「太平洋戦争への道」半藤一利、保阪正康、加藤陽子鼎談を読んで
鼎談の要所をまとめ一部感想を述べた。
満州事変に関して国際連盟のリットンが報告書を書いて、中国、日本の和解案を示した。だが、中国も日本も双方不満を持った。
報告書では、日本の経済的権益に対して中国の国民政府が組織的ボイコットをやったと認めています。ただ、日本側が、満州族の民族自決によってつくられたと主張する満州国は、日本の官僚と軍隊の援助なしにはできなかったはずだとの調査団の側の判断を明らかにしています。
1931年の鉄道爆破(柳条湖事件)に対する関東軍の反撃は、自衛権の行使とはいえないが、当事者である将校や兵士たちは自衛権の行使だと思って行動をしたということ自体は認めている。
鉄道爆破が自作自演だと知らない日本国民は次のように感じた。
半藤:変な話ですが、国民的な感情としては、日本は戦争を起こしたけれど、いちおう収束させたではないか。そこに満州族を中心とする五族が協和して国を作ったのであり、決して日本は恥ずかしいことはしていない、侵略などしていないと感じていた。
また、国際連盟で満州をめぐる問題を審議している最中に、新たに熱河作戦を決行した。そうなると連盟は、経済制裁をして締め上げることを可能とする「国際連盟規約第十六条適用」という一番重い措置を取らざるを得ません。
日本はようやく不面目な事態になることに気づき、ならばその前に脱退しようという気運が高まった。
天皇は熱河作戦を中断させようとした。ところが、
① 現場の兵士に不満がたまる。
② 皇族兵士に不満がたまる。
③ 国民の反感を買う。
④ 内閣が決定してしまった。
等の理由で中断させられなかった。
また、重臣は宮中勢力や既成政党やブルジョワジーが、軍が満州で成し遂げた成果を潰そうとしているという批判が国内から起こることを非常に恐れた。
実際にその恐れが現実になったのが昭和8年1933年の5.15事件である。
そして、法定での陳述が彼らのプロパガンダの場になってしまう。
そして在郷軍人会が中心になって、彼らの助命嘆願運動が起こる。
彼らは国士であり、その行動は義挙だということになり、テロリズムが肯定されていく。
日本はこの昭和8年を境に、テロリズムの公然たる容認の時代に入ったと思います。
天皇を囲んでいる君側の奸どもがこの国を悪くしているのではないかと国民は思ったのでしょうね。
この昭和8年(1933年)には治安維持法によって一万四千人余が検挙された。
翌年に陸軍が出したパンフレットでは、取り締まるべきは「共産主義者」だけでなく、「国家を無視する国際主義、個人主義、自由主義を刈り取らなければならない」と記されています。
※ ここで驚いたのは、治安維持法は(公安)警察のテリトリーだと思っていたのに、陸軍が指示を出していたことである。軍国主義とはそういうものなのだ。
この年(昭和8年)には小学校の国定教科書が改定され、忠君愛国の教育が徹底された。
この年は日本が大きく変わった年で、共産党の大量転向があった。また、京都大学の滝川事件があった。⇒昭和のファシズム化
1936年2.26日、陸軍皇道派の青年将校たちが国家改造を目指し決起し首相官邸、警視庁を襲撃し占拠した。高橋是清他8人が殺害された。「2.26事件」
事件4日目天皇のラジオ放送により鎮圧された。
2.26事件の1週間前に選挙があり、立憲民政党が勝ったが、この事件により政党内閣が潰された。
2.26事件は、軍事費の膨張を抑えるような、財政的発想をする人を、殺害という方法で排除した。そして翌年始まる日中戦争に対して、陸軍が一つにまとまれない要因だった軍閥の戦いを覆い隠し、陸軍中央の強化を図るきっかけとなった。
また、「改革」「革新」といった言葉がやたらに叫ばれる時代になった。
決起軍の鎮圧をしたということで天皇のイメージも強いものになり、宮中の政治化が起こった。
2.26事件を機に「不穏文書臨時取締法」ができ、「言論の自由」が完全になくなった。
2.26事件がもたらしたものは、「暴力への恐怖」てあり、これによって議会政治が骨抜きになった。「私はいいですよ。ただ下の方がどう思うかですよ。」と言うような言葉によって、政治指導者が、軍に脅かされていく。
結局、軍は太平洋戦争が終わるまで、この恐怖がもたらす力を、存分に使った。
