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小説「風の仕業」kaze no itazura 2

「風の仕業」について、誰が書いたかものか知らないですが、当時Amazon.comにいわゆる帯文が出ていたので記しておきます。「街角を吹き抜ける風のいたずらだったのか、偶然出会った若き女性と中年男の交流の経緯を淡彩風に描いた恋愛小説。ストーカー事件を絡ませながら、作品の舞台は関西からニューヨークの街角へ移るなど、二人の関係は、運命に操られるように展開する。ときに風という自然の力によって、ありふれた日常が不意にその相貌を変えて人を惑わせ、人生に新たな輝きを与えることを描く。」

 私は、帰っても一人だった、息子が帰って来るまでは。四十五を過ぎて一種の独身状態になるのは確かに不便なことではあったが、慣れるのにはそう時間はかからなかった。学生時代の記憶がすぐに蘇ってきた。指揮命令系統もなく、家庭生活でのさまざまの「縛り」もない。好きなときに本を読み、誰にも邪魔されずに自分のしたいことに専念することが出来ることは幸いだったし、私の性に合っていた。それは、結婚生活、サラリーマン生活では得がたいことだ。生活の不便さをカバーしてくれたのは母だった。祖母として私の息子を溺愛していた母は、今まで空いた私と母との距離を、生活の細々した事を片付け、足りないものを補充する役を積極的に引き受けることによって、せっせと埋めているように思われた。

 私は「風」のように去った彼女の存在をすっかり忘れて仕事に没頭していた。私と周りとの関係がそうさせていた。私は子供が寝た後の深夜から明け方まで原稿を書き続けた。
 書くことは苦にならない。私の性に合っているのだろう。書く記事の内容は、震災で被災した住民の生活のルポで、雑誌の連載はそろそろ三年になろうとしていた。私が四十路よそじにさしかかり仕事では中堅と謳われていた新聞社の文芸部当時、なぜかたまたま震災の現場に行くことになり、その体験から、一緒に同行した仲間がフリーの私に取材の話を付けてきたのが発端だった。    私が高校一年の時、担任がみんなに将来何になるか、その展望・夢を聞いたたことがある。私はそのとき、意味も分からずフリーのルポライターになると云ったものだった。図らずもその夢を今私は実現しているといえる。地方新聞の記者で通すのは飽き飽きしていたし、文芸部という地味な仕事の内容と一種のサラリーマンとして通勤ラッシュで人生を終えてしまうという考えにも我慢ならなかった。しかしその代償として妻は「私たち」から離れて行った。

  神戸市東灘区の二号線沿いに闇の中に蛇のように横たわる阪神高速道路。その横を緊急執行するパトカーや消防車。交差するように進んでくる救急車、ガス会社の車をやり過ごして私たちを乗せた車は西に向かって疾駆していた。    時折道路に生じた亀裂を避けて通るために、十センチ以上の段差にそこいらの板切れを持って来てあてがわなくては進行できなかった。照明がない真っ暗な道を私達の車は、水の入ったポリタン一つと僅かな食料を携えて、それこそ闇雲にただ進路を西にとって走るしかなかった。

 それは、誰にとっても悪夢だった。震度七以上の地震はそう滅多に起こるものではない。家屋の下敷きになった人々、火災に包まれて動けなくなった人々。襲うべきことはみな襲った。死者6千433人を数えた。この数字は何を意味するのだろうか?日本における年間統計の数字で交通事故死者数は八千人を超える。自殺者はその四倍の三万二千人、ガダルカナルの戦いで当時日本軍は二万1千138人の戦死者、行方不明者を出している。これらは果たして比較になる数字だろうか。食料はすぐ底をついた。仮設トイレが持ち込まれ、ゴミ処理車が駆けつけた。

 しかしこの未曾有の天災に国も行政も大幅に対応が遅れた。避難場所となっていた中央区の小学校の校庭には、冬にもかかわらずビールの空き瓶がプラスティック・ケースに入ってうずたかく積まれていた。青空と仮設テント。被災者多数が小学校の体育館で避難生活をしていたが、兵庫県警の女性警察官で組織する「のじぎく隊」やパトカーが住民の様子を窺うかがうために巡回していた。住民それぞれが知恵を出しながら、忍耐強く生き抜いていたが、救難活動をしている警察官の家が既に倒壊していた。倒壊した家の改修の目処めども立たないまま、勤務には小学校の校庭でテント生活する被災者を見舞う。

