連載第12回:『結婚の哲学史』第3章 第2節 逆説弁証法とは何か
結婚に賛成か反対か、性急に結論を下す前に、愛・ 性・家族の可能なさまざまなかたちを考える必要があるのではないか。昨今、結婚をめぐってさまざまな問題が生じ、多様な議論が展開されている現状について、哲学は何を語りうるのか――
九州産業大学で哲学を教える藤田先生による論考。前回に引き続きキェルケゴールの思想を紐解き、第3節への道筋を示します。
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1.キェルケゴールとヘーゲルの関係
第1節では、キェルケゴールの生きた時代と生涯を辿ってきた。この第2節では、キェルケゴールの基本的な思想を説明することで、第3節以降で彼の愛・性・家族観、そして結婚観を見ていくための準備を整えることにしよう。
ここでもまたヘーゲルが参照軸となる。キェルケゴールとヘーゲルの関係に関する研究はそれこそ枚挙に暇がないが、ここでは近年の研究成果を基に話を進めていくことにしよう。ジョン・スチュアートの『キェルケゴールは反ヘーゲル主義者だったのか?――彼のヘーゲルへの関わりを再吟味する』である(Jon Stewart, Kierkegaard’s Relations to Hegel Reconsidered, Cambridge University Press, 2003. 日本では2023年、桝形公也の監訳で萌書房より邦訳が刊行された)。「再吟味」(Reconsidered)となっているのは、この著作が、ニェルス・トゥルストルプの『キェルケゴールのヘーゲルへの関係』(デンマーク語原書は1967年。大谷長による邦訳は東方出版、1980年。英訳はNiels Thulstrup, Kierkegaard’s Relation to Hegel, Princeton University Press, 1980)が「結晶化」(Stewart 2003 : 14)した標準的解釈を標的にしているからだ。
ジョン・スチュアートの主張は二点に要約することができる。一点目は、「キェルケゴールのヘーゲルに対する関係は静的なものではなく、むしろ時間をかけて発展していったもの」だということである。むろん、ヘーゲル思想のさまざまな側面を自分のものにして流用(appropriation)している例はどの時期にも見られ、その意味では終始一貫(continuous throughout)した関係だとも言えるが、それぞれの関係の性質を子細に見るならば「これまで認識されてきたよりもかなり不均質で複雑(heterogeneous and complex)」であり、「単一の関係(single relation)について語ることはもはや意味をなさず、むしろさまざまな関係(different relations)から考えるべき」なのである(以上の引用はStewart 2003 : 597, 615)。
二点目は、キェルケゴールが著作のなかで展開する思弁思想批判は、かつてはヘーゲル哲学自体の批判と考えられていたが、実はそれらの多くは、ヘーゲル哲学を信仰の領域に持ち込んだ同時代のデンマークの思想家たちへの批判だということである(Stewart 2003:passim. cf. 鈴木 2024:15)。ただこの二点目については、キェルケゴール研究の文脈における重要性は十分理解しつつ、少なくとも私たちの「結婚の哲学史」の文脈においてはさほど気にしなくてよいように思われる。私たちにとって重要なことは、キェルケゴールの著作に登場するヴィルヘルム判事がヘーゲル『法の哲学』的な「倫理」(Sittlichkeit)の擁護者であり、したがってヘーゲル的な結婚観の体現者であるということ、そしてそれとの距離どりこそがキェルケゴールの愛・性・家族観、結婚観を規定しているということであって、ヘーゲル自身の著作が実際に分析された形跡がないとか、よく知られたスローガンを除けば具体的引用がまったくない(Stewart 2003:609)といったことは副次的な問題だからである。
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スチュアートによれば、影響関係の変遷は少なくとも三つの期間に分けることができる。第一期(1834年から1843年まで)は、積極的で受容的な(positive, receptive)関係によって特徴づけられる時期、第二期(1843年秋から1846年まで)は、同時代のデンマークのヘーゲル主義者たちを批判するためにヘーゲルを論争的に利用(polemical use)する時期、そして第三期(1847年から1855年まで)は、ヘーゲルへの言及が止み、関係の欠如・不在によって特徴づけられる時期である。
