【短編小説】残された芳醇
三時間、その状況は続いていた。
母はキッチンに立ち、隣に住む加藤さんにトマトをいただいたとか、今年のお盆は家族で旅行に行きたいとか言っている。
話し相手は食卓テーブルの椅子に座わる父だった。
「あなた、今年のお盆は仕事の休み取れ……」
いつまでそうやって話し続けるつもりなのだろうか。
私の我慢が限界に達した。
「お母さん、いい加減にして!」
珈琲が入ったマグカップを壁に投げつけ、母の言葉を止めた。
陶器の破片と珈琲が、花火のようにそこら中に飛び散っている。
「何をそんなに怒ってるの?」
怪訝な顔をしながら、母は私を見つめた。
「お母さん、もう受け入れてよ。お父さんは死んだのよ」
「沙紀(さき)、お父さんはそこにいるじゃない」
「違うの。ここにいるお父さんは幻覚よ」
「何を言ってるの?」
「お母さん! しっかりして!」
すでに私の力だけで母を止めることはできなくなっていた。
あれから三年が経つというのに、いまだ父の死を受け入れようとしない。
それどころか、幻の珈琲を飲み過ぎて、中毒になっていくように見える。
ああ、母をこんなふうに変えたのは、私だ。
私のせいだ。
戻れるものなら、今すぐ、あの日に戻りたい。
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