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高校日本史「学習プリント」④~ヤマト政権の発展と古墳文化の変化~

こんにちはコウちゃんです。古墳時代2つ目のフローシートです。このプリントで山川出版社の『詳説日本史B」の第1章分が終わります。解説がボリュームが多くなってますが、解説読まないで単純に復習プリントとして使ってみてください。時代の骨組みと流れがつかめるはずです。

 

プリントの構成

 ヤマト政権の発展と古墳文化の移り変わりが分かるように意識して作成しました。左の列は前回のフローシートの内容とほぼ変わりありません。ポイントになってくるのはヤマト政権の発展とともに古墳のあり方や副葬品などにどのような影響を与えているのかです。古墳時代は前期・中期・後期(末期)に分けられ、それぞれの古墳文化の特色とヤマト政権のあり方を結び付けて理解していきましょう。

解答解説

①前期古墳時代

 前期の古墳にはどのような特徴があるのか、簡単にポイントを抑えておきましょう。まずは、埋葬施設の特徴です。死者は竪穴式石室に収められました。前方部に上から穴が掘られ、一度ふさげば二度と開けられず、基本的には1人のために造られたものでした。副葬品には、鉄製の武器や農工具などとおもに、三角縁神獣鏡をはじめとする銅鏡など呪術的なものが多く、当時の古墳の各地の首長たちが司祭者的な性格をもっていたことが分かります。古墳の墳丘上には埴輪が設置されていました。前期の埴輪は円筒埴輪が中心です。埴輪は副葬品ではないので気を付けてください。古墳の外側に置かれた物です。その役割は様々な説がありますが、古墳を周囲から区別する結果や仕切りのような役割があったのではとも考えられています。

②中期古墳時代

中期は、ヤマト政権が九州や関東に支配を拡大するとともに大陸との交流が多い時代でした。『宋書』に出てくる倭の五王の時代は古墳時代中期の王たちです。そのうちの倭王武を日本書紀上の雄略天皇と考える根拠となった史料が埼玉県の稲荷山古墳出土鉄剣銘と熊本県の江田船山古墳鉄刀銘です。前者の銘文に「獲加多支鹵大王(ワカタケル大王)」と書かれているのが発見されて、後者の銘文の「獲□□□鹵大王(□は読めない部分)」 もワカタケル大王だということが分かりました。日本書紀の大泊瀬幼(おおはつせのわか)武(たける)天皇(=雄略天皇)とワカタケル大王は同一人物だと考えられています。そして彼の名の「幼」と倭王が一致することから倭王武は雄略天皇だと有力視(疑う意見もあります)されています。この2つの史料から「大王」という称号が初めて出てくることからヤマト政権の王の権力が強くなっていることと、出土した場所から関東地方や九州地方へもヤマト政権の支配が拡大していたことが分かります。
 
 王権の強化は古墳の状況からも読み取れます。中期になると近畿地方の古墳は巨大化していきました。その最大のものが、百舌鳥古墳群にある大仙陵古墳(仁徳天皇陵古墳)で2番目の規模をもつのが古市古墳群にある誉田御廟山古墳(応神天皇陵古墳)です。どちらとも大阪平野に位置しており当時の政権の中心がより沿岸部にあったことがうかがえます。また、巨大な古墳は群馬県・京都北部・岡山県・宮崎県などにもみられ、これらの地域の豪族がヤマト政権内で重要な位置を示していたことがうかがえます。そのうち、よく出てくるのが、岡山県の吉備地方にある第4位の規模をもつ造山古墳です。
 古墳の特徴も前期から変化してきます。まず、副葬品については鉄製武器や馬具(高句麗との戦いの後に伝わったか)が加わって、被葬者の武人的性格が強まったことを示しています。被葬者の石室は朝鮮半島から伝わった横穴式石室へと変化し、追葬がかのうとなって家族墓性格が出てきます。埴輪はより高度なものとなり、人物や動物などを型取った形象埴輪が用いられるようになりました。

 中期古墳時代は大陸と盛んな交流が行われた時代でした。中国や朝鮮半島からやってきた渡来人によって、漢字須恵器、機織りなどの進んだ技術が伝えられます。ヤマト政権は渡来人を韓(から)鍛冶部(かぬちべ)・錦織部(にしこりべ)・史部など(総称して品部(ともべ)とよばれる)の技術集団に組織して各地に居住させました。漢字の音(おん)を借りて日本人の地名や名前を書き表すことが行われるようになり、史部を中心に「帝紀」・「旧辞」(のちに『古事記』・『日本書紀』のもとになった)などの記録がまとめられたと考えられています。
 
 支配が拡大するにともない5世紀~6世紀にかけて氏姓制度とよばれる支配体制をヤマト政権は築きました。氏は豪族の血縁組織で、氏を1つの単位として大王から姓(かばね)(家柄や職務に応じて与えられた称号)を与えらえ、ヤマト政権の職務を分担しました。具体的なものとして、例を挙げると
・臣…大王家から分かれ出たとされる氏族に与えられた
  例)蘇我葛城平群巨勢氏
・連…大王とは祖先の違う氏族。特定の職務で大王に仕えた
  例)物部大伴氏(軍事)、中臣氏(祭祀)
基本的に中央の政治は臣・連姓の豪族の合議によって成り立っていました。有力豪族は私有地である田荘や私有民である部曲を所有していました。その後の律令制度への移行を理解するうえでポイントになってくるのは、大王といえども全国を直接支配下に置いていたわけではなく豪族は自立的な経済基盤を持った存在であったということです。だから豪族は大王の命令に従わないこともしばしばあります。

③後期古墳時代(~終末期)

後期古墳時代になると地方で大型の前方後援古墳はみられなくなります。それだけ大王の権力が強くなり、地方への支配が強化されたと考えられます。一方で、各地方には有力農民層によって造られたと考えられる群集墳(代表例:吉見百穴など)が登場します。これらはヤマト政権が新たに台頭した有力農民層を直接支配下に置こうとしたものと考えられています。
そして、6世紀末あたりになると各地の前方後円墳の造営が終わります。各地で時期がそろっているため、ヤマト政権の強力な規制の結果とみられています。大王の権力が豪族から超越したものとなったのでしょう。その後、大王の墓は八角墳となり、豪族の墓は円墳か方墳となり、違う墓制となっていきました。さらに仏教が普及してくると、古墳は完全になくなり、寺院が一族を祀る場へとなっていきます。

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