愛は場合によっては食卓にある

低俗魯山人として、なにか記事を書くのも悪くなかろう。
とはいえ、自粛自粛のご時世なので、特定の店のことを書いても営業しているか怪しい。今回は料理とその価値に目を向け、低俗料理概論とでもいう回にしようと思う。

料理は愛である。食材への愛、料理そのものへの愛、それを食べる人間への愛、食べる側であれば作った人間への愛、構成要素は全て愛だ。
食材への愛が無ければ処理は一辺倒になるし、作る料理への愛が無ければベストな調理は出来ない。食べる人間の好みを知らなければ味付けはエゴイスティックになり、相手の体を気遣わなければ栄養のバランスは偏る。
それらを踏まえ、生存の為のカロリー摂取はただの生命活動だと心に留めてほしい。

食事という前提では、外食というのは大変に良いものだ。
何せ、味が決まっている。これは作る側としても目的地が明確だし、同じくらい客として求めるものもシンプルで、特定の味を食べたいという渇望に帰結する。
また、価値としても金額が提示されるので大変わかりやすい。おおまかな内訳としては、食材と、手間と技術と、ブランドだ。
たまに銀座の寿司と北海道の寿司を比べて、値段と量だけを基準に、高い高いと言う人も居るが当たり前だ。魯山人のいうところの「戦後の江戸前寿司」は、その手間と技術を考えればある程度は高くなるに決まっている。煮ハマグリなどはいい例で、胸を張って江戸前を名乗っている店の方がうまい。
とはいえ、バカ高いだろという話であれば、そこは大変に同意ができる。
そして、そのバカ高さの原因はブランドで、銀座の寿司などであれば、ブランドの中には店舗の地価も含まれよう。自分はブランド志向では無いから、あまりそこに価値を見いだせない人間であり、今回はそこの話がメインになってくる。

ようはバランスである。今風に言うとコストパフォーマンスというやつだ。
上記の通り、料理には価値がある。それを金では測れないと言うのは綺麗だが、現実問題として料理人は食っていかねばならないし、客の懐には限界がある。
ラーメンなどで、店舗とその店の名を冠するカップ麺とを比べると分かりやすいと思われるが、味というのは別プロセスで真似ようとしても中々再現性が無い。限りなくオンリーワンである。あとは、それが自分の味覚とどれだけマッチするかで、人は価値を決め、払う金額に対して納得をする。

その点、家庭料理に立ち返ってみるとその等価交換は起きづらい。
まずもって、外食と根本的な差がある。味付けが変えられることだ。これは一見良いことだが、作る側としては大変困った面倒くささに繋がる。
一人一人に合わせて作る事が出来、家族の数が増えれば好みも増える。また、必要な栄養素なども人によって違い、保護者という立場ならそこに気を付ける必要もあるだろう。
しかも、一般的には、家庭内で決まった額の食費があり、その中で料理を担当する者がいて、やれる範囲でやりくりをし、料理を作る。それは生活共同体における役割分担であり、感謝がされることは少ないかもしれない。当然だ、等と言われることすらあるだろうが、元来そんなことはないはずだ。仕事以上に気を使うだろうに、仕事以上に感謝をされないというのは中々に苦行じみている。

食卓には愛がある。
しかし、いつも、いつでも、いつまでもではない。食卓に愛があるのは、担当者が愛を持って料理できる間だけだ。その愛は、享受する側の態度によって、増えることもあれば、すり減ってしまうことも多く見られる。
そこにあるものを、当たり前のこととして捉えず、感謝を忘れずに生きていきたい。

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