「今日は元気そうやないですか?」
 特に高齢で独り者の女性に毎日のように声をかけ、励ます。彼は当時八鹿町の駐在に勤務していたが、もともと神戸の市内署で勤務していており、この地震で駆り出されていた。勤め人なら誰しもが夢見るマイホームというものが、家族のために欲しかった。夢叶かなって宝塚市内に二十坪超の庭付きの一戸建て住宅を構えることが出来たのは、三年前だった。しかし彼のような仕事には異動が付きもので、昨年不本意にも、どちらかといえば日本海に近い山里の駐在に家族と共に赴任し、自宅だけが取り残された形となった。それでも家族、特に小学生の子ども達にとっては天国であった。住めば都で、スキーシーズンには交通事故の処理に追われながらも、次第に山間の生活に馴染んでいった。そんな中で震災に見舞われたのだ。

 神戸に派遣されているのは、逆に変な感覚であった。今までは都会の中で交番勤務員として多種多様な事案に追われていたのが昨日のことのように思い起こされた。地域の安全を守る彼の役目は、特に高齢者の毎日の顔色を窺い、自分の家族の話や同じ境遇の被災者の話を聞かせることだった。当時受け持ちの住民を訪問して作成していた巡回連絡カードが残っておりこの時役に立った。     行方不明者の所在確認などの仕事をし、非番になれば自分の家屋を見に行き、片づけを行った。購入したばかりのワゴン車が自宅に変わってしまうことなど予想しなかった。

 ある人は、パソコン通信を通信手段にし、国内の友人達と情報交換をするようになったし、手作り新聞を発行して情報を伝えたりしていた。この年の終わりにマイクロソフトのウィンドウズ95が売り出されパソコンブームに火が付いたが、この年の初頭ではパソコン・ユーザーはまだマイナーだった。

 道路の渋滞を避けるために単車や自転車を使ったり、また船も有効な運搬手段となった。全国のパトカーが集まった。全国の自治体職員、ボランティアが集合した。
 私たちが、喉が渇いてジュースを求めた時、例えば当時道路沿いの自販機はすべて売り切れ表示であったし、コンビニにも全くものがない状態だった。しかし兵庫から一歩外に出れば、普段通り店にも自販機にも豊富に物があった。いわば兵庫の一部分だけが地図から切り取られたように孤立していた。

 厳寒期に起こった地震は、人々を否が応でも我慢強くさせていたが、それは兵庫の中の小都市と淡路の北淡部だけだったのだ。
 寸断された道路、橋。しかしテレビなどを見れないという情報抑制下で、自分の欲求に沿って車で移動しようとする人々はたちまち渋滞に巻き込まれ動けなくなってしまった。
 国道2号線も43号線も幹線道路は両方向とも車で溢れかえっていた。その間を緊急車両が通過していた。高速道路が寸断されていたので、支援活動する公共車両や資機材を運搬するトラックが動けず、国道2号線の第一通行帯をバス輸送やトラックを走らせるようにした。交差点では違う町の交通警察官の姿が増え、指示誘導に当った。又比較的新しい高速道路である湾岸線が無事で使えることが分ると、取り敢えず六甲アイランド経由の経路が活用されたりもした。そのような状況だった。

 地震が起きる前に不思議な現象もあった。淀川の入り江深くまで飛んできていた海鳥たちが、地震の数日前に姿を消していた事実だ。人間だけが異変が近づいているのに気付くのが遅かった。
 私はその時、仕事で兵庫に近い、大阪の西部地域にいた。それでも震度五以上はあったと、自分の身体に感じることができた程の激しい揺れの中で「このまま身体ごと地上に落ちてしまうだろう」と感じた。
 人間は一瞬の出来事にその理由や自分の状態に対する検証をすることは出来ない。
 ビルの六階で寝ていたベッドに俯せうつむのまま、起き上がることが出来なかった。仲間も一瞬の出来事にただ「翻弄」されるだけだった。誰しもが寝静まったその中で私は、仲間に呼びかけたものだ。「そのままにせぇ、伏せとけぇ」しかしどう云おうが、身を自由に動かすことなどとても出来る状態ではなかった。東西方向の揺れだったが、ベッドの配置から前後に篩ふるいにかけられたように揺さぶれた。数秒が数分に感じられた。  

 目覚めて直ぐに部下を統率しなくてはいけない環境に置かれた。当時ほとんど誰も携帯電話を持たなかったから、私は電話回線で直ぐに妻と連絡を取り家族の無事を確認した。その後しばらくすると無線以外の有線電話は、繋がらなくなった。
 他の者も暫く何をしていいか分からない状態だった。皆が取り乱し、やがて対応に追われた。豊中市や淀川区ではガス漏れ事案、道路を通行中の転倒による怪我人が続出し、緊急電話により出動すべき救急車の数が足りず要救護人であってもしばらく運べない状態が続いた。

 記者であるわれわれは現実を詳細に報道しなくてはならない。記者としての責任感、役割、使命感といった抽象的な言葉で表現すればいいのか、しかし当時われわれに一体何ができたであろう。被災した町を写真に撮ること?行き場を失った人々にインタビューを申し込むこと?広域指定暴力団がしたように人々に飲み水を提供すること?


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