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高校日本史「学習プリント」③~ヤマト政権と東アジア情勢~

①プリントの構成

古墳時代の教科書の構成も弥生時代と同様に、中国の歴史書など文献史料から分かる内容考古学的な側面から分かる内容(古墳文化)との2つの側面から成り立っています。古墳時代は2つに分けてプリントを作成しました。このプリントは前者の内容に軸をおいて作成しています。ヤマト政権を語るにおいて東アジア(中国や朝鮮半島)との関りは外せません。そこで、日本におけるヤマト政権の動きと中国や朝鮮との関係が分かるように軸を作って作成しました。

②解説

ヤマト政権(またはヤマト王権)は畿内の王(のち大王)を中心とした豪族の連合政権です。しかし、どのように成立したのかは文献史料がなくよくわかっていません。各地の前方後円墳はヤマト政権に加わっていた豪族が造営したと考えられており、そのため、前方後円墳が出現し始める3C半頃~4C前頃にヤマト政権が成立したと考えられています。
ヤマト政権が成立したころ、中国は北方騎馬民が侵入し南北に分裂していました。その結果、中国の朝鮮半島への支配がゆるみ、朝鮮半島北部で高句麗が台頭しました。高句麗は313年に楽浪郡を滅ぼし、さらに南への勢力拡大を目指します。小国の分立状態が続いていた朝鮮半島南部では高句麗に対抗するために国家統合が進みます。馬韓(朝鮮半島西部)では百済、辰韓(半島東部)では新羅が成立します。最南端の弁韓は、小国の分立状態が続き(高句麗から最も遠かったからでしょう)、加耶(加羅)諸国と呼ばれます。
→語呂合わせの覚え方(ばかくだらない、んかん→らぎ)で覚えれば間違えないと思うよ。

 ヤマト政権は加耶と密接な関係をもっており、資源をそこから入手していました。また、百済とも友好関係(または同盟関係)があり、百済の王から送られた石上神宮七支刀はそれを示す重要な史料です。4C末に即位した高句麗の好太王(広開土王)は領土拡大のため百済に対する攻撃を始めました。この好太王の活躍を記した碑の碑文には倭と高句麗が交戦したことがしるされています。おそらく朝鮮半島南部における鉄資源を守るためか、友好国の百済を守るためか、もしくは両方か、ヤマト政権が朝鮮半島へと出兵したのでしょう。しかし、この戦いに倭は敗北してしまいます。当時まだ倭には騎馬技術がなく、騎馬を用いた高句麗軍にかなわなかったのではないかとも考えられています。5世紀になると倭にも騎馬技術が普及していることが考古学的に分かっていることから、この戦いをきっかけに倭への騎馬技術の導入が進んだのではないかとも考えらえられています。

 5世紀に、「讃・珍・済・興・武」倭の五人の王が中国の南朝のに次々と朝貢した記録が『宋書』倭国伝に書かれています。なぜ彼らは中国の南朝に朝貢したのか、主に理由は2つです。1つは朝鮮半島南部における
外交・軍事上の地位向上を求めるためです。(高句麗に敗北してますしね…)2つめは、国内における支配体制の強化です。当時ヤマト政権は東西へと拡大していました。各地の豪族を従えるために中国の皇帝から地位を得て自らの権威を高める狙いがあったとも考えられています。この5人の王の中で最も重要なのは「武」で、この王は『日本書紀』上の雄略天皇である可能性がかなり高いと考えられています。(その理由については次回)
 武は中国の皇帝から「使持節都督 倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・六国諸軍事 安東大将軍倭王」という地位を授けられました(シートでは長いので省略)。武の宋への遣使後、南朝への遣使は途絶え、倭についての記録は途絶えます。
 正確な文献がないため分からないのですが、王位継承争いなど混乱があったのか、大王家との血縁関係が遠い継体天皇(男大迹(おほど)王(おう))が近江国(または越前国)から大伴金村らにより擁立されて即位します。
※当時まだ天皇号はないが、教科書と同様に『日本書紀』に書かれている天皇名で説明する。
本来王位を継ぐ存在ではなかったため、当初は権力が不安定で527年には筑紫国の豪族である磐井(磐井の墓とされているのが岩戸山古墳)が反乱を起こしています。反乱は物部麁鹿火らが派遣され鎮圧されました。その結果、ヤマト政権の地方支配は強まることになり、地方の豪族は国造(くにのみやつこ)に任命され支配を承認される代わりに、屯倉(みやけ)(大王の直轄地)名代・子代 (大王の直轄民)の管理を担当するようになりました。

 継体天皇死後、安閑(あんかん)・宣化天皇と続きますが、分かっていないことが多く覚える必要はありません。安閑(あんかん)・宣化天皇は継体天皇の嫡男の欽明天皇へのつなぎの天皇という見方もあります。欽明天皇即位して間もなく、継体天皇存命の時に大伴金村が百済に任那4県を割譲することを認めたことを失政であると非難されて失脚します。任那4県割譲は高句麗から圧迫を受けていた百済の要請のもと行われ、見返りとして百済から日本には五経博士(儒教の学者)が派遣されました。
 そして欽明天皇と血縁関係を結んだ蘇我氏が台頭するのですが、その後の欽明天皇の時代は仏教の伝来の文脈などで詳しくは飛鳥時代のところでまとめていきます。

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