『水星の魔女』を終着点とする、百合作品の変遷、および作中における恋愛観(セクシャリティ観)の変遷

執筆:久方楸

序論

 2023年になった現在、百合と呼称される作品は10年前と比べて遥かに増加しており、またその内容についても非常に多様化している。実際、女の子同士の緩い日々を描く所謂「日常系作品」から、現実世界のホモフォビアやミソジニーに切り込む社会的な作品まで、「百合」と言う呼称は非常に広がりを持った作品ジャンルとして存在している。そのため、現在「百合」の最も広く受け入れられる定義は「女性同士の関係性を描いた作品群」という曖昧なものとなっている(むしろ曖昧なままここまで来たからこそ、多様化したとも言える)。

 また、2022年10月より『機動戦士ガンダム 水星の魔女』(以下『水星の魔女』)の放送が始まったことは記憶に新しい。この作品はガンダムで初めて主人公を女性にしており、また主人公が女性の婚約者を持つなど、百合を感じさせる部分が非常に多い。ガンダムという巨大コンテンツが百合の文脈を取り入れたことに、百合ジャンルの拡大を感じることが出来る。加えて『水星の魔女』の一期前には『リコリス・リコイル』という美少女ガンアクション作品が放送されており、こちらも確かに百合作品と言って差し支えないのだが、『水星の魔女』と『リコリス・リコイル』とでは〝百合〟や〝レズビアニズム〟の扱い方が少々異なっている(後程詳述する)。

 このように、現在では多様な百合作品を見ることが出来る。ここでは、これまで日本にて発表されてきた著名な百合作品などを年代ごとに眺めることで、時代における百合作品そのものや、作中における女性同士の恋愛の扱い方の変遷を記述することを目的とする。



1920年代 エスの誕生

 この時代には、現在の日本の百合文化の祖であると言われている「エス」が生まれた。その代表作と言えば吉屋信子による『花物語』であり、また少し知名度は下がるが宮本百合子による『伸子』などが挙げられるだろう。

 さて、これらの作品群を「百合」と言わず「エス」とわざわざ呼称したのは、百合とエスとで描く関係性が少々異なるからであり、非常に簡単に言ってしまえば「エス」はその関係性の根底にレズビアニズムへの忌避感を有している(詳しくは以前のnoteで記述しているので、そちらを確認して欲しい。https://note.com/keio_sf/n/na254d3f4303e)。

 忌避感とは言ってもそれは後世から解釈した結果に過ぎず、吉屋信子はレズビアン当事者として例えば『花物語』でもかなりフェミニズム的な話を書いているため、どのような意図を持って「エス」が誕生したのかは本人のみが知るところであろう(『ヒヤシンス』は直球で女性差別問題への苦言であるし、『スイートピー』はいわゆる〝思春期特有の一過性の感情〟を大きく外れている)。しかし大正時代から昭和初期にかけて同性愛は「変態性欲」に分類されていたことは疑いようのない事実であり、それゆえにこの時代のエス作品は常に同性愛への忌避感・嫌悪感と隣り合わせにあった。

(2023/3/20追記
 エスがレズビアニズムへの忌避感を有している、と書いた点について認識に誤りがあるとTwitter上にて嘉川様(@kagawa_writing)からご指摘いただいた。本稿においてエスについて触れた箇所は、『ユリイカ 百合文化の現在』の評論を下地に、『花物語』において少女たちが最後に離別を迎える作品が多数見受けられることから、1970年代の論を適用して書いたものであった。しかし私が実際に触れたエス作品は数える程度しかなく、知識が圧倒的に不足していることは疑いようのない事実である。そのため、この1920年代について記述した部分はあくまで参考程度に読んでいただきたい。)
(2023/4/21追記
上記追記文に、指摘者の情報を追加)



1970年代 百合漫画と悲劇的終局

 少し時代は飛んで1970年代、この時代に日本の百合漫画の原点と言われる作品群が登場する。1970年代は同時代的に多くの百合作品が創作されたため、どれが本当に最初か、というのはかなり難しいのだが、ここでは1971年に山岸凉子が発表した『白い部屋のふたり』および1972年に一条ゆかりが発表した『摩耶の葬列』を例にとって記述する。

 これら2作品がこれまでの百合的なコンテクストを匂わせていた作品群と明確に異なっていたのは、女性同士の愛情を誤魔化すことなく真正面から描いていた点である。どちらも男性とのヘテロな恋愛と対照させつつ、女性が女性に対して恋を募らせていく姿が主題、もしくは主題のひとつとして描写されている。

 この意味において確かにこの作品たちは現在の百合文化と地続きではあるのだが、レズビアンへの差別感情がかなり過激に描写されている点は、現在の百合作品にはあまり見られなくなってきている相違点である。例えば『白い部屋のふたり』では主人公が女性に惹かれている感情が友愛ではなく恋愛だと気づいた瞬間に酷く絶望し、「レズじゃない、レズじゃない」と自分に言い聞かせる。その後も自身が女性を愛した事実を打ち消すように主人公は男性と恋人になり、また作中では女性同士で愛することを「汚れる」「世間一般のレールから外れる」と称している。『摩耶の葬列』においては急に出来た男性の婚約者に戸惑っていた主人公が、旅先で出会った女性に少しずつ惹かれていくのだが、周囲は「女同士でいやらしい」「家の恥」「姉が欲しかっただけ」と主人公の愛情を全面的に否定する。このように、明白なホモフォビアを現実の社会問題に切り込むためではなく、社会通念として描写するのは当時いかに同性愛が世間から白い眼を向けられていたのかを映し出す。

 またこれら2作品に共通するのは、どちらも最終的に恋慕した女性とは死別を経る悲劇的な結末であり、その後主人公はヘテロセクシャルへと〝帰って〟行く点である。当時、同性愛は言ってしまえば「禁断の恋愛」であり、そういった許されざる愛と悲劇的な結末というのは非常に結びつけやすいテーマに他ならない。そのためこの時代の百合作品は悲劇で終わる作品が多く、実際『白い部屋のふたり』では『ロミオとジュリエット』の劇が作中に登場することで彼女たちの恋愛が「禁断」であることを仄めかしている。

 ただし、少女漫画評論家の藤本由香里は別の角度から1970年代の百合作品と悲劇的結末の癒着を考察しており、著書『私の居場所はどこにあるの?』に詳述されているためここでも少し借り受けたい。

 少女漫画でレズビアニズムを表現し始めた1970年代当時、百合作品は必ずと言っていいほどタブーな恋愛として描かれ悲劇的結末を迎える一方で、BL(ゲイ)作品ではタブー観、社会からの侮蔑的な視線などがほぼ皆無である構造上の違いを、この時代の少女漫画の根底にあった価値観によるものであると考察している。概説を述べれば、BL作品は異性愛に付きまとう様々な偏見を排除した純然たる愛を記述するために描かれたものであり、同性愛を真正面から描くものではなかった。一方で百合作品は主な読者が登場人物と同じ女性であるという理由から、(ある種生々しく)レズビアンを描き、タブー観など現実の匂いを引きずるためにファンタジーとしての広がりを描くことが出来なかった。また百合作品と悲劇的終局との癒着は、当時の少女漫画は女性は男性に愛されることで初めて(当時マイナスの要素が現在よりもだいぶ強かった)自身の性を肯定することが出来、社会の一員となるパスポートを得ることが出来るという価値観を根底に有していたことに起因する。つまり、女性同士の恋愛では他者による自己肯定までは得られても、社会の一員となることが出来ずそれが悲劇という形で表現されているのだ。この同性愛では社会から爪弾きにされる、という価値観は、現在でも残念ながら性的少数者への差別が消え去ったわけではないこの社会では身をもって理解することの出来る考察ではないか。

 まとめると、日本で初めて百合漫画が登場し始めた1970年代は、同性愛に対する差別が社会的通念として(現在と比べると)ラディカルに存在し、それは百合作品中でも描写され、この時代の百合作品は「禁断の恋愛」というキーワードと共に悲劇的終局を迎えていた、ということになる。