テロがファシズムを生み出す
国際社会での孤立⇒客観的に事態を見るのではなく、全ては主観的に都合のよい見方に埋没するのである。
「統帥権干犯」「陸海軍大臣現役武官制」という語は、軍人を増長させた宝刀となった。
⇒こういうシステムが近代社会の「文民支配」といった常識に著しく反していたことは否定できない。
昭和のファシズムは1933年に芽が出てきていると言っていいと想える。また、この年ドイツではヒトラーが首相になり、国際連盟を脱退している。
第4章 中国侵攻の拡大
1937年盧溝橋事件ー1938年国家総動員法制定
1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋での武力衝突をきっかけに、日本と中国は全面的な戦争に突入します。
日中戦争は宣戦布告のない戦争でした。開戦後1938年に第一次近衛声明がだされました。
どこの帝国主義国も中国と全面戦争をしようとはしなかった。なぜなら、帝国主義の戦争として中国の内部に入っていくメリットは何もなかったからです。
日本の軍あるいは政府が、何か基本的錯誤を犯していたのではないかという気がします。それが結局は太平洋戦争に行き着いてしまう。
昭和12年といえば、文芸の復興期でもあります。志賀直哉の「暗夜行路」、川端康成の「雪国」、永井荷風の「濹東綺譚」
この年の日本は、みな繁栄を謳歌していたのです。
なぜ陸軍は対中国戦争に本気になっていったのか。これは疑問中の疑問だと言ってよいと思います。
満州事変で簡単に中国をやっつけたから、今度も同じように「一撃」をくらわせばあっという間に決着がつくというくらいの気持ちで始めてしまったんでしょう。
国民政府は、中国共産党の協力のもとに、抗日戦を展開し、戦争は泥沼化していきました。
蒋介石はその後、首都を内陸部の重慶に移し、ソ連、アメリカ、イギリスの援助を受けながら、持久戦を続けました。
1992年蒋介石の次男の蒋緯国という人に話を聞いたことがあります。
古来どんな強い軍隊でも、ひと度軍を動かすと、直線的に進んでいくという心理があり、そうすると最後は、断崖にまで突き進んでそこから落ちてしまう。
自分たちが目論んだのは、まさにその心理を利用することであり、我々はとにかく日本軍を中国の奥地にまで引き入れて兵站を切り、孤立した日本軍の部隊を次々と殲滅していくという戦略を考えていたと思います。
戦争指導班は当初は日中戦争に反対します。
参謀次長がはじめは頑張って反対するのですが、結局、戦線は拡大していきます。
「国策」がこうだからということで、もう反対のしようがない。そうなると、戦争指導班の不拡大派の参謀は、配置転換を願い出て他の部署に異動してしまうのです。
前年の1936年、日本はヒトラーのドイツと日独防共協定を結んでいます。そのドイツが仲介に入り、日本と中国国民政府とのあいだで「トラウトマン工作」という和平交渉が行なわれましたが、戦争指導班の参謀たちは、このトラウトマン工作に乗って一所懸命に停戦を目指したんです。
ところが、ここで陸軍が悪い癖を出した。停戦協定が結ばれる前に、もっと勢力範囲を広げておこうと、12月に南京攻略戦を始めてしまったんです。
そうなれば、蒋介石も態度を変えます。
これでは和平交渉は台無しです。本当は、和平のチャンスはあったんですよ。
1940年、昭和15年には、総ての政党が解体され、内閣総理大臣を総裁とする「大政翼賛会」が結成されました。
「大政翼賛会」は、政府が決めたことを、町内会や隣組という組織を使って国民に行き渡らせていく指導機関となりました。
軍用資源秘密保護法などで、軍用に供する人材及び物的資源の運用が、国防目的と称して秘密になってしまう。そうなると、日中戦争下の1939年には、金属・機械・工業などの統計がマル秘扱いになってしまう。
日中戦争を拡大させた日本の奢り
盧溝橋事件からの日本と中国の関係は、日本の奢り、高ぶりに因を求めることができると考えていい。その理由を自覚することは、昭和史と向き合ったときの避けて通れない設問である。
第5章 三国同盟の締結
1939年 第二次世界大戦勃発ー1940年 日独伊三国同盟
半藤一利氏の記憶では、1938年に国民の間で大変なヒトラーブームが沸き起こり、1940年にドイツの特使ハインリヒ・スターマーが来日し日独伊三国軍事同盟の調印に漕ぎつけます。
