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福沢諭吉「慶應義塾学生諸氏に告ぐ」~学問の目的と実学の重要性

こんにちは
今回紹介するのは明治19年に塾生に向けて行った演説です。
現代とは違い、高等教育を受けた人が数%だった時代です。高等教育を受けた人の多くは官僚や研究者を目指しました。福沢は塾生に対して学問を実社会に役立て、実業界へ出ることを促します。

現代語要約

 教育の目的は教師を作ることではなく、「実業者」を作ることであるとかつて述べた。我国は開国から明治維新後に至るまで、西洋文明の摂取を急いできたが、人材の数・質ともに十分でなかっため、将来を見据えて教育が必要だという説が起こり、新たに学者(現代の意味の研究者というより学問を修めた人全般)を育成しようと政府・民間あげて取り組んできた。

 当初は、日本の文明が遅れているのは教育が普及していないからだとのみ考えられ教育さえ広まれば国の文明富強は達成できると期待されてきた。そこで現在の有様をみてみると、確かに専門の学者も増えてきて、かつての目的は達成できたように見えるが、これをもって、国の文明富強を達成できたとはいいがたい。

国の富は一個人の富が集まったものであることは当然である。そうであるならば、文明富強の根本である教育を受けた者が、国を富ますためには自身の富を増やす必要があるのは言うまでもない。
西洋諸国の産業社会を見れば、事業に成功した人は必ず学校で学んだ者であり、教育で得たものを産業社会で活用して財産を築いたものである。一方、日本の教育を受けた学者はとうてい産業社会に適応できておらず、一家の富を増やすことさえできない。一家を富ますことが出来なければ一国が富ますこともできない。これでは教育の目的と食い違っている。

 ではなぜ日本の教育はこのような齟齬が生まれたのかというと、それは
教育さえ普及すれば文明の進歩すべてが意のままになると信じて、かえってその教育を人間社会で用いる工夫を考えなかったことが原因といわざるを得ない。人間社会は思っている以上に広くかつ俗っぽいものである。学校で教わる高尚な知見をそのまま丸出しにして実社会で用いようとしても上手くいかないことに気付かず、教育法のみがますます高尚になり学校は俗世間から離れた仙境のようになってしまった。そのため学者は世間の人を軽蔑し、俗世間も学者を俗世に理解のない仙人ようにみて、お互いに近づこうとしないのである。そのため、学者は学校の世界から出ようとせず、学校の教育により学校の教員を生むことが多いのである。

 慶應義塾は創立より実学に励み、西洋文明の学問を主として真理原則を大切にすることを非常に重視してきた。しかし、学問を神聖視せず、俗世間のために利用することを主義としてきた。慶應義塾では、文学から始まり、英学を主体として物理学・数学・地理・歴史・簿記法・経済学などの実学を教え、また道徳については特別な思想には基づかず、教師と生徒間の責善談話によって徳義品行も身に付けさせている。
 慶應義塾の教育法は始まって以来大きくは変わっていないが、その教育法の生気の源となっているのが、実学をますます「実」たらしめて実際の知見を養って学生を「即身実業」の人として「独立男子」の名に恥じないようにする工夫にある。塾生諸君には卒業後に各界で活躍することを期待している。我々も学校が仙境のように世間離れしないように心がけるので、学生諸君も心にとめておいて欲しい。

考えたこと

① 教育さえ変えれば何でも上手くいくわけではない

 不景気になったり、社会問題が起きたりすると何かと学校教育の問題とされ、2000年代には教育改革が何度も叫ばれました。そこにも福沢が指摘した「教育さえ普及すれば文明の進歩すべてが意のままになる」というような明治当初の風潮と共通するところがあると思います。教育ってあらゆる問題の原因にしやすいんですし、過度な期待を持たれやすいんですよね。人間の根本を作るものだから。

② 学問と実社会のつながりをどう伝えるか

 現代において理系学問や経済学などは働くうえで役立つけど、文学や歴史などの学問は役に立たないと思われがちですよね。特に文系大学の学生の勉強時間の少なさはよく言われます。学問をするより、アルバイトだったり、サークル活動だったり、ボランティアだったり、そういった実際の活動をするこの方が重要視されがちです。しかし、学問だからこそ得られる教養や知見があるのではないでしょうか?学問と実社会のつながりを気づかせてあげるような魅力的な指導をできるかが教師の腕の見せどころの1つかもしれません。

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