1980年代 少女漫画で進む百合文化

 先ほど挙げた『白い部屋のふたり』や『摩耶の葬列』が少女漫画であったことからも分かるように、百合というのは現在に至るまで少女漫画(少女小説)の中で揉まれてきた文化であると言える。実際、現在でもなお唯一の定期刊行百合漫画専門誌である『百合姫』は創刊時から2011年に隔月刊行になる〝再誕〟まで、表紙レイアウトにピンクを多用するなど所謂「可愛いらしい」を追求した少女漫画を意識した雑誌作りになっていた。

 1980年代に発表された百合作品は1970年代に発表されたものとレズビアニズムの扱い方を異にするものが少なく、未だ強くレズビアンへの忌避感を前面に押し出す作品が多かった(『イブたちの部屋』や『真紅に燃ゆ』など)。その中で例外的にホモフォビア意識が薄められていたのが、吉田秋生による『櫻の園』である。『櫻の園』は少女漫画雑誌『LaLa』にて連載されたオムニバス漫画であり、女性同士の恋愛を扱った作品が数編存在する。『白い部屋のふたり』などと比べてレズビアニズムへの忌避感が非常に弱まっており、登場人物らが自身の同性へ向ける愛情に気づいても絶望しなければ、周囲が酷いホモフォビアを口にすることもない。死別のような悲劇的クライマックスを迎えることもなく、ただただ愛情を胸に抱いて日々を暮らしていく。『櫻の園』で描かれたレズビアニズムは、既存のそれと異なる新しい恋愛のイメージであったと言えるだろう。

 一方で、少年漫画ではまだかなり強烈な同性愛嫌悪感情が用いられている作品が見受けられた。例えば高橋留美子による『らんま 1/2』では、主人公が性別を行き来するが恋愛は必ず男女の組で起こるものであり、同性同士の恋愛は「変態」で「ちゃんと男の恋人を見つける」もので「正しい道に導く」もので「変態みたいなマネ」として描かれている(おおむね紅つばさ編について)。また江口寿史による『ストップ‼ ひばりくん!』はいわゆる男の娘作品の先駆けであるが、こちらについても男性が女性の服装をすることや同性同士の恋愛については「変態」「鳥肌」「倒錯」などなど散々な言い様である。またこういったセクシャリティ・ジェンダーを取り扱う作品が決して恋愛作品ではなく、コメディ要素を含む作品であったことも印象的である。

 このように、少女漫画では新しい恋愛のイメージを打ち出す作品が登場した一方で、少年漫画においては既存の価値観に則った作品が描かれていた。恐らくはこれが一因となり、2000年代に入るまで百合文化は主に少女漫画の中で育まれることとなったのである。



1990年代 明るいレズビアニズムの到来と『マリア様がみてる』の登場

 1990年代と言えば、百合界隈において「明るいレズビアニズム」が到来した時代と言われている。これは、簡単に言ってしまえば女性同士の恋愛を禁忌や悲劇などと結びつけるのではなく、それ自体をひとつの恋愛の形として描くムーヴメントであり、この変化の遠因として藤本由香里は男女雇用機会均等法を挙げている。

 この「明るいレズビアニズム」を代表する作品と言えば、先に紹介した『櫻の園』に加えて、『美少女戦士セーラームーン』そして現代でも百合作品の金字塔と名高い『少女革命ウテナ』が挙げられるであろう。『美少女戦士セーラームーン』に登場するウラヌスとネプチューンは明白なレズビアンの関係であり、『少女革命ウテナ』においてもアンシーはウテナの「薔薇の花嫁」という立場を明確に主張する。これら2作品には今までの百合作品で描かれがちであった、言ってしまえば〝湿っぽい〟関係ではなく、むしろ〝カラッとした〟関係として女性同士の恋愛(もしくはそれに類似した何か)を描いていた。

 当時としては非常にラディカルな動きであり、これら2作品が残した功績が大きいことは疑いようのない事実であるが、一方でどちらも20年以上前の作品であるが故に当然ではあるが当時のセクシャリティ観を彷彿とさせる場面がある。例えば『少女革命ウテナ』3話にてウテナは自分がヘテロセクシャルであることを「健全」と表現しており、これは同性愛が「不健全」であるという価値観を前提とした台詞である。また、どちらの作品においても描かれる百合的関係性には片方に少なからず男性性を見出すことが出来る。『美少女戦士セーラームーン』のウラヌス(天王はるか)は性別が不明であったり男装の麗人であったりと少々分かりづらいが、兎にも角にも男性と見紛うほどに美麗であり、『少女革命ウテナ』の天上ウテナも(王子様に憧れて、という文脈ではあるものの)常に男子生徒の制服に身を包んでいる。また『少女革命ウテナ』においてレズビアンとして描かれる有栖川樹璃についても、他の女子学生がスカートを履いているのと対照的にズボンを履く、男装の麗人である。この男装の麗人文化は恐らく宝塚からの影響を受けてだと思われるが、男装という記号を見つけることのない百合が主流になるのは2000年代からである。

 また当時のセクシャリティの扱い方がかなり雑であったことは、『少女革命ウテナ』の有栖川樹璃を追いかけることで分かる。彼女はアニメ版にて幼馴染の少女に想いを寄せるレズビアンとして描かれるが、さいとうちほが担当した漫画版では生徒会長の少年を慕うヘテロセクシャルとして描かれる。アニメ版に比べて漫画版は尺が短く、いくつかメインの登場人物が削除されているため、樹璃の物語上のロールが変わっていることは確かに理解できることではある。しかし登場人物の重要なアイデンティティである性的指向を捻じ曲げるのは、現代では(少しでも百合のニュアンスを含ませる作品ならば)まずあり得ない行為である。さいとうちほはあまり同性愛描写に対して肯定的ではなかったらしいというのは非常に有名な話であり、アニメ版監督の幾原邦彦の手を離れた漫画版では充分起こり得る改変であったことは想像がつくが、それを周囲が許容したという点に当時の価値観を感じることが出来る(とは言うものの、原作と性別を変えて映像化するというのは現代でも時折耳にする話である。例えば『黒執事』の映画版は主人公を少年から少女に変えているし、『翔んで埼玉』の百美も映画版にて男性から女性に変更する話があったという。これは百美を演じた二階堂ふみによって却下され、映画版でも百美は設定上男性のままであったことは1990年代とは価値観を異にする点であろう)。


 そして1990年代末、日本の百合文化においてまさしく転換点、この作品を区切りに「以前」と「以後」が表現されるほど爆発的な人気を博した『マリア様がみてる』が発表された。女学院でのスール制度を介した姉妹関係を描いた本作はコバルト文庫から少女小説として販売されるが、読者には驚くほど男性も多かったという。それまで少女漫画の中で醸成され、よって受け手も必然的に女性中心であった百合文化には、『マリア様がみてる』の影響で男性が大量に参入することとなる。詳しくは2000年代で記述するが、男性をメインターゲットとする雑誌で百合作品が連載されるようになり、現在の百合作品の受け手は男女比がおおよそ半々であると言われている(同人誌即売会やサイン会などに行くと九割以上は男性なので、この半々という統計がどれほど正しいのかは疑念の余地があるが)。

 これほどの変化を生み出した『マリア様がみてる』はその後漫画化、アニメ化を順当に果たし、コミックマーケットで同人誌が大量に作られるような人気作へとなっていくが、しかし本作に『櫻の園』に見られたような新しいセクシャリティ観の打ち出しを見ることが出来るかと言われれば否と答えざるを得ない。『マリア様がみてる』は現代でも「百合というよりエス」と称されるように、登場人物たちの想い慕う心は、基本的に友情や〝お姉さま〟へ向ける感情であり、恋愛感情として明白に描かれることはない。また唯一明確にレズビアンとして登場した少女の恋愛が行きつく先は悲劇であり、この点も1970年代の文脈をそのまま受け継いでいる(ただし『マリア様がみてる』ではレズビアンの少女が完全に〝社会〟から爪弾きにされることはなく手を差し伸べる人物が現れるし、その後も彼女がヘテロ的な恋愛をする様は描かれない。この点は1970年代と異なっているだろう)。

『マリア様がみてる』が非常に優れた作品であり、女性同士の関係を描く作品群を急増させたなど、その後の百合文化に多大な影響を与えたことは疑いようのない事実である。しかし現在に見られるような女性同士の恋愛感情を描くタイプの百合作品により近しい物語構成をしていたのは、恐らく後述する『Strawberry Panic』や『青い花』『少女セクト』『神無月の巫女』などであろう。