この同盟におけるドイツの思惑はソ連、アメリカの牽制だったと思われる。
日本側は、天皇はドイツと結んでアメリカを敵に回すことに反対した。
だが、ドイツ大使の大島浩がヒトラーブームに乗って同盟調印に奔走し漕ぎつける。
三国同盟は大島浩ありきだった。
天皇のみならず海軍の山本五十六、米内光政、井上成美という海軍三羽ガラスが猛反対して1939年に一旦は計画を潰した。
ところが、翌1940年に再交渉が持ち上がったときには三人は海軍中枢にいなかった。
アメリカを敵にした松岡洋右の構想は三国同盟にソ連を加えて四国同盟にすればアメリカを封じることができるというものだった。
賛否両論が飛び交い、国論を二分する激しい議論が巻き起こったが、検閲方針が出され世論は操作された。
三国同盟を結んだ一つの思惑は、ドイツはヨーロッパでオランダ、フランスを破り、あとはイギリスを残すのみとなったとき、ヨーロッパの東南アジアの権益、特にアメリカから石油が入らない状況でオランダ、フランスの植民地インドネシア、ベトナムの石油が欲しいがために、ドイツに全てを取られないように防共協定を結んだ、ということらしい。
その下地は、1939年アメリカが日米通商航海条約を破棄を通告したことにある。
三国同盟、四国同盟などとまったく自分本位で虫の良いことを、日本の指導者は考えたわけです。
保阪正康氏はこう述べています。「私は、三国同盟の背景には、軍事指導者の思い、つまり、中国との戦争に決着をつけるためには、どうしても中国を支援している英米との関係を整理しなくてはいけない、あるいはカタをつけなければいけない、という思いがあったと感じています。」
加藤陽子氏、保阪さんが仰ったように、日本側も、特に陸軍は日中戦争を解決するのは、どうも蒋介石との二国間交渉ではむりなので、英米に圧力をかけながら中国問題の解決を図るという方向に舵を切った。そこを見落としてはいけない。
日本陸軍が想定していたのは、本来対ソ戦であり、その準備をしていました。それがなぜ対英米戦を視野に入れるようになったのか。そこは日米開戦に至った重要なポイントだと思います。
やはり、三国同盟にとっての日中戦争解決の位置づけは大きいと思います。
日独伊三国同盟締結は何をもたらしたか
端的に言えば、アメリカを戦争に参加させるための「証文」をつくってしまったようなものです。
半藤一利氏:日本はポイント・ オブ・ノーリターンをこのときに(三国同盟締結時)超えたのだと思います。
加藤陽子氏:三国軍事同盟というのは、ドイツがイギリスに勝つことを前提に締結されたが、実際にはうまくいかず、日本に次の手を打つ必要性を認識させた。
次なる一つの手は、野村吉三郎を駐米大使として送ったこと。40年の12月には松岡洋右がソ連を含めた四国同盟を諦め、ソ連やドイツの動向を見るため渡欧し、その結果、日ソ中立条約を結んできました。
この二つの動きの前に日独伊三国同盟が有効だった時期は大変短かった。しかし、検閲によって国民には知らされていなかった。
保阪正康氏:特に重要なのは、ヨーロッパ地図が日本の敵と味方を明確にしたことであった。
日中戦争の長期化に苦しむ日本にとって、この解決にはアメリカ、イギリスによる蒋介石政府支援のルートを断ち切るべく三国同盟に託した。
しかし、イギリス、アメリカと中国の経済人、知識人とは深い交流があった。
また、ドイツもタングステンの輸入などで中国とは密接な関係があった。なので、盧溝橋事件以降、駐華大使トラウトマンが講和工作に奔走したのである。
保阪氏は第一次大戦と第二次大戦では日本の敵味方がねじれていることに着目し、そこにあったものは日中戦争であり、ねじれの総仕上げが三国同盟であったという。
その背景を探ると日本陸軍の親ドイツの体質がよくわかる。その拠ってくる原因に、明治の建軍時のドイツ陸軍の模倣、ドイツの軍事力に強く惹かれていたことがわかってくる。
第6章 日米交渉の失敗
1941野村・ハル会談ー真珠湾攻撃
三国軍事同盟を締結した翌年の1941年4月、日米両政府の間で、対立を打開するための日米交渉が始まりました。
交渉を担当したのは、駐米日本大使の野村吉三郎と国務長官のコーデル・ハルでした。
