心配について(心配はムダ)

今日は友人が大事な試験があるらしい。
上手くできているか…心配だ


心配とは信用、信頼していないことの裏返しである。


完璧に信頼していれば誰かを心配することはない。
ただ、100%の信頼なんて人間誰しも置けるものではないから、心配してしまう。
心配なんかしたってどうすることのできない、
自分ではどうすることもできない他人の人生を
あたかも自分の人生の一部のように考えてしまう。
そういう人は他人のことを自分のことのように心配する。
結果、余計なお世話だと言われる。

「ただあなたを思って言ったことなのに。」
そう思うかもしれないが、それは他人を自分の思い通りに変えたい、
もしくは心配から開放されたいから
支配権を奪って思い通りに動かそうとしている。

それは他人を殺している

だから言われた本人は強い不快感を覚えるのだ。
自分の人生に干渉してくるから。
自分の領域に土足で踏み込んでくるから。
強く拒絶されるのも無理はない。

他人を心配することは無駄である。
なぜなら自分では他人は変えられないからだ。
だから"信"じるということが必要なのだ。
信じ、信頼し、信用することが、必要なのだ。

「心配である」ということは信用していないことに加えて、
自分の理想のようになってほしいという自分の願望も含まれている。
例えば、受験をする息子、娘を心配する両親。
そこには受験に失敗してほしくない、
という両親のエゴが入っている。
だから心配するのだ。
息子、娘には思い通りの結果になってほしい。
そのためならば強く干渉だってする。
結果、モンスターペアレントは生まれる。

モンスターペアレントは過度な心配から生まれるのではないだろうか


そんなに過保護にならなくてもちょっとの事では人間は倒れない。
息子、娘のことを信じてみてほしい。

最後、教育の話になってしまったが、
他人への心配ほど自身の精神を無駄に削るものはない

今日は以上です。意見がありましたらコメントお願いします。
おやすみなさい。

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