2000年代 ポスト『マリア様がみてる』作品と日常系作品の登場

 ここでは便宜上「ポスト」と表現したが、実際には『マリア様がみてる』は2012年まで連載されており、この言い方はあまり正しくないかもしれないがご了承願いたい。

 2000年代、『マリア様がみてる』の成功を受けて出版社や作者側が百合文化に注目し始め、百合作品が急増していく。そしてそれは、今までのように少女漫画や少女小説という媒体に限った話ではなかった。

 まずひとつ日本の百合文化の非常に大きなムーヴメントとして、2003年に中村成太郎が『百合姉妹』(後の『百合姫』)を創刊したことが挙げられる。2023年の現在に至るまで、様々な百合専門誌が生まれては消えを繰り返してきた歴史の中で、『百合姫』は日本で唯一の百合専門誌として確固たる地位を築いている(つい最近、百合専門の文芸誌として『零合』が発表され、唯一ではなくなった)。『百合姉妹』および『百合姫』は表紙に『マリア様がみてる』のイラストを担当していたひびき玲音を採用しており、『マリア様がみてる』の人気を意識した雑誌構成となっている。

 また2000年代初頭の百合作品のレズビアニズムとしては、2003年『Strawberry Panic』2003年『少女セクト』2004年『青い花』2004年『神無月の巫女』を例にとって詳述する。

 まず『Strawberry Panic』は美少女ゲームの情報などを取り扱う、つまりは男性読者をメインターゲットとした『電撃G’s magazine』を掲載誌としており、『マリア様がみてる』の人気を受けてそれまで女性向け界隈で醸成されてきた百合文化を男性向け界隈に輸入した第一号ともいえる作品である。事実、『Strawberry Panic』の世界観には『マリア様がみてる』と共通する部分が往々にして見受けられる。また、当時〝百合〟という文脈が男性向けで受け入れられるか出版社側も不安であったのだろう、『Strawberry Panic』は当初登場する美少女たちを読者たちの妹という設定にし「兄が妹の人間関係を手助けする」という妹萌えの要素を組み合わせた読者参加型企画としてスタートした。実際には、この「兄=読者」という構造的に男性が百合に挟まる展開は不評だったようで、兄は次号から削除され、読者はただ自分が望むカップリングを出版社側に送りそれで物語が左右される、という形に収まった。本作は2006年にアニメ化され、その中では女性同士の恋愛が(もちろん様々な紆余曲折はあるものの)悲劇という結末を迎えることなく描かれた。登場人物たちが「女同士だから」という理由で恋心に疑問を持つ描写なども特に見受けられず、これと言って差別的な描写も記憶する限りではない。その他の同時代作品からも同性愛蔑視的な描写が急速に消えていった事実を踏まえれば、1970年代の少女漫画と異なり主たる受け手が男性となったことで、百合もファンタジーとしての広がりを持つようになったのではないかと推測が立つ(本作ほど差別的な視点が描写されないのは、『Strawberry Panic』が美少女コンテンツであるから、というのも大きな理由になるかもしれないが)。読者参加型企画であることなどを除けば基本的には、現代で眼にする百合作品の文脈そのままであると言えるだろう。

 次に『青い花』であるが、こちらもまた『マリア様がみてる』の世界観や舞台設定とかなり共通する部分が見受けられる作品である。ただ『マリア様がみてる』と本作とが決定的に異なった部分は、女性同士の恋愛関係を雰囲気で匂わせるなどではなく、明確にそれとして描いた点である。つまり、姉妹関係などで恋愛感情の有無がぼやけていた『マリア様がみてる』への完全なアンチテーゼであり、差別化を図る上で意識的に描いていたと作者自身がwebアンケートで答えている。主人公が最初に付き合っていた女性から手ひどい裏切りを受け、そこから他の恋愛を発展させていくなど、現在の百合漫画の文法は『青い花』の中に相当見つけることが出来る。加えて、これに関しては作者の志村貴子がセクシャリティ問題への解像度がかなり高いためであるが、作中ではレズビアンやバイセクシャルなど個々の登場人物の性的指向を明確に表現するシーンも見受けられ、溝口彰子は『青い花』を「広い意味での「百合」であり「GL」であることと、レズビアン物語であることを、かつてない密度で両立させた作品」と評価している(溝口彰子は該当の評論において、百合作品とレズビアン作品を微妙に区別している)。

 そして『少女セクト』。こちらは成人向け雑誌で連載された百合エロ漫画であり、そもそも百合が男性向けエロ漫画雑誌で連載されるのは今でもなお稀有である。それを可能としたのは玄鉄絢の類い稀なる力量によるものであり、現在でもなお百合エロ漫画の最高傑作であるという声がある。登場人物たちは、女同士であるからということに葛藤を覚えることはなく、周囲から(ほぼ)差別的な発言を投げかけられることもなく、解放的に愛し合っていく。

 最後に紹介する『神無月の巫女』は漫画とアニメのメディアミックス作品であり、男性ひとりと女性ふたりの三角関係、男女との恋愛と対比させつつ女性同士の愛情を描いた百合ロボット作品である。本作品もまた、女性同士の恋愛を正面から描くことを製作者サイドが明言しており、『青い花』のようにセクシャリティを丁寧に描写するには至らなかったが、匂わせで終わらない百合的恋愛を描き切った。主人公の女性へ向く恋愛感情は、男性へ向くそれと全く同等のものとして描かれ、「女性同士だから」という理由で忌避されたり卑下されたりすることは一切ない(アニメ9話にて「変態」「このレズ」と差別する人物が登場するが、次の瞬間には制裁されるという徹底ぶりである)。アニメの最後で主人公とその恋人が引き裂かれ、ふたりで幸せになるのは来世である部分が1970年代に描かれた悲劇的クライマックスを引き継いでいる、という声もあるが、本作品は1970年代の悲劇的終局とは本質的に異なる。ふたりの別れは彼女たちがレズビアンとして歩んでいくことを、男性との恋愛と対比させることで明白にするための演出であり(つまり所謂〝一過性の感情〟の否定)、想い人と死に別れ、その時の感情を一過性のものとしてヘテロな恋愛へと帰って行く1970年代とは比べ物にならないほど同性愛に肯定的である。また、漫画版においては彼女たちは引き裂かれず、ふたりで永遠の時間を共にするというラストもまた象徴的である。

 以上まとめると、2000年代前半は、『マリア様がみてる』の影響で百合文化が女性向け界隈を飛び立ち、男性向け、あるいはそういった読者層を規定しない媒体へと展開していった時期である。同時に、それまで描かれがちであった「女性同士だから」という薄暗さを捨て去り、レズビアニズムをひとつの恋愛の形として明白に表現する作品が増えた時代であるともいえるだろう。


 そして2000年代後半、『らき☆すた』や『けいおん!』を代表作とする日常系作品が注目され、百合界隈にも大きな影響を与える。ここで面白いのは、これら2作はどちらも明確な百合作品ではなく、あくまで登場人物たちの緩やかな日々を描く日常系作品であるにも関わらず、多かれ少なかれ百合要素を取り入れている点である。

 例えば『らき☆すた』においては、主人公泉こなたと柊かがみのカップリングが注目を浴び、『らき☆すた ~陵桜学園 桜藤祭~ DXパック』では泉こなたが柊かがみの頬にキスをするイラストがジャケットに使用される。さらに公式から単なる友情以上の感情を匂わせる小早川ゆたかと岩崎みなみというカップリングが供給される。

 次に『けいおん!』においては、登場人物のひとりに女の子同士が顔を近づけ合っていると彼女らの百合妄想に走る、という百合好きキャラが出てくる。しかし実際にはこの設定はなんの伏線もなく第7話にて突如追加されたものであり、その後も彼女が百合妄想に走る件は片手の指で数えられる程度しかない(というよりも、原作第4巻までではその後妄想の描写までされたのは一度しかない)。加えて彼女の妄想描写は原作の加筆修正が多いアニメ版においても完全に削除されるなど、〝とってつけた〟という感覚を抱いてしまうものであった。