以下スチュアートの労作に依拠しつつ各時期を簡単に見ていくが、ただひとつ重要な点に関しては私たちの寄与である。それは、反ヘーゲル的な姿勢を取る第二期の始まりがなぜ1843年秋であり、ヘーゲルへの言及が止む第三期の始まりが1847年であるのかという素朴な問いに答えることである。単純化のしすぎであり、論証がまったく不足していることを重々承知で言えば、レギーネがスレーゲルと婚約したのが1843年8月28日であり、スレーゲルと結婚したのが1847年11月3日だからではないだろうか。
スチュアートは、キェルケゴール-ヘーゲル関係(KH関係)の変遷に対するキェルケゴール-レギーネ関係(KR関係)の重要性をまったく無視している。そもそもスチュアートがKR関係の重要性について言及したのはただ一度、それも注でのことにすぎない。スチュアートはこう言う。『あれか、これか』の「ディアプサルマータ」において、審美家は「あれか、これか」という表現の意味について考えを巡らせ、一連の選言的な可能性を列挙することから始める。そこにあの有名な表現が登場するのだ、と。
結婚論と言えば必ず引用されるこの有名一文は、キェルケゴール本人のものとされることが多いが、ここまで本章を読んできてくださった方には「本人とはいったい誰のことなのか」という疑念がよぎるであろう。この発言をしているのは審美家である。この一節に注を付し、スチュアートは次のように述べる。「この例においても、『あれか、これか』全体の内容においても、キルケゴールの伝記的事実が大きな役割を果たしていることは疑いようがない。この作品は、レギーネ・オルセンとの婚約解消直後に書かれたもので、彼がドイツに行くことになった原因の一部であることは間違いない」(Stewart 2003 : 193, n. 157)。これが、KH関係とKR関係についてスチュアートが述べているすべてである。だが、キェルケゴールの全著作がレギーネに捧げられている以上、KR関係の影響は『あれか、これか』に限定されるものではない。
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第一期(1834年から1843年まで)は、この時期に書かれたテクストの言葉遣いなどに関する内在的な検討からしても、当時の彼の言動に関する周囲の証言からしても、後に彼自身が振り返って自らの著作に与えた評価からしても、つまりどこからどう見ても、ヘーゲルの影響をストレートに受けている時期である。
前節でも確認したとおり、キェルケゴールが刊行した最初の著作はアンデルセン批判であったが、その姿勢は「深くヘーゲル的」(Stewart 2003 : 597)である。ただし、学位論文『イロニーの概念』(1841年)まではヘーゲル自身の書いた著作(いわゆる一次文献)を直接詳しく検討した形跡はまったく見られない。一連のヘーゲルの著作に関する注意深い分析や議論が本格的に登場してくるのは、『法の哲学』をはじめ、『哲学史講義』や『歴史哲学』、『美学講義』などを引用しているこの著作以降のことである。キェルケゴールはそこで、ヘーゲルの分析の具体的な細部について手数をかけない(off-handed)批判をすることはあっても、主要なテーマ(ソクラテス、ギリシア人、ロマン主義的イロニー)に関しては、ヘーゲルの主張をほぼそのまま受け入れている。内容ばかりか、それを語る文体に至るまでヘーゲルの影響を受けているこの著作は、スチュアートによれば、「キェルケゴールの全著作中でも最もヘーゲル的」である(Stewart 2003 : 600)。
1843年、30歳の時に刊行した『あれか、これか』においてもヘーゲルの影響は続いている。アリストテレスの排中律を想起させるタイトルも、抜き差しならないほど矛盾した二つのパートからなる本の構成も(その第一部が『誘惑者の日記』である)、ヘーゲル的な論理学から着想を得ている。