日米交渉は11月26日まで続き、戦争を回避する、あるいは開戦を遅らせる可能性が最後まで模索されました。
日本側としては、日米交渉によってとにかく中国の蒋介石の物資の援助の流れ、いわゆる援蒋ルートを断ち切りたい。それによって、戦争に結着をつけたいという思いがあったと思います。
アメリカ側は、この日米交渉を通じて、日本が三国同盟を離脱することや、あるいは中国からの撤兵といった要求をしてきます。
ところが、日米交渉の最中の1941年7月、日本軍はフランス領インドシナ、つまり現在のベトナムやカンボジアの南部に進駐しました。
アメリカは怒り、在米の日本資産を凍結し、日本への石油輸出禁止に踏み切りました。石油の大部分をアメリカから輸入していた日本にとって、大きな打撃となりました。
加藤陽子氏:当時の日本政府の考え方では、これはフランス政府、フランス植民地当局と合意ができているのだから、なんら侵略ではないという判断をしていたのでしょう。
半藤一利氏:もし戦争が起こったときに備蓄している石油だけでは間に合わないから、どうしても出たほうがいいと海軍が言うので、それに引っ張られてしまった。
シンガポールを攻撃するためには、飛行機の制空権の問題があるから、仏印まで出ていかないと制空権が取れない。これは戦略的には、やむを得ないところです。
変な話ですが、アメリカは出てこないだろうという意見が通ってしまうんです。
保阪正康氏:なんと願望を客観的事実にすり替えようと必死なんだろう、と感じざるを得ません。
1941年11月26日ハル国務長官から野村吉三郎駐米大使にアメリカ側の要求を記した「ハル・ノート」が提示されました。
日本政府は事実上の最後通牒と受け止め、12月1日の御前会議で、日米交渉の打ち切りと、アメリカ・イギリスとの開戦を決定しました。
なぜ日米戦争を避けられなかったのか
加藤陽子氏:私はこれはアメリカにとっても抑止の失敗だったと思っています。
ハル・ノートというのは非常に厳しい要求の部分だけを渡したーーこれが失敗の要因の一つだと思っています。
保阪正康氏:アメリカがこういう強い態度に出てきた背後には、やはり日米交渉の妥結を望まないという意図があったと思います。
一方のアメリカは合法的に第二次世界大戦に参戦できるようになったわけですから、基本的には政治的な戦略、政策が成功したと言えます。
半藤一利氏:メディアが煽った部分も大きいですが、アメリカに対する反発や怒りのような感情は、当時かなり強かった。
加藤陽子氏:アメリカ自身は1941年8月にイギリスとともに「大西洋憲章」という声明を発表します。これは第二次世界大戦後の両国の目標を掲げたもので、空虚な口約束ではありません。(中略)ですから、日本が中国に対してどこまで妥協できるかというところが、やはり私は日米交渉の最終的な鍵になったと思っています。
日本は日中間で新たな取り決めをして、撤兵条件を考えるといった余地があったのではないか。アメリカに対してもそういう回答をして合意に達する可能性は絶無ではなかったと思うのです。
保阪正康氏:ハル・ノートは加藤さんが仰るように、やっぱり中国との絡みで見なければいけないと思いますね。
半藤一利氏:端的に言えば、ハル・ノートの要求を飲んで中国や南部仏印から撤兵すればよかったんです。ただし、撤兵というのは非常に手間がかかって難しいですから、のろのろやればよかった。すると、のろのろやっているうちに、ドイツが負けるのが見えてきた。そうなると、もう日本がアメリカと戦争する必要はもうないーー。
保阪正康氏:大本営政府連絡会議の構成メンバーを見ると、(中略)東条英機は首相と陸相の二役です。(中略)そして、このメンバーが最終的に戦争を決定しますが、二人を除く全員が軍官僚なんですね。
この開戦詔書の内容が象徴的ですが、私たちの国が日米開戦へ行きつくまでの政策の基本的なプログラムには、大局的な歴史観が残念ながら欠落していました。それは、軍事主導の政策決定がもたらした、最大の欠点だと思います。
加藤陽子氏:戦争というものが政治主導で行われるべき総力戦、殲滅戦争の時代になっているときに、日本は政治を排除したかたちでの政策決定をしてきたわけですね。
1941年12月8日、日本はマレー半島のイギリス軍根拠地と、ハワイのアメリカ軍基地への攻撃に踏み切り、アメリカをはじめとする連合国との戦争に突入しました。
