治状況もあり、京都の中心部は、戦前期と比較して、「新興企業をサポートする都心としての機能」(p.102)を失い、市内・市外の南西部の中核となって、阪神間の産業集積と一体化する、あるいはそれとは別に独自の産業集積を生み出すことができなかったのである。「住んでみたい都市」の実態とは、多くの人々にとっては「住む町、仕事を持つ町としての都心の魅力」(p.263)に欠けた「未完の産業都市」なのだ。
ポストコロナで円安進行中の現在にあっては、京都の「観光都市」化は更に加速していると考えてよいであろう。2007年からの新景観政策によって、市内部のほとんどにおいて、基本的には、31メートルまでの高さの建築物しか可能ではなくなっている。これは、ビルやマンションで言えば、7、8階程度の高さでしかない。
著者は、(残念ながら、数値的データによって裏付けられないものの)市内中心部に点在するカフェやゲストハウスなど「これら小規模事業者の少なからぬ部分が、嘗ての町衆の子・孫世代で引き継いだ家と家業をベースに転業したもの」(p.201)と考える。そうだとすれば、昨今の「観光都市」化とは、不動産を所有する町衆の利益と合致しているものだと言えよう。こうした人たちは、「特段の工夫をすることなく、田の字地区では現存の町家を取り壊し、建築基準・規制に従い、4~5階建て15m程度の共用住宅あるいはオフィスビルを建設する」(p.65)ことによって、言わば、厳しい景観保護規制からレントを得ているのだ。
こうした現状を踏まえ、著者は、終章において、「歴史的町並みを宿泊施設に提供するのではなく、職住一体の新しいタイプの低層のオフィススペースに置き換えることも可能」(p.249)であるとの希望を滲ませながら、
市内中心部の道路の二車線化
市下南部から中心部へのアクセスを改善するための高速道路の地下延線化
環状地下鉄の建設、
といった主に交通インフラ整備に関わる提言を行っている。
ただし、財政的制約の観点から言っても、これらはいずれもやや理想的に過ぎるかもしれない。とりわけ、環状地下鉄に関しては、京都の特質の一つである地下水脈に恒常的影響を与える恐れもあろう。著者は、「経済学の強みは「身も蓋もない」ことを敢えて露わにすること」としているが(p.31)、著者同様、必ずしも都市経済学を専攻とするわけではない同じ経済学徒であっても、評者のイメージする方向性は、もっと穏便なものである。
すなわち、評者は、計画中の自動車道沿線化が、必ずしも利便性が高いとは言えないJR丹波口駅(京都駅から北西方向に二駅目)付近にある京都リサーチパーク(KRP)近くまで届くことに着目し、主に南部を対象とする建築物の高さ規制緩和に関する現在進行中の議論においては、静的な景観という視点のみに留まらず、人々の移動という動線の観点からも、土地・建築物の整備と交通インフラ整備の相互補完性を意識に置いた総合的な計画化が望ましいと考えるのである。
加えて、市内外の南部地域を、活気ある新興層を子育てや教育の面で優遇し、商業施設も誘致するような特区的扱いにすることも検討できよう。そうして、町衆の誇りにも配慮をしながらも、南部地区と市内中心部との連携は、現状よりも改善することが期待されるのである。同時に、建物の高さ制限に関しても、地区に応じて、あるいは、幹線道路の周辺かどうかなどといった基準によって、弾力的緩和の余地がないかどうかについて、継続的に検討していくことが求められているであろう。
このようにして、京都は、ポスト高度成長期時代における「シン・日本列島改造論」の先駆けを走ることができるのではないだろうか。少なくとも、オリンピック(2021年東京)や万博(2005年愛知、2025年大阪〔予定〕)と並んで、生活者にとって資するところのある方向性であろう。これを「反実」ではない「現実」にすること。「未完の産業都市のゆくえ」(副題)がまさに問われているのである。
帯に推薦の言葉を寄せている建築史研究者の井上章一氏が、かつて『京都ぎらい』(2015年、朝日選書)で披露した町衆の意識を象徴するエピソードは広く知られるところとなったが、本書は、そういった巷に言われる諸々の「京都らしさ」について、できるだけ統計データに裏づけた議論を展開しており、井上氏によるベストセラーと補完的位置にある「京都本」の誕生とも言えよう。
なお本書においては、上述のように、経済学の「いやらしさ」に言及がされているが、読後感の中には、良い意味で、それは微塵も残らないことに言及しておくことは蛇足ではない。著者はまた、さまざまな統計データを駆使するに留まらず、「ウェブ補論」で公開されている経済モデルの分析によっても議論を裏付けようとしている。一般向けの書籍ながらも、観測データ分析と行動モデル分析の両輪からのアプローチという、経済学研究のあり得べき王道的模範を実践している点にも言及し、その姿勢に敬意を表したい。
最後に、ここまで書いてきて、そもそも、川端の筆から成る『古都』のストーリー自体が、京都という都市を背景としながら、「反実仮想」的な想像性を刺激する内容であることが(詳細には触れないが)思い返された。その意味で、もう一冊、とりわけ、そういった社会科学的な視点から本書を補完する一冊を挙げるとしたら、この『古都』になるであろうことを指摘し、結びに代えることとしたい。観光客にとっても、生活者にとっても、京都が「古都」であり「新都」でもあるような方向性を期待しつつ。
■ 主な目次
*本稿は『経済セミナー』2023年12月・24年1月号掲載の書評記事の拡大版です。
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