暇と退屈の倫理学 第五章を読んで

定住革命についての記述まで読んでからすっかりほったらかしていたのだが、ようやく第五章を読んだ。ハイデッガーの退屈論までを読んで、たしかに最後の結論を除けば素朴に同意できる内容だと思った。

僕は人がどうしてスポーツをするのだろう、と考えたことがある。例えばサッカーにはルールがあり、カゴにボールを入れたら一点とかなんとかって決まっているわけだが、実際にはカゴに球を入れたところで誰の為になるわけでもない。

誰が得をするわけでもないのに、どうしてそんなことを大勢の人が関わってするのだろう、と思った時に僕は、人間の脳が余っているからだ、と思った。日常生活では刺激が足りず、人間の高度に発達した脳が余ってしまうから、特に目的がなくとも閉じたルールを作ってそれを行ったり鑑賞したりするのだろう、ということである。

また人はどうして働くのだろう、という疑問も似たように考えたことがある。人は本当に社会を成り立たせる為に働いているのだろうか。もし人工知能を含んだ機械に社会を支えられるなら、人は仕事をしなくなるだろうか。というと、おそらくそうではないのである。これについても僕は人間の脳が余ってしまわないためだろう、と考えていた。

基本的にここまでで國分さんの言っていたことは自分の考えと似ていると思った。一方で、ハイデッガーが言っていた「なんとなく退屈だ」という退屈の第三形式にさらされると、可能性をすべて拒絶される故に自分の可能性に向き合うことになり、そこから自由という可能性を見出して決断するべきだ、という結論も、実際にはこの例と関わっている気がした。

人はただ気晴らしのためだけにスポーツを観戦しているかというと、そうでもないような気がする。普段の生活の活力になる、というようなことが往々にしてある。仕事についても、それ自体を生活の活力に出来る人がいる。これはなぜか。

基本的に単調で刺激の少ない生活により脳が余って退屈している、という退屈の起源を考えれば、なんとなく分かる。例えばスポーツでは、想像していなかったようなプレー、というのが起こることがある。また仕事にしても、想像していなかった良い事、というのが起きることがあるのだ。僕はこういったことは本質的に生活の活力になるのではないかと思う。

それはなぜかと言えば、単調でわかりきっていると思っていたこの世界に、実際には新たな可能性があるということを知ることによって、この世界でのこれからの出来事に期待ができるようになるからである。スポーツをいつも見る人というのは、ある意味でこの世界の不安定さを確認し続けることで退屈から逃れられているのではないのか。

一方で、僕みたいな学生だったり、学者(はどうかわからないが)の一部はある意味で世界のことなんて大体わかっている、と考えてしまっているからより深く退屈してしまうのではないか。しかしそれも本の中でのこととか、自分の頭の中のことで完結しているからそう思えるのだろう。

実際の世の中は、身近な天気などでさえその複雑さによって予測が難しいことからわかるように、想像し難いことが容易に起こる。スポーツだって同じようなところがあって、そういった複雑な世界のミニチュアを鑑賞しているような気もする。

分かった気にならないでそういった世界(自分自身も含めて)の不安定さに目を向ければ、僕らは退屈から逃れ、自ら生きていくことを始められるのではないかと思った次第である。

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