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平氏政権~鎌倉幕府の成立「学習プリント」⑮つき

割引あり

こんばんは
久しぶりの通史の更新です。

このフローシートでは平氏政権~源平の争乱~鎌倉幕府の成立までの流れをまとめました。いつ鎌倉幕府が成立したのかは、よく議論に上がるテーマですが、とりあえず頼朝の征夷大将軍就任までを扱っています。

解説は全文読めます!!プリントのみ有料とさせていただいてます。
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解説

①平氏政権の特色

 保元・平治の乱を勝ち抜いた平清盛は、妻の時子の妹滋子(建春門院)が後白河上皇お気に入りの后であったこともあり、結びつきを強めていった。ちなみに蓮華王院(三十三間堂)は清盛の支援で後白河法皇のために作られたものです。後白河法皇は親政を目指していた二条天皇が若くして死ぬと本格的に院政を確立します。それを軍事面で支えたのが平清盛で、1167年には清盛は太政大臣に就任しました(3か月で辞任)。後に対立する平氏と後白河法皇ですが、当初は提携関係にありました。後白河法皇は二条天皇の子である六条天皇を譲位させ、滋子との皇子である高倉天皇を即位させます。そして清盛は自分の娘の徳子を中宮として入内させ、姻戚関係を築いていきました。そして平氏一門は「平氏に非ずんば人に非ず」と言われるほど繫栄し、太政官の高位高官を独占していきました。

 平氏政権の経済基盤となったのが全国の半分以上の知行国と大量の荘園に加え、日宋貿易の利益でした。清盛が摂津国の大輪田泊を修築して日宋貿易を盛んにしたのは有名ですね。大輪田泊は現在の神戸港あたりにありました。西国に軍事基盤のあった平氏は日宋貿易のために瀬戸内海航路を整備するとともに、現在の広島にある厳島神社を氏神として社殿の整備を行いました。

② 平氏と後白河法皇・院近臣の対立

 平氏と後白河法皇の関係は長くは続きませんでした。まず後白河法皇と清盛を仲介していた滋子が亡くなってしまいました。それに加え、院近臣と平氏一門が朝廷のポストをめぐって競合し対立が深まっていました。そして、事件が起きます。院近臣の藤原成親・西光・俊寛が平氏打倒を計画したとして清盛によって処罰されました。これを鹿ケ谷の陰謀といいます。ですが、この事件では後白河法皇は無関係とされました。最終的に清盛と後白河法皇の関係が決裂したきっかけは清盛の長男の重盛の死です。後白河法皇が死んだ重盛の知行国を取り上げたことをきっかけに清盛は、武力で後白河法皇を幽閉し院政を停止させました。そして、高倉天皇を譲位させて孫にあたる安徳天皇を即位させ、外戚となりました。

③治承・寿永の乱

 これに反発したのが、後白河法皇の第三皇子の以仁王でした。以仁王は源頼政の協力の元、平氏打倒を掲げて挙兵しますが、計画が漏れていて両者ともにすぐに討伐されてしまいました。この時平清盛は反平氏勢力に包囲されることを避けるため、平安京から摂津の福原京へと遷都しました。(後に平安京へ再遷都)
 以仁王の乱はすぐに鎮圧されましたが、平氏打倒の以仁王の令旨が各地に届けられ、反平氏勢力が各地で挙兵することになります。ここから平氏滅亡まで続いた内乱を治承・寿永の乱といいます。一般的には源平合戦とよばれることが多いですが、源平の二項対立では語れないため学術的にはこちらの方が一般的です。

 一方、関東では、平治の乱に敗れて伊豆に流されていた源頼朝が伊豆の在庁官人北条時政の協力を受けて挙兵しました。しかし、石橋山の戦いに敗れ、一時頼朝は安房国へと逃れますが、上総広常など坂東平氏の援助を受けて勢力を盛り返します。それを警戒した清盛は孫の平維盛を頼朝追討に派遣しますが、富士川の戦いで敗れました。平家物語では臆病な平氏軍が水鳥の羽音を夜襲と勘違いして逃げたとされていますが、創作であるとの味方が強いです。この戦いに勝利した頼朝は平氏を追撃はせず、その後、東国での支配を目指します。そのために設置されたのが、侍所です。和田義盛を初代別当として設置され、御家人の統率を担当しました。

 頼朝が東国の支配の安定を図っている間、西国では養和の飢饉が起き、西国の平氏の基盤は弱体化しました。また、平清盛が熱病によって亡くなってしまいました。前年、平氏に対して反抗した南都を焼き討ちしたことによる仏罰であるとも言われました。この時に東大寺の大仏は焼け落ちてしまいました。

 平氏が弱体化するなかで、勢いを増していったのが北陸で挙兵したのが源義仲です。砺波山の戦いで勝利した義仲はその勢いで京都へと攻め上り、平氏を都から追い出してしまいました。京を抑えた義仲でしたが、兵の略奪などにより後白河法皇と対立するようになります。義仲を京から追い出したくなった後白河法皇は関東の源頼朝に東海・東山道の支配権を認める寿永二年十月宣旨を出しました。これを受けて源頼朝は弟の源義経・範頼に軍勢を率いさせ義仲追討を命じました。宇治川の戦いに敗れた義仲はその後、近江で討ち死にしました。
 
 義仲に代わり頼朝軍が京都に入った頃、西国では平氏の勢力が盛り返していました。後白河法皇は範頼・義経に続けて平氏への追討を命じました。そして、摂津の一の谷の戦い、讃岐の屋島の戦いに勝利した義経は平氏を追い込んでいき、長門の壇ノ浦の戦いで平氏は滅び、安徳天皇は三種の神器とともに入水してしまいました。

④頼朝と義経の対立

 その後、京都へと凱旋した源義経は後白河法皇から検非違使などの官位をもらい、朝廷に取り込まれることを恐れた頼朝と対立を深めていきました。そして、義経は後白河法皇から強引に頼朝追討の院宣をもらいましたが、武士が集まることはなく、京都から逃亡しました。これに対して、頼朝は北条時政を京都に派遣して、義経追討と守護・地頭の設置を認めさせました。義経はその後、かつて保護されていた奥州藤原氏の藤原秀衡のもとに身を寄せますが、秀衡の死後に泰衡によって打ち取られてしまいます。義経を滅ぼした泰衡でしたが、頼朝は義経をかくまったことを口実に東国の武士を動員して奥州藤原氏を滅ぼし、東国の支配を確立しました。

 そして翌年、頼朝は京都へと上洛し、後白河法皇から右近衛大将の地位を与えられます。これは意外と重要で、頼朝のことは後世の史料では右大将家と称されます。そして、後白河法皇が死去した後、1192年に征夷大将軍に任命されました。

 以上、平氏政権から鎌倉幕府成立までの流れでした。鎌倉幕府の成立をどの時点とするかはどの点を重視するかによって変わるので、そこまで説明する気力はないので触れないでおきます。皆さんはどうお考えでしょうか。

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