少し前に有名な一節を引きつつ触れたが、私たちの観点から重要なのは、この著作が徹頭徹尾「結婚」をめぐるものだという点である。第一部には25歳の独身男性Aによって書かれたさまざまな文書が、第二部にはAの友人で妻帯者であるヴィルヘルム判事(AにあわせてBと呼ばれる)によって書かれたAへの書簡が収められている。一方には感性的・観照的な生を享受しようとする美的人生観、他方には精神的・行動的な生を選択・決断する倫理的人生観という、文体も主張内容もまったく異なる二つの文書類をたまたま古道具屋で買い求めた古い机の隠し戸の奥から見つけたヴィクトル・エレミタ(もちろんキェルケゴールの偽名である)が刊行したという設定になっている。二つの点を指摘しておきたい。
1)『あれか、これか』は、「外面は内面であり、内面は外面である」というヘーゲル論理学の「あの有名な哲学的命題の正しさ」を疑うところから、「外面は内面であるということに対する私の疑い」から話が始まる。そしてそのことが「秘密」と結び付けられている。
前回の最後にこう述べた。「「秘密の倫理」というものがある。これがキェルケゴールにおける結婚の脱構築の主題である」。これについては、『おそれとおののき』を読む際に再度立ち戻ってくることにしよう。
2)さらに興味深いのは、二人のまったく異なる人物が書いたというキェルケゴール自らが課した設定に対して、ヴィクトル・エレミタが次のように述べていることである。
私たちは、フーリエに関する前章で「分人」概念に言及していた。ここでも説明はドゥルーズに関する章に先送りするほかないが、キェルケゴールにおける仮名・偽名・実名など複数の「名」の使い分けはこの「分人」概念と結び付けられるのではないか、そしてこの「複数の名」を使い分ける姿勢とヘーゲル弁証法との関係は相関しているのではないか、したがって複数の名の使用がはっきりと打ち出されたこの著作は、スチュアートの言うように第一期に属するものではなく、『反復』同様、少なくとも第二期への「移行的テクスト transitional text」(Stewart 2003 : 605)と言えるのではないかと示唆しておきたい。ちなみに、実に多くの偽名・仮名を使って著作を発表した一方、実名でも書いていたキェルケゴールがそれらの名前をどのような基準で使い分けていたのかについて彼自身の証言を引いておこう。
ここで話をヘーゲルとキェルケゴールの関係に戻す。両者を分かつ分岐点としてよく言われるのが、「媒介の哲学者vs実存的決断の哲学者」という問題整理である。《人間の生の襞に深く分け入り、美・倫理・宗教という本性的に異なる実存の三つの領域を縦横に描きだすためには、「あれもこれも」と〈止揚による総合〉を行なうのではなく、「あれかこれか」と〈決断による選択〉を行なわねばならない》というわけだが、『あれか、これか』はたいていの場合アリストテレス論理学に代わるものとしてヘーゲルの「媒介」概念に依拠しており、その第一部も第二部もヘーゲルの弁証法的方法論(dialectical methodology)に関する鋭敏な意識(keen awareness)に貫かれている、とスチュアートは言う(Stewart 2003 : 601)。第一部について言えば、例えば「直接的・エロス的な諸段階」の「無意味な序」で、審美家が芸術作品を評価する基準として持ち出しているのは、形式と内容のヘーゲル的な弁証法的運動であるし、第二部について言えば、例えば「結婚の審美的妥当性」においてヴィルヘルム判事(B氏)が愛のさまざまな段階を辿る際にヘーゲル弁証法を援用している。要するに、ここまでは依然として肯定的で受容的な影響関係が続いているというわけだ。たしかに細部についてはおおむねその通りなのだが、第一部と第二部がまったく総合されないままに提示されているという最も重要な部分についてはどうなるのだろうか。
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第二期は、スチュアートによれば、『おそれとおののき』を刊行した1843年の秋から、未完の『アドラーの書』を執筆していた1846年までで、ヘーゲルと彼の思弁哲学に対して最も目立った挑発を行なっていた時期である。この1843年から1846年という時期は、例えば、1845年に『想定された機会における三つの講話』といった実名での刊行作品もあるにはあるのだが(そこには「婚姻の機に」といった文章も収められている)、社会的な意図をもった審美的な偽名作品(「より低きもの」)が断然多い。1843年(30歳)の『あれか、これか』『反復』『おそれとおののき』、1844年(31歳)の『不安の概念』『哲学的断片』、1845年(32歳)の『人生行路の諸段階』『哲学的断片への結びとしての非学問的あとがき』などである。