環世界間移動能力とソフトウェア

「暇と退屈の倫理学」は面白いので読んでいると書きたいことがたくさん出てきてしまう。

ユクスキュルの環世界論は有名なことと思う。簡単に言えば各々の生物は異なる世界の知覚の仕方をするので、そこに現れる世界というのも根本的に各々に異なっている、ということである。

そしてこの本では動物も人間もそれぞれの環世界の中にいることには違いないが、そのありかたはかなり異なっているという主張がされていた。人間は数年間勉強すれば天文学的な見方を獲得したり、作曲ができるようになったりして自身の環世界を変えていく、広げていくことができるということであった。この能力を環世界間移動能力と呼んでいる。他の動物についても、これまで環境に適応し進化し続けてきたことからも多少の環世界間移動能力はあるには違いないが、その能力が人間の場合には相当高いということである。

そしてこの能力の高さこそが人間の特徴的な要素であり、この後の論に大きく影響するようである。

ところでここから僕が感じたのは、この環世界間の移動というものは、コンピュータでソフトウェアをダウンロードすることにとても似ているということであった。

考えてみると、自分とは別の環世界にいる天文学者の知見を部分的にであれ身につけられるということは、非常に不思議なことだ。どのようにしてそれを身につけるかというと、基本的に文字によってきた訳である。

要は、異なる環世界のものではあっても、同じ'文字'というコードで書かれているから、人は他人の知覚の働きを疑似的に模倣することができるのである。もし無限の記号を使うことができるなら、共通のコードなど必要ないわけだが、人間の脳の容量は有限なので、有限の記号の組み合わせで無限に物事を記述できる文字という体系が発達したわけである。

これはまさに、数学者のアランチューリングの考えた万能チューリングマシンと呼ばれるモデルの仕組みではないか。チューリングが人間の脳の働きについて考察してこの機械を考えたことを思えば当然なのかもしれないが、今はじめて僕はそのことを実感をもって分かったような気がする。つまり、コンピュータの原理というのは人間の言語による思考能力をモデル化したものであり、そのことが哲学的な考察においても人間を人間たらしめるものであるということが分かったのである。

僕らが普段macなどのpcを用いて、共通のコードで書かれている為に簡単にソフトウェアをダウンロードし、それ自身の能力を拡張していけるのは、人間の言語による環世界間移動能力の高さを模倣した結果だということだと思うと感慨深い。

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