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自分語りが嫌われる理由

 自分語りはお好きだろうか?

 私は好きです。なんなら、自分から他者であっても、他者から自分であっても、他者から他者でも。なぜなら自分語りは、手っ取り早く本質に到達できる効率の良い手段だからである。自分語りを聴くことで、状況に居合わせたのであれば違う価値観が得られる。居合わせていないのであれば、想像ができるのでその場にいなくても情景が得られるというオトクなものにもなる。第三者同士の喧嘩後の「実は...」とか聴くと「それ最初に言えばタイムロスにならなかったじゃん!」と思うことはないだろうか?つまり自分語りを聴くことで、得られる情報が明らかに多くなる。その上情報が新しく、より新鮮なものになるだろう。そして何より、自分語りは理論・動機→実践→結果→話のネタの流れを汲んでおり、この流れをより抽象化すれば他の場面でも応用できる。つまりこれを聴けば聴くほど、例え違う場面でも想像力による補助を受けやすい。

 勿論自分語りで求めている「本質」に全てたどり着けるとは限らない(そんなことが可能であれば就職活動やコミュニティの人間関係で軋轢を起こさないはずだ)。しかし、他の場面でも応用できる枠組みをわざわざ嫌う理由とは何だろうか?

 ちょうど今卒業論文を執筆しており、まだ誰も書いていない分野なので自叙伝を分析している。また、大学在学中何度かレコーダーを用いたインタビューを行っている。これは、実際に必修で習った事柄でもある。それは今でも継続している。つまり、視覚でも聴覚でも自分語りに接している毎日なのである。

 自分語りの分析は、楽しいが骨の折れる作業である。骨の折れる作業なのは、能力がそんなに高くない私だからかもしれない。自叙伝の分析なら気合い入れて読むし、インタビューなら終了後空腹になる。私の場合、自分語り研究は意図的に選択した行動だから、それに好きとか嫌いとか言ったところでどうにもならない。しかし、自分語りに専門的に接する仕事じゃない人からしたら苦痛でしかないだろう。苦痛だけならまだしも、嫌いとまで言う人もいる。

自分語りは3つに分類されると思う。

①相手→自分の受動的自分語り
例)インタビュー、自叙伝の読書、上司が飲み会で語り掛けてくるアレ
②自分→相手の能動的自分語り
例)恋人に振られたときに誰かに話すやつ、ラジオ、ツイキャスなどの発信型メディアに見られる
③第三者⇔第三者の相互的自分語り(対談に近い)
例)対談、痴話喧嘩の仲裁が聴く「実は...」的なやつ

 今回は、①の「受動的自分語りが嫌われる理由」を、上記の経験も踏まえて独自に書いていく。また、受動的自分語りに近いとされる自叙伝やインタビューの経験も踏まえた上で書き進めていく。

1.記憶力がいる

 当たり前かもしれない。しかし、自分語りにおける記憶力は短期集中×持続性である。つまり記憶のボクシングである。
 自叙伝の分析は、忘れれば後で見返せばいい。しかし、後になっていくにつれて登場人物や場面が増えていく。忘れやすい人ほど、前のページにカムバックしなければならない。私は特に記憶が悪いので、自叙伝を大体1冊10回ぐらい読み直している。ノートをとろうとも思ったこともあり、実際実践したこともあるが、自叙伝は本質がそのまま載っていたり、会話部分が多いから、結局ノートがそのまま自叙伝みたいになってしまうこともあった。
 問題はインタビューである。2時間程度という限られた時間の中で、その場に出てきた言葉を脳内にストックし、引き出さねばならない。同時に質問したい事も忘れないようにする必要がある。だが、インタビューの場合メモが可能なので、自分でわかりやすくメモを取れば思い出す作業が苦痛にならない。
 ①が嫌われるのは、この記憶の作業をフリーハンドで行わなければならないからだ。これが苦痛でない人が所謂頭の良い人だが、私は頭が悪いため雑談レベルでも紙とペンが必要になってしまった。



2.相手が時系列を把握していない可能性がある

 自叙伝ではそんなことがない。しかし、自叙伝の編成が伝えたい事順であれば苦痛である。なんせ自叙伝の筆者は、こうやってハイボール片手に血眼になりながら読む学生もいることを想定していないから仕方がない。クライマックスから入る書き方だっていいじゃない。
 問題はインタビューである。大体の人間は、選択肢を「ノリ」で決めている。だから事実が起きた日時を正確に把握していないことが多い。

