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像は言葉ではなく事態、そして事態は事実でもある:野矢茂樹著『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』分析(その3)

野矢茂樹著
『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』(筑摩書房、2006年)
分析の続きです。引用部分も、この本からのものです。

今回は、野矢氏の「像と言語は同じものであると言ってしまっても、たいした危険はないように思われる」(野矢、47ページ)という見解の問題点(が中心)です。

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 部屋の模様替え(配置換え)をするとき、現物の机や本棚を移動する前に、図面を描いて模索することがあるだろう。代理物として机や書棚Aをボール紙で切り抜いて、部屋の図面上に並べ、配置の可能性を試みる(野矢、41ページ)。
 それを「箱庭」とするのであれば、ウィトゲンシュタインはこうした箱庭を「像」を呼ぶ(野矢、42ページ)。そして、

二・一四一 像はひとつの事実である

(野矢、45ページ:『論理哲学論考』からの引用)

という見解について異論はない。そこにある図面は実際にあるもの、現実のものだからだ。
 問題は、これらの「箱庭装置」「像」が言葉であるという野矢氏(ウィトゲンシュタイン?)の見解なのである(野矢、42ページ)。
 例えばボール紙の書棚Aと書棚Bとを隣り合わせに置いたとする。ボール紙の書棚Aと書棚Bとは、それぞれの「個体」の代理であるし、書棚AとBとの位置関係は、「関係」という「対象」を(代理としてであるが)実際に表している。
 しかし「像」はあくまで「像」、図面は図面であって言語ではない。図面を言語と同一視することには無理があるのではなかろうか。ジオラマや建物の模型は言語であろうか? そんなはずはない。
 図面を眺めるだけではそこに言語は現れない。「書棚Aは書棚Bより大きい」とか、「書棚Aは書棚Bの右側にある」「書棚Bは書棚Aの左側にある」というふうに、実際に喋ったり書いたりすることで初めて言語というものが事実としてそこに現れる。それゆえ、

言語もまた、世界の中で生じるひとつの事実なのである。

(野矢、45ページ)

という野矢氏の指摘も正しいと言える。言葉を書いたり喋ったり聞いたりしたのであれば、それは確かに現実、事実であることに疑いはない。
 それでは「像」とは何なのか・・・結論から言えば「事態」である。
 先に私は、野矢氏(ウィトゲンシュタインも?)は思考の限界と言語の有意味性の限界とを混同している、言い換えれば思考可能性と想像可能性とを混同していることを説明した。このことを考え合わせると、

三・〇〇一 「ある事態が思考可能である」とは、われわれがその事態の像を作りうるということにほかならない。

(野矢、47ページ:『論理哲学論考』からの引用)

成立していない事態というのは、現実の代理物によって像として表現される以外、生存場所をもちえない

(野矢、44ページ)

とは、像を作りうるということは言語表現の有意味性を担保できることだ、と理解できると思う。そして、事態は(それが事実として実現していないものについては)像という形でしか現れえない、つまり言語の意味とは具体的像としてしか現れることはない、ということを示している(まさにヒュームの抽象観念論ではないか!)。
 さらに言えば事実・現実としての「像」とは、「心像」でもありうる。ある言葉が表現する対象物を、具体的に図面や絵として描き出さなくても、自ら思い浮かべることができるのであれば、つまり自ら心像を結ぶことができるのであれば、すでにその言葉の有意味性は確保されている。私たちは常に図面や絵を描きながら思考しているわけではない。もちろん図面や絵などで表現できた方が他者と共有できる(客観性を付与することができる)のではあるが。
 ただそれでも私たちが自分自身の頭で(とりあえずそう表現しておく)心像を描いたとすれば、それは明らかに一つの事実であり現実なのである。心像が現れたことは(実際に現れたのであれば)疑いようもない事実だからだ。つまり「事態」とは実際に描かれた「像」という形をとりうるし、自ら思い浮かべた「心像」という形もとりうるのだと言える。
 像(や心像)が事実ではあるが、現実として成立した事実ではないというのは一見ややこしい関係のように思えるかもしれないが、要するに、具体的に想像できたことは事実だが、それが現実世界で実現してはいない、そういう(私たちの日常生活においては普通の)話である。別に「世界と論理空間のねじれた関係」(野矢、44ページ)があるわけではない。
 ただし、(先に述べたように)言語・言葉の位置づけに関しては野矢氏の見解のブレが見られる。

ミケが寝ているという可能的な事態は、「ミケ」という文字列と「が寝ている」という文字列をしかるべき順番で実際に並べてみせ、「ミケが寝ている」という文を現実に作ってみせることによって表現される。ここにおいて代理物は現実に結合されている。

(野矢、43ページ)

ここで「ミケが寝ている」という文は、あくまでただの言葉でしかない。そこで代理物が現実に結合されていると言える根拠は何であろうか?
 それは一つの具体的像(心像でも良い)として描けるからである。一方「がミケ寝ている」という文字列はナンセンスで具体的像が描けない。しかし「がミケ寝ている」という言葉がここにあることは現実・事実であるし、それを声を出して読めば言葉が音となったことが現実となる。
 「丸い三角」「直線4本からなる三角形」や「平面において交わる平行線」というふうに言葉を紡ぐことはできる。これらの言葉が書かれたこと、読まれたことは事実である。しかしこれらの言語表現に対応する「事態」を像(や心像)として表す、あるいは想像することはできないのである。
 野矢氏は「像と言語は同じものであると言ってしまっても、たいした危険はないように思われる」(野矢、47ページ)と説明されているが、これでは言語の有意味性の限界について説明ができなくなってしまうことは明らかである。全く別物である像と言語を同一視することは(私たちの経験的事実としての)具体的事実と齟齬をきたしてしまっているのだ。
 繰り返しになってしまうが、言語が現実・事実として現れることと像が現実として現れること(さらには像を現実として実現させること)とは別のことなのである。そして言語と像とが結びつくことで言葉の有意味性が担保されるのだと言える。

二・〇一 事態とは諸対象の結合である

(野矢、28ページ:『論理哲学論考』からの引用)

対象(=個体、性質、関係:野矢、38ページより)というものが具体的像(や心像)において実際に現れている、それが「事態」というものなのである。「諸対象の可能的結合」(野矢、40ページ)という表現をわざわざ使うまでもないのかもしれない。既に説明してきたが「可能」という表現が誤解を生みかねない。事態が「事実」として現れえるかどうか、それこそが言語表現の有意味性をもたらすものなのだ。


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