ゲイジュツとか、ケンチクとか

世の中にはゲイジュツとかケンチクとかと呼ばれるものがあって、ゲイジュツカや、ケンチクカと呼ばれる人たちが、いかにもこれが新しくてよいものだ、という風に自分の作ったものを出してくる。

たまにこれはよいなあとわかるものもあるけれど、ほとんどなんのこっちゃわからないものも多い。それが下手に権威のある人のものだったりすると、なんとなくそう思っちゃいけないような気になったり。

きれいなものや、気持ちのよいものは、いいなと思うけれど、それがゲイジュツとかケンチクとかって呼ばれるものになると途端に壁ができて固くなってしまう。

ああ、ゲイジュツだの、ケンチクだのなんて言葉なければいいのに。そういえばこれは坂口安吾が堕落論のどっかでも言っていたなあ。

坂口恭平さんという人がいて、「自分の薬をつくる」という本の中で、作品をつくるというのはうんちをするようなものだといっていた。自分の中のインプットが多くなりすぎてパンパンになったら、アウトプットしてスッキリする必要があるのだと。

作品をつくる、ということが、なんだか気取ったものじゃなくて、そんな素朴な、生きていくのに必要不可欠なことであるようになれたら、初めてその作品は生きていると言えるようになるんじゃないかなあ。僕もそういう作品は欲しくなるような気がする。

この文章もうんちみたいなものだと言ったら汚く思われてしまうかもしれないけれど。

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