 これら日常系作品は百合要素を取り入れつつも、あくまで百合は匂わせるに留めており、『青い花』や『神無月の巫女』が目指したような正面からレズビアンを描く行為は基本的に行わない。というよりも、日常系作品の主題はあくまで「日常」を描くことであり、そこに輸入される百合要素は作品を盛り上げる、ないしはキャラ立ちさせるための一種のスパイスなのである。こういった百合要素の扱い方は、「百合=恋愛」というそれまで主流であった価値観に、「百合⊃日常系的な友愛(いわゆるキャッキャウフフ的な関係性)」という価値観を強く埋め込むこととなった。


 以上まとめると、2000年代前半はポスト『マリア様がみてる』的な作品、つまり明確なレズビアニズムをほぼ描くことはなかった『マリア様がみてる』のアンチテーゼとして、女性同士の恋愛を真正面から描く作品が多数登場した。2000年代後半には百合要素を物語構成の一部として利用した日常系作品が登場、これらは爆発的なヒットを飛ばし「百合⊃日常系的な友愛」という価値観を作品の受け手に強く埋め込むこととなった。



2010年代 『ゆるゆり』の成功と『citrus』『やがて君になる』の成功

 2000年代後半に日常系作品が流行した事実を受けて、『百合姫』編集部も2007年に日常系寄りの百合作品を集めた『コミック百合姫S』を創刊する。ここで2008年から連載されたのが『ゆるゆり』であり、その名前の通り少女同士の緩い百合的関係性を描写する作品である。順調に人気を伸ばしていった本作は、2011年に『百合姫』初のアニメ化作品となる。百合が商業として成立すると判明した2000年代初頭の最初期から、唯一の百合専門誌として出版を続けてきた『百合姫』の初アニメ化作品が、百合的恋愛を真正面から描く作品ではなく日常系に寄った作品であったことはかなり象徴的な事実である。『ゆるゆり』の人気に乗るようにして『百合姫』は雑誌の表紙に原作者のなもりを採用し、『ゆるゆり』を前面に押し出していく。そして後を追うようにして『百合姫』2本目のアニメ化作品となったのは、こちらもまた日常系に寄った『犬神さんと猫神さん』。いかに当時(そして現在も)日常系作品が商業として強いのかが伺える事実となっている。

 このように、百合コンテンツと日常系作品との親和性が強調された2010年代初頭、百合作品が勢いづいていく一方で、玉木サナは「『百合姫』を買ったらガチレズ作品ばかり。百合が読みたい」という旨のネット上の書き込みに衝撃を受け、「百合=レズビアニズムを匂わせるに留める日常系作品」と認識されるようになるのではないか、と危機感を覚えたと語る。実際には2023年になった現在、百合の定義は「女性同士の関係性を描いた作品群」という、日常系作品も真正面からレズビアニズムを描いた作品も包括する幅の広いものとなり、この懸念は実現しなかった。しかしこの懸念事項は必ずしも的外れではなく、現在でも「百合は見たいがレズは見たくない」という作品の受け手は一定数存在する。これについてもう少し詳述する。

 現在の百合界隈において広く浸透してはいるものの、理性的な思考から使用が控えられる百合作品の区分として「百合作品」と「レズ作品」というものが存在する。「百合作品」というのは日常系作品や女性同士の恋愛模様を描いた作品群であり、「レズ作品」というのは恋愛のさらにその先、セックスや破局などを描く作品群であるという考え方だ。この区分はかなり曖昧なものであり、受け手各々によってどちらに分類するのかは異なってくるのだが、例えば先ほどから述べている『ゆるゆり』や現在人気の高い『囁くように恋を唄う』は「百合作品」、『白い薔薇の淵まで』に代表される中山可穂作品や『少女セクト』『作りたい女と食べたい女』などは「レズ作品」となるだろう。正直この分類法はかなり危ういものであり、加えて「レズ」は差別的な意味合いを歴史上含んでいるため全て「百合作品」と称した方が要らぬ問題を起こさないのだが、そこまで百合作品に明るくない人や百合に入りたての人からは今でも時折「これは百合というよりレズ」という言説が飛び出す。ただしこの「百合vsレズ」のような感覚は何ら新しいものではなく、森奈津子は自身が学生時代に「エス以上、レズ以下」の関係性として「百合」が存在していたと語る。ただ、現在では「エス」に称される関係性が「百合」に吸収され、結果として「百合vsレズ」という二項対立が出来上がった(『ささめきこと』においても、百合は女性同士の精神的関係性であり、レズビアンは即物的な情動と主張する登場人物が登場する)。


 少し話がズレたため、本題に戻そう。2010年代前半は2000年代末期から台頭し始めた日常系作品の影響が色濃く、『ゆるゆり』など日常系のエッセンスを取り入れた百合作品が商業的な成功を納めた。

 そして2010年代後半、間違いなく2010年代を代表する百合作品であり、百合作品の金字塔である『citrus』と『やがて君になる』が遂にアニメ化される。これら2作品は真正面から女性同士の恋愛を記述しており、つまり『青い花』や『神無月の巫女』に見られた百合の系譜を、2010年代のセクシャリティ観を持って描いた作品が商業的に成功したと言える。

 例えば『やがて君になる』のセクシャリティ観として象徴的なのは、4巻幕間の『初恋はいらない』であろう。レズビアンとして記述される登場人物の佐伯は、自身のセクシャリティを気づかせたかつての恋人に「一時の気の迷い」として手酷く振られ、その後「普通の子(ヘテロセクシャルの女性)に戻ってくれたらいいんだけど」と謝られる。ヘテロセクシャルが普通であり、ホモセクシャルは普通でない、という言説はそれこそ何十年、何百年と前からある二項対立であるが、『少女革命ウテナ』では主人公にこの発言をさせていたものを、明らかな当て馬に発言させることで間違った思考であると明示している点が2010年代のセクシャリティ観を象徴する。加えて、『やがて君になる』もまた「女性同士だから」という理由で彼女たちの恋愛に二の足を踏むことは基本的になく、これまでの百合作品のレズビアニズムの変遷に沿ったものとなっている。

 次に『citrus』であるが、こちらは別の意味で2010年代らしいセクシャリティ観を発揮している作品である。それというのも、先ほどまで紹介した百合作品群では「女性同士だから」という理由で恋愛を躊躇うことはほぼなかったが、『citrus』では6巻にて主人公が世間のレズビアンへ向ける差別的な視線を意識し、これまで妄信的に突き進んでいた恋愛を躊躇するエピソードが描かれる。その意味では1970年代と似てはいるが、その時代とは異なり『citrus』では登場人物たちがレズビアンとして前に進み始めるのである。そしてレズビアンとして描かれた主人公たちは恋愛の終着点として結婚をするに至るが、百合作品において結婚が描かれるのはかなり稀有な例である。というのも、女子高生の恋愛事情を描いた百合作品の多くは彼女たちの高校生活を描き切った後、大学生となっても彼女たちが一緒にいる場面を少しだけ記述することで「彼女たちの恋が高校生の時という一過性のものではなく、これからも続いていくものだ」と暗示する。しかし、この「高校生の一過性の感情の否定」に結婚を用いた作品は数少なく、近年で言えば『ぽちゃクライム!』ぐらいしか思いつかない。この偏りが生まれた確かな理由は不明であり、恋愛物語を結婚までつなげるのが難しいのが最も大きな理由だとは思うが、他の理由のひとつとして現在日本では同性婚が認められていない事実があるのではないか、と考えられる。百合作品で結婚を描こうとすれば現実の同性婚問題が直面し、実際『citrus』でもこの問題は脇に置くことで回避している。


 以上、かなり大雑把にではあるが2010年代の百合作品とセクシャリティ観の変遷を眺めて来た。2010年代前半では日常系のエッセンスを取り入れた百合作品が成功し、後半には『青い花』と系譜を同じにする作品が成功し20世紀とは異なるセクシャリティ観を発揮した。もちろん、2010年代後半にも『私に天使が舞い降りた!』という百合的なニュアンスを含んだ日常系作品がアニメ化するなど、日常系作品の人気は健在である。百合作品と日常系作品どちらかしか生き残れない、という二者択一的な絶対論ではなく、両方とも一定の読者を集められるという両立の道を歩み始めたと言える。

 また先ほど大雑把と称したのは、2010年代は漫画のネット連載など媒体の多様化によって百合作品が加速度的に増加した時期であり、その全てを追うことは不可能に近いからだ(やろうと思えば出来るだろうが、それには修論並みの労力が必要であろう)。

