【試し読み】『神経症的な美しさ――アウトサイダーがみた日本』
日本は、アメリカ型拡張主義・グローバル資本主義を越えるモデルになりうるか?
禅、民芸、京都学派、アート、オタク文化など、広範囲にわたる文化事象を参照しながら、日本人の精神史をアメリカとの接触の中でどう変容してきたかをたどり、〈日本的なるもの〉の可能性を精査する『神経症的な美しさ――アウトサイダーがみた日本』。本書の背景と問題意識に触れた「日本語版への序」を特別に公開いたします。ぜひご一読ください。
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日本語版への序
まずは、2015年に英語で発表された『神経症的な美しさ』の邦訳を慶應義塾大学出版会から出版していただけることを光栄に思う。よそ者の眼から見ている私が、どれほど正確に日本を描いているかについては、日本の読者の判断に委ねるしかない。私が目指したのは、この国を英語で言う「イボも含めて」、つまり長所と欠点をともに描出することであった。私は日本を敬愛しているが、この国の歴史や文化の影の側面も知っているし、そのことは本書で詳しく述べてある。
「美しさ」の部分は言わずと知れている。私は何年も合気道を実践し、囲碁を打ち、俳句を詠み、坐禅を組んできた。こうした伝統に表現されている精神的態度すべては、日本の芸術家たちの偉大なる工芸の伝統とともに、西洋の私たちが(私の意見では)大いに必要としているものである。
「神経症的な」部分というのはこういうことだ。日本は「二重苦」——これも英語の慣用句で、2つの大きな衝撃の意——に見舞われた。いずれの衝撃もアメリカの武力行使、つまり1853年から54年にかけてのマシュー・ペリーと、1945年から52年にかけての出来事によって生じたものである。明治維新を受けて、日本はどういうわけか一世代のうちに西洋に追いついた(科学、テクノロジー、教育、経済発展など)——こうした達成は例えばイギリスであれば約250年かかったことである。ここから生じた日本人の魂のねじれは、川端や三島のような作家が論じたように、相当に深刻なものであった。こうした状況で神経症的にならない人などいるだろうか。
次いで日本の諸都市への凄惨な爆撃が行われ、それがヒロシマ・ナガサキ——人々を恐怖に陥れるための無差別爆撃——で締め括られると、ダグラス・マッカーサーによるいいかげんな占領と、アメリカ式の生活様式の日本への押しつけが続いた(マッカーサーの補佐官の一人は、占領統治を「道化じみている」、つまり愚か者の仕事だと評した)。これらすべてから日本は二度と立ち直ることはなかった。そして私は、ある種の意識の分裂ないし「分裂症」を、話をした多くの日本人のなかに見て取ったのである。繰り返しになるが、驚くような話ではない。
だが、アメリカの詩人ホイットマンをなぞって言えば、歴史は多数を孕んでいる。たくさんの矛盾した傾向を孕んでいるのだ。トヨタ、三菱、フクシマ、例の元首相に代表される支配的文化は、ワシントン・ニューヨーク型の新自由主義的資本主義を猛烈に追求している――それもやがては自壊するものと私は思っているし、(ごく少数ではあるが)「さとり世代」は人間的視点からそうしたモデルを破綻した生き方だと考え、拒否している。どうなるかは現時点では誰にもわからない。私は大学院で歴史を学んだが、予言を学んだわけではないし、水晶玉を持っているわけでもない。がしかし、日本という国をしっかりと見定めることは、世界の脈動に触れることであると私は信じている。良くも悪くも、この国は私たちの時代に起きていることの多くの象徴であり続けているのだから。私としては、「美しさ」が「神経症」を最終的に上回ることを願っている。
(続きは本書にて)
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