日中戦争に加えて始まった太平洋戦争は三年八ヶ月にわたって戦われ、アジアの人びとを巻き込んで未曽有の惨禍をもたらしました。
歴史の因果を背負った日米開戦
保阪正康
日本とアメリカの関係は一気に壊れたのではなく、言ってみれば徐々にその関係性が薄まっていったのである。その薄まり方の一つは、中国への日本の浸出が露骨になることで段階的に進んだ。
昭和十年代になると、その対立は日本の中国への軍事行動に限定されることになった。
双方の交渉で対立点は明確になった。日本はアメリカに、満州国の承認、石油の輸出、中国への支援停止を求めるなど、日中戦争への関与を停止するように迫る形となった。逆にアメリカの要求は、中国からの撤兵、三国同盟からの離脱などで全く妥協のない交渉が続くことになった。
日本はすでに交渉自体が「敗戦」という状態でもあった。1941年6月ドイツが不可侵条約を結んでいたソ連に侵攻した。
独ソ戦の報は日本国内に混乱と困惑を生んだ。
1941年10月には、近衛首相と陸相の東条英機の間で、戦争か外交かの論議が繰り返され、近衛首相は陸軍の指導者に「それほど戦争が好きなら、そういう連中でやればいい」とまで言った。結局近衛は辞職してこの厄介な政務から逃げ出してしまった。
この10月中旬から12月8日までの間に東条内閣は国策を外交交渉に変えようと努力は続けた。
しかし、自らが蒔いた種はすでに大きくなってしまっていた。
軍内の強硬派はますます勢いを持ち、東条は裏切り者呼ばわりされ、暗殺の危険性まで懸念されるほどだった。
思えば不思議な両国の戦争であり、歴史の因果を背負った戦いでもあったのかもしれなかった。
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戦争までの歩みから、私たちが学ぶべき教訓
【戦争は暗い顔では近づいてこない】加藤陽子氏
大きく変わるような政治環境、国際秩序に対してどのような知恵をだすかというところが大事だったのたと思います。
そういう国際秩序や環境の変化を見ながら、日本は進んでいく必要がありました。しかし、それをしなかった。これを私は教訓として考えたいと思います。
【命令一つで命を奪った軍事指導者の罪】保阪正康氏
彼らの判断、命令一つで、その時代に生きた人たちが亡くなるわけですから、政治指導者も軍事指導者も、その重みを考えてもらわなくてはなりません。そして、それを考えることができる指導者を育てなくてはなりません。
【日本人よ、しっかりと勉強しよう】半藤一利氏
不勉強な人たちが指導者になっても、その都度その都度大事なところで冷静になって考え、判断をするということは難しかったと思いますね。相手が判らないのですから。
その判断の間違いが積み重なって、どうにもならないところまできて、戦争になってしまった。
要するに、その前にいくらでもリターンすることはできた、引き返せる局面はあったと思いますが、彼らは不勉強だからできなかったのです。
今の日本人も同じように不勉強です。このままの日本で大丈夫かと、87才の爺は思うわけです。ぜひしっかりと勉強をしてほしい。
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加藤陽子氏、保阪正康氏、半藤一利氏の3人が教訓として掲げたのは、勉強、研究、それによって培われた冷静な判断、国際情勢を読む冷徹な眼、を私たち日本人は持たなければならないということだと理解した。
激動の二十一世紀が幕開け、百年後も日本という国が生き残っているかは、今生きている私たちが賢明な判断を重ねてグローバルサウス、BRICSと伍していけるかにかかっているに違いない。
横浜港も軍港化されつつある。自衛隊は米軍の指揮下に入った。重要経済情報秘密保護法案が発令された。この法令は、何が秘密か特定されない中で機密保持の制約を民間人が負うというものだ。
まさに、太平洋戦争前夜に起きていたことと似た状況が作り出されている。
この難局をどう乗り切るかは、まさしく私たちが賢明な判断をしていくしかないのだ。
アメリカの庇護の下微睡むときは過ぎ、歴史に船出するまさに旅立ちの時なのだ。歴史の荒波を潜り抜け戦争を回避しみんなが生き残ることを目指し漕ぎだしていこう。