 実際、2010年代を代表する百合作品や百合のニュアンスを取り入れた作品は今まで挙げたものの他にも、『捏造トラップ-NTR-』を代表とするコダマナオコによる作品群、『星川銀座四丁目』や『あさがおと加瀬さん』などの『つぼみ』『ひらり。』の掲載作品群、『将来的に死んでくれ』などのコメディ作品群、『魔法少女まどか☆マギカ』や『ラブライブ!』『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』『アサルトリリィ』などのアニメ作品群、『生のみ生のままで』や『安達としまむら』などの百合小説群などなどその数は途方もない。『Dear My Teacher』や『ガレット』、焔すばるや名宵(旧、市町村)などによる百合一次創作同人誌にまで手を伸ばせば、それこそ収集がつかない。本論は二次創作に重きを置かない百合作品のメインストリームを例にとって、その時代の百合作品とセクシャリティ観の変遷を考察することを主目的とするため、このぐらいでお茶を濁させて頂きたい。



2020年代 百合作品における同性婚の扱い方

 2020年代と言っても、まだ始まってから3年と少ししか経っていないような時代を包括的に論ずることは難しいため、ここでは2010年代の『citrus』で少し論じたような、女性同士の結婚を主題としながら百合作品の多様性について論ずるものとする。

 結論から先に述べてしまえば、現在の百合作品において同性婚の扱い方はおおよそ3つに分けることが出来る。1つ目は、そもそも同性婚を作中に登場させない。2つ目は現実の日本にも存在するパートナーシップ制度を登場させる。そして3つ目は、同性婚が実現している世界線であることを前提にする。これらについて、具体的な作品名を挙げながら論じていく。

 まず同性婚を作中に登場させない、つまり主人公らの恋愛やそれを彷彿とさせるような感情をそれのみで描き、結婚の話までは持っていかないというものである。詳細な統計を取ったわけではないため確かなことは言えないが、体感的にはこれに属する百合作品が最も多いだろう。近年の作品で言えば、初めに名前を挙げたような『リコリス・リコイル』や、『ロンリーガールに逆らえない』『囁くように恋を唄う』そして『百合オタに百合はご法度です⁉』などが該当するであろう。これらの作品が同性婚を扱わない理由は様々であろうが、最後に名前を挙げた『百合オタに百合はご法度です⁉』は友人へのカミングアウトや、「百合」という言葉がフィクションの要素を孕み現実のレズビアンへ向ける言葉とは異なっている実情まで切り込んでいたことを踏まえると、やはり恋愛を結婚の話まで繋げることはストーリー上難しいのだろうと思われる。そうして、そういった女子高生を主人公とした作品のエンドは決まってふたりが共にいる大学生編を数ページで記述するものであり、これを持って彼女たちの恋愛が一過性のものではなくこれからも続くのだと暗示する。同時に、あれほど主人公同士の関係性を描いていた『リコリス・リコイル』が同性婚やレズビアンという単語を登場させず性的指向をぼかしていたのはまた他の理由、つまり「百合は見たいがレズは見たくない」という視聴者への配慮もあったのではないか。というのも、「リコリス・リコイル」には明確なゲイが登場し、彼らが性行為に及んだと思われるベッドシーンなどの描写もある。言ってしまえば〝酷く〟現実的で、仮に彼らの関係性が友愛や元相棒などでもそこまでストーリー上問題ない男性同士の恋愛を描いたのは、BL好きの視聴者を引き込む目的以上に、私には製作者サイドによるレズビアニズムの暗喩があったのではないかと思う。つまり主人公たちの身近に同性愛者を配置することで彼女たちを明確なレズビアンと描かずとも、彼女たちの想い(作品を見るだけでは恋愛とまでは言い切れない)が同性同士で性交渉を及ぶに至るものであると暗示したのである。『リコリス・リコイル』の世界では同性婚が可能であるか不可能であるかは明かされていないが、ゲイの男性を登場させることで作中において同性愛は存在するものであると明示し、「百合は見たいがレズは見たくない」という人間から百合的恋愛を求める人間まで、幅広い視聴者をターゲットとすることに成功したのである。

 次にパートナーシップ制度を登場させる作品について。これに該当する作品はあまり多くなく(恐らくオタク界隈で敬遠されがちなリアリティや社会性を作品に含みやすくなるため)、エッセイ漫画などを除けば2010年代の作品になるが『親がうるさいので後輩と偽造結婚してみた。』が筆頭に上がり、同性婚が不可能であることを示したり匂わせたりする作品まで含めれば『君としらない夏になる』『はぐれアイドル地獄変』などが挙げられるだろう。また現状登場してはいないが、これからまず間違いなく同性婚問題について触れるであろう作品として『作りたい女と食べたい女』がある。作中でも様々なセクシャリティ問題やジェンダー問題に切り込んでいた『作りたい女と食べたい女』であったが、実写ドラマ化にあたって現実で同性婚訴訟を行っているMarriage For All Japanと連携してチャリティグッズの販売を行っていた。加えて「物語のままで終わらせない」というキャッチコピーで同性婚問題を新聞広告まで打っていた。これは間違いなく、2022年の百合界隈で最も衝撃的だったニュースである。日本ではこれまで数多くの百合作品、BL作品が描かれてきたが現実に同性婚は認められておらず、このことを疑問視、問題視する百合好きBL好きは多数存在する。しかしこれまでも作中で同性婚が出来ないことを問題視する作品はあれども(『愛の国』や『生のみ生のままで』など)、出版社まで巻き込んで現実に声を上げる作品はまずなかった。これは恐らく、日本政府は兎も角、作品の受け取り手として想定している日本国民の間で同性婚への忌避感が非常に薄まっている現実を反映してのことだろう。ある統計によれば、全国民の過半数が、20~30代では8割以上の国民が同性婚に賛成だと言う。百合作品を読む人間に限れば、この割合はもっと伸びることだろう。こういった現実のセクシャリティ観の変化を踏まえて、出版社は「この作品ならこれぐらいやっても問題ないだろう」と判断した結果が「物語のままで終わらせない」のキャンペーンであろう。実際、この運動で『作りたい女と食べたい女』を叩く人間はまずいなかった。10年前にはまずあり得なかったこのムーヴメントが存在した、その事実が「同性婚が認められないのはおかしい」という2020年代のセクシャリティ観を鮮明に映し出す。

 そして最後に、作品世界そのものを同性婚が可能であるものとする作品について。恐らく最近になって日の目を浴びたこの設定(『咲 -saki-』も2019年に同性婚が可能であると突如明かした)を取り入れた作品としては、本評論のタイトルにも使用した『水星の魔女』や『女ともだちと結婚してみた。』『私以外全人類百合』『お姉さんは女子小学生に興味があります。』などが挙げられる。特に『水星の魔女』については、第1話にてヒロインの「お堅いのね」という発言で、彼女たちの世界では同性婚は当たり前のことであり、同時に同性同士の恋愛も何ら忌避されるものではないという印象を強く植え付けた。その後も主人公とヒロインとの関係性を深堀していき、どちらも男性との恋愛感情を微かに描写しつつ、ついに11話にて彼女たちの感情が友愛を超えた恋愛であるということをかなり明確に表現するに至った(ただし現状では恋愛だと断言するのには不足しており、彼女たちがレズビアンないしはバイセクシャル(パンセクシャル)とは必ずしも言い切れない)。本評論の最初に述べたように、ここが『水星の魔女』と『リコリス・リコイル』とのセクシャリティ表現の相違点である。前述したように『リコリス・リコイル』では主人公たちをレズビアンと明記せず周囲の人物によって同性愛が存在することを明示するという、「レズが嫌」という視聴者とのチキンレースのような様相を呈していたが、『水星の魔女』では同性婚を前提にしてしまうことで百合的恋愛の可能性を強調しつつ、主人公とヒロインの周囲に男性を配置することで彼女たちがレズビアン、バイセクシャル、パンセクシャル、ヘテロセクシャルその全ての可能性を残して物語を展開した。どちらもより幅広い視聴者層を獲得しよう、という思惑が別の切り口によって実現されており、続くクールで放送されたということもありかなり面白い差別化であった。ただ『水星の魔女』で惜しむべくは、同性婚が可能であるという世界観設定が主人公たちの関係性記述のためだけに用意されたものであり、現状彼女らの周りに実際に同性カップルの描写はなく、ほぼ死に設定と化している点だろう。2期の最後で主人公たちが結婚するのならばこの設定は充分機能したと言えるであろうが、もしそうでないのならば作品の視聴者を増やすために流行りの百合を取り入れてみた、という2000年代終わりに百合をスパイスとして輸入した日常系作品群と同じ動きとなる。『水星の魔女』が果たして同性婚が可能であるという設定を下地に敷くことで、百合界隈に新しいイメージを打ち出すことになるか、これは2023年4月より放送予定の2期を視聴してから判断したい。