相手「そうだねえ。それは2年前にやったかな。」
私「でも2年前だとAにいることになるので、それが起きないはずなんですけど、矛盾してません?」
相手「ああ確かに... じゃあ1年前だ。」

 日常茶飯事である。インタビュー中は、相手の記憶の整理をこっちが行わないといけない時もある。まあでも日常生活でここまで注意深く時系列を整理しないのが普通か。

3.否定しにくい(≒自分の意見が言えない)

 これが一番嫌われる理由ではなかろうか。説教中に突如自分語りを始められたらツッコミを入れられないだろう。私だったらそもそも説教をまともに聞かないから「次関わる時はこうすればいいのか」と想像しなから聴くが、2度と会わない人からの説教の場合時間の無駄でしかない。でもまあ、接客とかやってると起きそうよね~
 これが自叙伝やインタビューでどう作用するのか?と思うかもしれない。でも、自分語りで語られる事案は全部話者の言葉に依存するため、反論しようがない。相手がそう感じたら、そうなのだ。自叙伝の場合、ある事案が起きた文章を見た場合、筆者の感情のままに載せられる。それが今後に繋がっていく。私が何故自叙伝を読むときに気合いを入れるのかというと、感情に寄り添わないと理解できない文章が多いからである。そして1で述べた記憶との複合技で文章を解釈し、違う文章で記述しなければならない。つまり自叙伝を読むこと自体、自分の中にある偏見を捨て、相手の解釈に合わせることの繰り返しである。 
 インタビューの場合、そもそもインタビューする側の立場が弱い(デカいマスコミなら話が変わってくるかもしれないが、詳しくないから捨象する)。だから質問自体がトゲのあるものになる可能性がある。実際、インタビューの申し込み自体が現状を否定するものだと捉えられて却下されたケースがある。それでも書くためには、トゲになるような質問も必要な時もある。

(相手が俳優をやっている場合)
相手「夢を与えたくて俳優になろうと思ったんだよね~ ほら、会社員だと夢を与えられないでしょ?」
私「うーん、テレビ局の社員だったら番組制作として、なんなら会社員の延長線上にあるかもしれない経営者が夢を与えるケースだってあると思います。一概には言えないかなと...」
相手「その発想はなかったな...」

 まあインタビューの場合、事前に問題意識を共有しているためそこまで問題にはならない。ただ、相手の本音や本質を引き出す場合、肯定的な反応を示したほうが良い。とにかく意識的に共感しぐさはしている。このしぐさは日頃しないので腹が減る。頭使うからか?
 これを日常会話でやるのは苦痛だろう。①の目的が、単に肯定だけが欲しいこともあったりする。私は、聴く前に共感が欲しいか意見が欲しいかを尋ねるが、大して仲良くない人にはしない。となると、仲良くない人の自分語りなんて、時間が過ぎることを待つだけになってしまいかねない。おそらくこれが受動的な自分語りが嫌われる所以である。


 以上である。まとめると、日常会話において自分語りを聴くことは、「共感しぐさを忘れずに脳の記憶力と整理力を用い、そのうえで自分の意見を交えながら相手に質問をしなければならない」という意味で労力を使うことになる。

 だから自分語りは嫌われるのだ。自分語りをする人間は傲慢だから嫌いだという意識を持つのではなく、自分語りは無意識に頭脳を使う/使わせるから嫌ることに意識が行けば、その事案が起きる前にある程度の対処はできるかもしれない。例えば、①だったら先に目的を尋ねる、②だったら最初にオチを言うとか「後で用事はない?」と気を遣う、③なら紙にメモを取りながら構成を想像するといった具合である。

 しかし、自分語りで見えてくる景色は想像以上に深みがあったりする、だからNHKのねほりんはぽりんやテレ東の家、ついて行ってイイですか?みたいな「自分語り」をテーマにした番組が流行るのだろう。勿論急いでいる時や集団での話し合いで自分語りをするのは迷惑になることもあるが、Twitterやブログぐらいええやんけとは思います。まあそれらの場合、自分の都合の良いことしか記述したがらないというデメリットはあるけど...

 以上3572字に渡る自分語りでした。


〈あとがき〉

?「カッコつけてるけど、単に卒論でインタビューや自叙伝を読むのが疲れて愚痴ってるだけじゃないですか?」

正解です...



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