寺院が「”叩けば”開かれる扉」であること
コロナ禍に始めたnote。
昨年末に退職してからというもの、コロナも含めて、含めなくてもですが、とにかく環境の変化が激しく、なかなか物事が継続しづらい状況です。
しばらく、noteの文章も書いていませんでした。
音声配信をやってみたりお茶を濁していたのですが、何かしら発信はしていきたいので、そろそろ文章も改めて書いていこうかなと思います。
なるべく継続させることを前提に、日記的な内容でも書いていこうかなと思います。
少し前ですが、月刊住職2020年7月号に寄稿していた、三浦瑠麗さんの文章がちょっと印象に残っていて、まだ消化できていなかったので、今日は、紹介がてら備忘録的に書きます。
「今、住職にお願いしたいこと」
三浦瑠麗さんが、この表題で文章を寄稿しているという事自体が、珍しさもあって興味深いです。流石の月刊住職というべきか。
三浦瑠麗さんといえば、テレビのコメンテーターとして引っ張りだこの国際政治学者という肩書の方です。どんな話題にでも理性的な答えを示し、聡明な方なのだなと感じます。
特に気になった部分のみ紹介しますが、三浦さんの文章、前半は、コロナ禍により人々が恐怖心、重圧、ストレス等の不安に苛まれ、感染者の村八分、倒産、自殺などの問題、そして「話しにくい」「目を向けられにくい」問題があることが挙げられています。
「”叩けば”開かれる扉」
前述した問題意識に基づき、三浦さんの文章は、最後このような言葉で締めくくられています。
三浦さんの言葉は本質を突いていると思います。
この方が普段どの程度寺院と関わりがあるのか存じ上げないのですが、短い文章でよくここまで芯を食う内容が書けるもんだと感嘆しました。
私は法律を学んでいたのですが、その場で「お寺は歴史的に、もしものときは法からも保護・秘匿することができる場所だよ」と教わりました。
昔の記憶なので、表現が不正確かもしれませんが、今でも「駆け込み寺」としての場所であるべきだと思いました。
そうすると、この「”叩けば”開かれる」という表現は絶妙です。
昨今だと、宗教法人の「公益性」を前提として、「お寺を開く」「開かれたお寺」というところがクローズアップされます。
もちろん、私のいるお寺もそういう開かれた性質はあります。
ですが、「”叩けば”開かれる」というのは、決してフルオープンではなく、「鍵付きの空間」となって「ひとりひとりの人生や命の固有性を尊び」、救いを求めている人が「護られる場所」もあることが、「抜苦与楽」(苦しみを抜き楽を与えること)を根本に持つ仏教寺院としては、実は不可欠な要素なのだと、この文章は示唆していると思います。
「あなたの思い、お聞きします。」という取り組み
三浦さんの寄稿より前、令和2年5月、まさに同様の問題意識でこんな取り組みを始めました。
インターネットにも記載があります。
https://www.risshoji.com/ご相談/
これは、いわば「看板をかけ替えた」ということであって、うちで独自に始めたとかそういう取り組みではありません。
相談自体はどの寺院でもされているはずですし、こうした看板のかけ替えも、細かい部分は違いますが、先達となる僧侶の方がいて、それに習ったところもあります。
加えて、あまり「相談」と銘打つと、どうしても結論を出すべきニュアンスが強くなります。ですが、相談者の相談内容、状態によっては結論を急ぐことが適切ではない場合も多いです。そもそも結論が出ない性質の相談だってあります。
ですので、便宜上、「相談」という表現も用いつつ、「お話しを聞く」、「思いを聞く」ということを強調しています。
それだけではありますが、それだけでも、少しは気持ちが軽くなったと仰っていただけたりもします。
5月に始めて、現在も続けているのですが、やってみて色々気付かされました。備忘録的に少し書きたいと思います。
①話す上でオンラインであることは必要とされていない
これは完全に当初の目論見が外れていて、恥ずかしい話でもあります。
遠隔地の方でも「オンラインでも話せますよ」ということを売りにしたところではあるんですが、実際にこのページをご覧になって連絡をされる方は「電話で相談をしたい方」がほとんどでした。
考えてみれば分かる話なのですが、相談をされる方にとって「視覚」は大して重要ではないはずです。
それどころか、電話をされる方は、最後までお名前を伏せたままお話しになる方もいらっしゃいました。
オンラインで映像も加わったら、「匿名性」が守られないので、それを重視される方にとっては避けたい。結果、音声のみの「電話」一択、ということになります。
そもそも、こちらが考えていたほどオンラインは必要とされていないという実情がよく分かる取り組みです。
まあ、私の取り組みはすべてトライ&エラーなので、失敗は建設的な材料として捉えたいと思います。
実際に、オンラインの需要がない反面、「匿名で後腐れなく相談をしたい」というニーズが少なからずあることを実感しました。
ただ、「要予約」にしたいので申込みフォームを作っているところを、こちらのページが分かりづらいのか、直接電話されて「今話を聞いてほしい」という感じの方も多いので、私以外の者が電話に出たときに担当者の私がいないと困ることもあるようです。
そのあたりの対応は今後の課題ですね。
②話題はコロナとは関係がない
これも自然なことではあるのですが、コロナ禍に始めた取り組みではあるものの、相談内容は今のところ、コロナとは直接は関係がない内容ばかりです。
じゃあどういったことが多いかというと、ほぼ全て「人間関係」に起因するご相談です。
その実、経済的な不安なども関連していることもあるとは思いますが、やはり中心は人間関係のご相談が多いです。
これは、この取り組みに特筆されるということでもなく、大体の相談はそういうものかなとは思います。
少し特筆されるところがあるとすれば、コロナ禍で、まさに三浦さんが指摘されていたような「話しにくい」状況で不安がより募って電話した、というニュアンスの方は多いように感じました。
もっと言えば、公共の施設は相談機関も休止していたりするところもあるため、探して電話をした、という方もいました。
そういう事情を聞くと、改めて、この取り組みをやった意味があったのかなと思うことができました。
仏教・僧侶の真髄
あえて書けば、これは一銭にもならない取り組みです。収益化する動線なんかを考えているわけでもありません。あえて切り離しているフシすらあります。
先日、コロナ禍において話をした方で、あることについて「やりがい搾取」という表現を使われた方がいました。
お金にならないことばかりやって疲弊していく、そんなことは嫌だ、というニュアンスで使われていました。
その方は僧侶ではないですし、それぞれの価値観でもありますが、ここは特に、仏教の本質に触れるところです。
前述しましたが、仏教は、そのビジョンとして抜苦与楽があります。それが収益化できるかどうかなんてことは、実は全く別の話です。
収益化を前提としたら、成立しない取り組みの一つが、こうした相談かなと思っています。経営的な言い回しをすれば「健全な赤字部門」(昔どこかで聞いた表現)です。
もちろん、こうした取り組みの先に、多くの方と結縁する(ご縁を結ぶ)ことなど、将来性を考えることもできますが、むしろ、経済・ビジネスベースではないところに、「仏教・僧侶の真髄」があるのではないでしょうか。
本当に困った方の求めに応じられるような力はずっと溜めておきたいと思います。
大変さも無い訳ではないですが、そんな大変さなんか笑い飛ばしながら続けるように、精進します。
森下 恵王 合掌
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身延山宮崎別院 立正寺 副住職
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