 以上、2020年代の百合を導入した作品群における同性婚を考察した。同性婚の取り扱い方は、そもそも登場させない、パートナーシップ制度など現実に即した描写をする、そして認められている世界観を前提とする、という3つに大きく分けることが出来た。そしてどの扱い方を選ぶかは製作者の思惑が強く結びついており、多くの百合作品はひとつ目の登場させない手法を選択している(『リコリス・リコイル』など)。パートナーシップ制度や日本では同性婚が不可能であるという事実を描写する作品は、レズビアンへのヘイトなど現実とリンクした社会性の記述が随所に見られがちである(『作りたい女と食べたい女』や『はぐれアイドル地獄変』など)。そして本評論のタイトルにもある『水星の魔女』は同性婚が当たり前の世界を前提としており、こういった設定が今後百合界隈に新しいイメージを打ち出すかは、今後判断していくものであろう。



終わりに

 本評論では、年代ごとの百合作品や著名な作品を例に取ることで、百合作品の変遷、そしてそこに込められたセクシャリティ観を考察してきた。日本初の百合作品と呼ばれる『花物語』が登場した1920年代にはホモフォビアをバックボーンとしたエスが描かれ、本格的な百合漫画が登場した1970年代には同性愛への忌避感や嫌悪感が殊更に強調され、禁断の愛というキーワードと共に破局と結び付けられることが多かった。1980年代には少女漫画ではこういったホモフォビアが薄れ始め女性同士の何でもない恋愛が描かれることもあったが、少年漫画では依然としてホモフォビアが激しくストーリーに組み込まれていた。1990年代、百合作品の金字塔と呼ばれる『少女革命ウテナ』『美少女戦士セーラームーン』が明るいレズビアニズムを牽引し、そして現代の百合文化に一番の変革をもたらした『マリア様がみてる』が連載を開始した。『マリア様がみてる』のセクシャリティ観自体はそれまでと大きく異なることはなかったが、この作品の影響を受けたポスト『マリア様がみてる』作品が幾つも発表され、『青い花』や『神無月の巫女』など誤魔化すことなくレズビアニズムを真正面から描く作品が少女漫画以外にも2000年代前半に登場した。2000年代後半には急速に成長した日常系作品が要素のひとつとして百合を取り入れ、「百合⊃日常系的な友愛(いわゆるキャッキャウフフ的な関係性)」という価値観を強く埋め込んだ。日常系作品の成功を受けて2010年代初めに『ゆるゆり』が『百合姫』で初めてアニメ化を果たし、2010年代後半には同性愛を正面から描いた『citrus』や『やがて君になる』がアニメ化し、日常系のエッセンスを取り入れた百合作品とレズビアニズムを明確に描写する百合作品の両立が見られた。そして2020年代、現実世界における同性婚への忌避感が薄れた結果、同性婚問題を出版社を巻き込んで表現出来る作品が出てきた一方で、同性愛描写を忌避する視聴者を取りこぼしてしまわないような工夫が作品の随所から見られている。

 このような論理展開で本評論を書きあげたが、実際には私の認識が間違っていたり、いくつか著名な作品が抜け落ちていたりするだろう(『LOVE MY LIFE』など)。また、『美少女戦士セーラームーン』や『マリア様がみてる』『プリキュア』『ラブライブ!』『BanG Dream!』などの二次創作による影響を一切考慮に入れていないことは致命的であるし、もっと言うならばやおい・BL作品群との相互作用についても考察することが望ましいだろう。兎にも角にも、私自身まだまだ百合歴が5年の若輩者であるため力不足を痛感せざるを得なかったが、今書くことの出来る精一杯は出し切ったはずである。

 最後になるが、現状慶應義塾大学には百合サークルというものが存在しない。そのため、新入生の中には悲しく思っている方がいるに違いない(違いないのである)。本評論を読んで、少しでも慶應SF研究会に興味を持った人は、是非戸を叩いてみて欲しい。



その他、本論で扱わなかった作品やテーマなど

・氷室冴子

 日本の少女小説の立役者、ライトノベルが生まれるキッカケになったと名高い作家のひとりである。有名な話ではあるが彼女は吉屋信子の影響を非常に受けており、例えば彼女の代表作『クララ白書』では主人公の愛読書が吉屋信子の著作になっている。そのため、『クララ白書』においても「お姉さま」的な百合を感じることが出来るし、『私と彼女』もコメディ作品ではあるが充分に百合である。

 そしてこれもまた有名な話ではあるが、『マリア様がみてる』の作者である今野緒雪は執筆を始めた当初『花物語』を読んでいなかった。どちらもエスを描いた作品として名を並べられることの多い作品であるが、そこに直接的な繋がりはない。一方で、今野緒雪は氷室冴子の影響を受けたと公表しており、つまり吉屋信子の世界観、作風は氷室冴子を中継することで今野緒雪にまで届いていたのである。このあたり、もっと詳しい人が考察してくれないだろうか。


・アンソロジー

 百合アンソロジーは同人まで含めれば現在驚くほどの数が世に出回っているが、その原点は『EG』である。また連載作が存在する定期刊行アンソロジーとしても、『つぼみ』や『ひらり。』『メバエ』『Comic Lily』、成人向けとしてはオークスの出版した『色百合シリーズ』『彩百合』『L Ladies & Girls Love』『Lガールズ』などなど多岐に渡る(全て出版は停止しているが)。アンソロジーは様々な作家がいるために、その時代のセクシャリティ観を考察するにはかなり向いているのではないかと思う。というのも、「この作者はかなりリベラルな人だから作品がこうなった」という要因を排除できるためである。今回は時間の都合上断念したが、いつか書いてみたい。もしくは私以外の誰かが考察して欲しい。特に百合姫を創刊号から保持し、全て読み込んでいるような猛者の方。本当に頼みたい……。


・TS作品

 百合作品と混ぜるな危険、という扱われ方をされているのは何を隠そうTS、男の娘、ftnrとまぁ、そのあたりだろう。とはいってもそれは百合界隈の認識に過ぎず、私は『水星の魔女』にハマって二次創作を覗き、ftnr作品のあまりの多さに驚愕を覚えたものだ。

 百合とTSを混ぜた場合の荒れ具合はかなりのものであり、『百合ドリル 沼編』が一時炎上騒ぎになったことは記憶に新しい。一方で『百合姫』の『拗らせろ! 百合妄想!』では『君の名は。』が瀧の身体に三葉の精神が入っている時にミキが瀧へ惹かれていくことから百合作品であるという考察がされるなど、その様相は中々混沌を呈している。

 百合ファンが百合作品とTS作品とを差別化する理由としては、つまるところTS作品の場合肉体の性別(セックス)は女性でも、精神の性別(ジェンダー)は男性であるから、というものである。百合は精神的結びつき、と表現する人が(だいぶ減ったであろうが)居ることからも分かるように、ジェンダーが女性同士であるということが百合作品であることの第一条件のように思える。ただし、と言ってもトランス女性とシス女性との関係性を描いた百合作品というのは知る限りで存在しないし(『恋するシュガーコットン』がトランス女性と思われる主人公を描いてはいた)、女性が男性にTSしレズビアンの恋人との関係が変容する作品も『それでも絶対君が好き』などの同人作品に留まる。また性自認がクエスチョニングの生物学的女性で性的指向が女性に向いている人物を描いた作品があれば、それはやはり百合と呼称されるであろうことを踏まえると、このあたりの境界はかなり不鮮明である。これまた界隈にだけ通じるであろう言葉で端的に表せば「百合の間に挟まる野郎を許すな」という、百合作品に男性性を見出したくない感情の現れなのだが。