「攻撃的な反ヘーゲルキャンペーンを展開した」というイメージがキェルケゴールにあるのは、この時期の主要著作、とりわけ『非学問的あとがき』ゆえである。先にも述べたとおり、スチュアートの主張は、キェルケゴールの目立つ反ヘーゲル的論戦は実際にはヘーゲル哲学そのものとはほとんど関係がないということである。むしろそれは、マーテンセンとの継続中の論戦を続行するため、そして新たに始まろうとしていたハイベアやアドラーとの論戦を始動させるためのさまざまな手段の一つに過ぎなかったとスチュアートは言う(Stewart 2003 : 605)。
だが、例えば『おそれとおののき』の主題は何だろうか。たしかにキェルケゴール自身が「美的著作」に分類するこの著作の主題は、キェルケゴール研究的には「どこまでも宗教であり、信仰」(鈴木 2024 : 102)であるのだろう。ただ私たちにとっては、自らのレギーネとの婚約破棄を、最愛の息子イサクを供犠の生贄として捧げるようにという神の命に従う信仰の英雄アブラハムの経験になぞらえて理解しようと努めている著作であることもまた確かなことのように思われる。
スチュアートは、各章(三つの「問題」)冒頭ではたしかにヘーゲルに帰される何らかの立場が簡潔に言及されており、キルケゴールが初めてヘーゲルの見解を仮名著者の見解と対立するものとして設定し、「問題Ⅰ」冒頭で、『法の哲学』の「善と良心」のセクションに明示的に言及していることは認めつつも、相変わらず「この部分やヘーゲル哲学の他の部分についての引用やテクスト分析はない」とか「アブラハムや宗教的信仰に関してヘーゲルが述べていることは不正確だとキェルケゴールの偽名著者は言うのだが、ヘーゲルがそれらのテーマをそれ自体として扱っているテクストや講義は〔キェルケゴール生前には未刊行であった『キリスト教の精神とその運命』を除けば〕ない」(Stewart 2003 : 606)といったことを問題にしている。だが、『法の哲学』の該当箇所が直接的に引用されていようがいまいが、ヘーゲルの共同体的な倫理が「倫理的なものの目的論的停止」との対比において意識されているのは自明ではないだろうか。詳しくは節をあらためて見ていくことにして、ここでは『おそれとおののき』の一節と白水社版の訳者注を引いておこう。
レギーネとの関係で言えば、彼女がスレーゲルと婚約した後の時期である。キェルケゴールは自らの婚約破棄について彼女に対しても自分に対しても説明を試みているように思われる。
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最後の第三期は1847年から彼が亡くなる1855年までである。第二期がスチュアートにとってはヘーゲルとの仮の形式的な(pro forma)論争だったとすれば、この第三期はむしろそのような何かしらの積極的な痕跡ではなく、むしろヘーゲルとの関係の不在ないし欠如によって特徴づけられる。『非学問的あとがき』や『アドラーの書』以後、公刊された著作であれ、日記や覚書であれ、ヘーゲルないしヘーゲル主義への言及はほぼ消えてしまっている。これを著者名の問題と結びつけると何が見えてくるだろうか。1846年以後、いっそう精力的に発表されることになる一連の「建徳的講話」(Opbyggelige Taler)は、倫理的・宗教的な実名作品である。例えば、1847年(34歳) 『さまざまの精神における建徳的講話』や『愛の業(わざ)』、1849年(36歳)の『野の百合、空の鳥』、そして1855年(42歳=死去)の『瞬間』全10号などである。他方で、1848~1850年には個人的な意図をもった宗教的な仮名作品(「より高きもの」)が圧倒的に多くなる。1849年(36歳)の『死に至る病』『現代の批判』、1850年(37歳) 『キリスト教の修練』である。レギーネとの関係で言えば、彼女が法律的に正式にスレーゲルと結婚した後であり、『法の哲学』におけるヘーゲル的結婚観を問い直す必要がなくなったのではないかと考えられる。
次回は、ヘーゲル弁証法と対比する形でキェルケゴールの逆説弁証法を特徴づけ、余裕があれば『おそれとおののき』の読解に入っていくことにしたい。
次回:4月26日(金)更新予定
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