 上記のように、セックスだけでなくジェンダーまで取り入れてTSを包括的に議論しようと思えば、恐らく出発点は『リボンの騎士』になるであろう。しかし私はこのあたりを踏まえて語れるほど詳しくないのでその議論は誰かに譲りたい。ここでは1980年代でも名前を挙げた『らんま 1/2』および『ボクガール』を例にとって簡単にTS作品におけるセクシャリティを記述する。

 この2作品に共通する点は、どちらも主人公が男と女の性別を行き来する、というものだ。『らんま 1/2』に関しては先ほど述べた通りであるし、『ボクガール』も物語終盤で肉体の性別があやふやになる。そして『ボクガール』では主人公が最終的に、男性と恋仲になるならば女性になることを選び、女性と恋仲になるのならば男性になることを選ぶ、というヘテロセクシャルを前提とした二者択一を迫られる点も『らんま 1/2』と非常に似通っている。『ボクガール』は2014年連載開始の作品であり、『らんま 1/2』からおよそ30年近い月日が経過しても根底が変わらない様相には苦笑してしまった。

 とは言え私がTS作品に飛びぬけて詳しいわけではないし、現代ではこのあたりがもう少し変わった作品が登場しているのかもしれない(私は最近『異世界美少女受肉おじさんと』に百合を感じている)。『あやかしトライアングル』? 知らんなぁ……?


・アイドル作品などの百合アニメ、百合ゲームなど

 恐らく2010年代の百合の変遷を語ろうと思えば、ネット連載というメディアの多様化に加えて、『ラブライブ!』や『BanG Dream!』などのアイドル作品やバンド作品に触れない訳にはいかないのであろう。……あろうが、私がこのあたりに詳しくなさすぎるため今回はあえて触れなかった。

 こういった作品群では、まず殆ど男性は作中に登場せず、主要人物の殆どが女の子で構成された舞台設定を用意するものが多い。そして日常系作品と同じように、女の子だけの箱庭を盛り上げる要素のひとつとして、公式が少なからず百合を意識していることはまず間違いないだろう。2018年に放送されていた『ゾンビランドサガ』などその典型例であり、というか2010年代の後半から公式が百合を商品として売る手法を心得て来た気がする(『マリア様がみてる』を彷彿とさせる学園観を導入し、主人公の名前が梨璃、先輩の名前を夢結としてカップリング名が「ゆり」になるという、公式がこれでもかというほど百合を意識していた『アサルトリリィ』のアニメが2020年。そして2023年には公式が百合であると断言しているスマホゲーム『トワツガイ』がサービス開始した)。

 あくまで二次創作で描かれるものであった関係性を公式が輸入する現象はありとあらゆる界隈で見受けられるが、誰かこのあたり詳しい人が書いてくれるととても嬉しい。


・百合小説

 今回の評論は百合作品といっても、おおむね百合漫画、そして百合アニメを主として取り扱ってきた。しかしこういった作品の受け手と、小説の読み手では重ならない部分があり、そのため百合(レズビアン)小説ではまた少し異なったセクシャリティ観が展開されている。たとえば百合小説の第一人者である中山可穂はデビュー作『猫背の王子』からレズビアンを真正面から描き、2014年の『愛の国』では痛烈に現実に蔓延る同性愛差別を批判した。綿矢りさは『ひらいて』にてレズビアンというよりもパンセクシャルに近い主人公を描き、『生のみ生のままで』ではバイセクシャルの主人公とそれを取り巻く周囲の無理解を描いた。斜線堂有紀は百合営業という題材で百合の消費と主人公のレズビアンの感情をよく描くし、つい最近発表された『選挙に絶対行きたくない家のソファーで食べて寝て映画観たい』では現実のレズビアンカップルが直面する政治への関心無関心のすれ違いを描いた。その他にも松浦理英子や宮木あや子、王谷晶などレズビアンを題材とする作品を描いた作家は多い。

 小説では漫画やアニメよりもラディカルに同性婚問題を批判し、またセクシャリティについて詳しく書いている気がするが、あまり確かなことは言えないのでこのあたりで触れるのはやめておこうと思う。いつかもう少し真面目に研究して評論を書ければと思ったり思わなかったり。


・「レズビアン」という単語

『作りたい女と食べたい女』など社会的な話題に切り込む作品、もしくは『今日もひとつ屋根の下』などのエッセイ漫画などを除き、「レズビアン」という単語が登場する百合作品(漫画やアニメ)は驚くほどに稀有である。実際、日本で唯一の百合漫画専門誌である『百合姫』でも「レズビアン」という単語を濁さずキッチリ記述したのは直近で『私の百合はお仕事です!』や『私の推しは悪役令嬢』などに限られるであろう。この理由を、アニメ『けいおん!』第11話から考察してみる。

 アニメ『けいおん!』第11話では、原作の漫画には存在しなかったシリアス展開(登場人物たちの仲が拗れ、バンドの雰囲気がかなり険悪になる)が描かれる。そもそもからして加筆の多いアニメ『けいおん!』において11話がこうなったのは、アニメスタッフたちがドラマツルギーを重視し1クールの中で少しぐらいは人間関係の起伏をつける、という意図の現れだったのではないかと勝手に思っているのだが。日常系作品に人間関係の変化を求めない一部の視聴者からは、この第11話はかなり不評であったと聞く。その時によく言われた言葉が「匂わせるな」であり、これはシリアスな雰囲気やリアリティを完璧なまでに排除した虚構を求めている視聴者が一定数いることの証左である。

 レズビアンやその他性的指向を作中で描く行為は、間違いなく現実と直結する、ある種社会的な話題として認識されていると言わざるを得ない。そして現代の日本のオタク作品では、こういった社会性を孕む作品が忌避されていることは、明文化されていないだけで間違いなく存在する傾向である。だからこそ、現在の百合漫画では「レズビアン」という単語が驚くほどに使われないし、「男とか女とか関係なくあなただから好きになった」という性的指向の言及を回避する文言が使用されがちである。この「男とか女とか関係なく」という言葉は一見上等に思えるが、異性愛の作品ではまずもって使われる場面は存在しないことから、異性愛規範をその言葉に内包していることが分かる。より穿って見れば、いつでも自分は異性愛者に戻れるという〝逃げ道〟を用意しているとも捉えられかねない。ここまで意識して書いている作者はそう多くないであろうし、私自身溝口彰子の評論を読んで気づいた点ではあるのだが、なんにせよ「男とか女とか関係なく」は当たり前であるが「レズビアン」という単語とイコールでは結ばれない。性的指向を明かさないことでこそ描ける作品は確かにあると思うし、レズビアン物語ではなくパンセクシャルやバイセクシャル、もしくはヘテロセクシャルの関係性であるからこそ映える作品というのは勿論存在する(『ババヤガの夜』などその典型例であろう)。しかしここまで「レズビアン」という単語を忌避するのは、本当に社会的な話題だからだけなのか、そしていったい何時からなのか、ということを常々疑問に思ってしまう。


・くりいむレモンなど18禁作品(2023/3/20追記)

 本評論において1980年代の『エスカレーション ~今夜はハードコア~』などの視点が抜けている、とご指摘いただいた。

 これについては(百合作品のメインストリームから外れるので)その他のところで書こう書こうと思っていたのだが完全に失念していた。そのためここで追記するのだが、私がこの関連で触れているのは『媚・妹・Baby』、書籍版『エスカレーション~今夜はハードコア~』、『プロジェクトA子』シリーズ、OVA版『戦え!!イクサー1』だけなので、詳しく知りたい場合、また私の主観ではなくもっと客観的な内容を求める場合は他の資料を当たっていただきたい。
 1970年代の終わりごろに吾妻ひでおらが『シベール』をコミックマーケットにて頒布し、所謂「ロリコン」作品が注目される。この影響を受けて、1980年代初頭に『レモンピープル』や『漫画ブリッコ』が創刊され、また『機動戦士ガンダムⅢ めぐりあい宇宙』におけるセイラの入浴シーンからビジネスの着想を得て成人向けの『くりいむレモン』シリーズが創られた。また『くりいむレモン』シリーズの一つとして企画が持ち上がった後、紆余曲折を経て全年齢作品である『プロジェクトA子』が1986年に公開された。
 このうち、『レモンピープル』に掲載された『戦え!!イクサー1』を原作とするOVAでは女性同士の性行為が描かれているし、『くりいむレモン』シリーズの第二作目である『エスカレーション~今夜はハードコア~』は所謂『ロリレズもの』でSMをやろうという中々思い切った作品である。『プロジェクトA子』はアニメ映画版でもキャラクターが同性の登場人物へ強い独占欲を抱き、越沼初美による小説版では彼女たちは明確なレズビアンとして描かれる(ただし、映画版の第三作目で彼女たちは〝いきなり〟男性へ恋心を向けるため、その意味ではバイセクシャルである)。
 ただ当時の成人向け作品における「レズもの」の位置づけを知識としても感覚としても知らないため、これらの作品が「レズ要素」をどうして取り入れていたのかについては他書に譲りたい。
 なお、これらの作品が後世の百合作品にどれだけ影響を与えたのかについては、慎重に考えた方が良いだろう。というのも、百合作品が生まれた1970年代から現在に至るまで、百合作品の描き手は(先述の18禁作品のメインの受け手ではない)女性の占める割合がかなり高いからだ。現在の百合文化の祖として知られている『マリア様がみてる』は氷室冴子などによる少女小説の文法を取り入れつつ、当時勢い盛んであったBL・やおい界隈へのカウンターとして生まれたものであるから、恐らく『マリア様がみてる』と『くりいむレモン』シリーズとの間に明確な連続性はない……のではないだろうか。ただし、『マリア様がみてる』で急増した男性読者に焦点を当てれば、『くりいむレモン』と重なる部分は確かに見受けられる気がする。そうなると、『マリア様がみてる』以降の百合作品では『くりいむレモン』の影響を加味するべきなのかもしれない……。
 また、『マリア様がみてる』系列の「百合」作品と、男性向け文化で描かれていた「レズもの」ではかなり文法が違うし、というよりも多分出発地点がかなり異なるように思う。思うが、私はあまり確かなことは言えない。誰かこのあたりの連続性について詳しい人、お願いします。男性向け百合文化を話すなら、『ダーティペア』や『セーラー服 百合族』なども考慮が必要かもしれない。



参考文献

 本評論では文中でタイトルを挙げた作品の他にも、『ユリイカ 百合文化の現在』や『私の居場所はどこにあるの?』『放課後百合談義 第一号』『Edge of Lilies 殺伐百合アンソロジー』などを参考にしている。正直全て羅列するのは長くなるのだが、やはり避けては通れないので以下に挙げる。文内の注釈がないことについては、申し訳ないが勘弁して欲しい。参考文献の羅列を回避しようと思いながら書いていたせいで、文献リストを作っていないのだ。労力的に死んでしまう。

 参考にした書籍の中で、個人的には藤本由香里による『私の居場所はどこにあるの?』は少女漫画の評論本であり、百合作品を嗜む人間にはとても面白い本となっているためお勧めしたい。また『ユリイカ 百合文化の現在』は百合で評論を書こうと思う人間にとって非常に勉強になる本であり、というかこれを読むことが百合評論のファーストステップになるほど優れた本であるため、強くお勧めしたい。


・サンライズ, 機動戦士ガンダム 水星の魔女, 2022
・A-1 Pictures, リコリス・リコイル, 2022
・吉屋信子, 花物語, 1916
・宮本百合子, 伸子, 1924
・山岸凉子, 白い部屋のふたり, 1971
・一条ゆかり, 摩耶の葬列, 1972
・長浜幸子, イブたちの部屋, 1984
・福原ヒロ子, 真紅に燃ゆ, 1982
・吉田秋生, 櫻の園, 1985
・高橋留美子, らんま 1/2, 1987
・江口寿史, ストップ‼ ひばりくん!, 1981
・武内直子, 美少女戦士セーラームーン, 1992
・J. C. STAFF, 少女革命ウテナ, 1997
・枢やな, 黒執事, 2006
・魔夜峰央, 翔んで埼玉, 1982
・今野緒雪, マリア様がみてる, 1998
・マガジン・マガジン, 百合姉妹, 2003
・一迅社, コミック百合姫, 2005
・零合舎, 零合, 2023
・電撃G’s magazine, Strawberry Panic, 2003
・志村貴子, 青い花, 2004
・玄鉄絢, 少女セクト, 2003
・TNK, 神無月の巫女, 2004
・美水かがみ, らき☆すた, 2004
・かきふらい, けいおん!, 2007
・一迅社, コミック百合姫S, 2007
・なもり, ゆるゆり, 2008
・くずしろ, 犬神さんと猫神さん, 2012
・竹嶋えく, 囁くように恋を唄う, 2019
・中山可穂, 白い薔薇の淵まで, 2001
・いけだたかし, ささめきこと, 2007
・サブロウタ, citrus, 2012
・仲谷鳰, やがて君になる, 2015
・みんたろう, ぽちゃクライム!, 2020
・椋木ななつ, 私に天使が舞い降りた!, 2017
・コダマナオコ, 捏造トラップ-NTR-, 2015
・玄鉄絢, 星川銀座四丁目, 2009
・高嶋ひろみ, あさがおと加瀬さん, 2010
・長門知大, 将来的に死んでくれ, 2016
・シャフト, 魔法少女まどか☆マギカ, 2011
・サンライズ, ラブライブ!, 2013
・キネマシトラス, 少女☆歌劇 レヴュースタァライト, 2018
・シャフト, アサルトリリィ BOUQUET, 2020
・綿矢りさ, 生のみ生のままで, 2019
・入間人間, 安達としまむら, 2013
・アジイチ, Dear My Teacher, 2012
・ガレットワークス, ガレット, 2017
・樫風, ロンリーガールに逆らえない, 2020
・U-temo, 百合オタに百合はご法度です⁉, 2020
・コダマナオコ, 親がうるさいので後輩と偽造結婚してみた。, 2018
・きぃやん, 君としらない夏になる, 2022
・高遠るい, はぐれアイドル地獄変, 2014
・ゆざきさかおみ, 作りたい女と食べたい女, 2021
・中山可穂, 愛の国, 2014
・小林立, 咲 -saki-, 2006
・雨水汐, 女ともだちと結婚してみた。, 2021
・晴瀬ひろき, 私以外全人類百合, 2019
・柚木涼太, お姉さんは女子小学生に興味があります。, 2017
・やまじえびね, LOVE MY LIFE, 2001
・東映アニメーション, ふたりはプリキュア, 2004
・ISSEN × XEBEC, BanG Dream!, 2017
・氷室冴子, クララ白書, 1980
・氷室冴子, 私と彼女, 1980
・ムービック, EG, 1994
・芳文社, つぼみ, 2009
・新書館, ひらり。, 2010
・少年画報社, メバエ, 2014
・文苑堂, Comic Lily, 2009
・オークス, 色百合シリーズ, 2011
・オークス, 彩百合, 2012
・オークス, L Ladies & Girls Love, 2014
・オークス, Lガールズ, 2016
・KADOKAWA, 百合ドリル 沼編, 2021
・新海誠, 君の名は。, 2016
・こおる, それでも絶対君が好き, 2021
・手塚治虫, リボンの騎士, 1953
・天堂きりん, 恋するシュガーコットン, 2011
・杉戸アキラ, ボクガール, 2014
・津留崎優; 池澤真, 異世界美少女受肉おじさんと, 2019
・矢吹健太郎, あやかしトライアングル, 2020
・MAPPA, ゾンビランドサガ, 2018
・スクエアエニックス, トワツガイ, 2023
・中山可穂, 猫背の王子, 1993
・綿矢りさ, ひらいて, 2012
・斜線堂有紀, 選挙に絶対行きたくない家のソファーで食べて寝て映画視たい, 2023(百合小説コレクションwiz収録)
・犬井あゆ, 今日もひとつ屋根の下, 2021
・未幡, 私の百合はお仕事です!, 2017
・青乃下, 私の推しは悪役令嬢, 2020
・青土社, ユリイカ 百合文化の現在, 2014
・藤本由香里, 私の居場所はどこにあるの?, 1998
・学生百合サークル連合, 放課後百合談義, 2022
・殺伐連邦, Edge of Lilies 殺伐百合アンソロジー, 2021

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?