要約 福沢諭吉「教育の目的」-後半
こちらの記事の続きとなります。教育の目的は平安にあると述べる福沢。ではなぜ平安を求める人類に盗賊や国の争いがあるのか、それを後半で述べています。
① 要約
他人を害して自分を利する者までが平安を求めているとすると、平安を求めることは教育の本旨に似つかわしくないが、人生八田うの視点に着眼すれば、この疑問も解ける。
人生の智識が発達していない段階では、心身の働きは物質・身体面に偏るのが常である。害他利身の輩は、人生が形体(物質)の面でしか平安の主義に従っていないものである。
教育の趣旨は、形体と精神両方を導き、その働きを最大限引き延ばすことにある。害他利身の輩がいることは、教育が広まっておらず、精神的喜びを知らない者または乏しい者がいるだけで、平安を求めている点は変わりない。
物質的安楽のみを求め、精神的喜びを知らないのは盗賊だけでなく、植民地から搾取している西欧諸国も同様である。未だに国の教育が発展していないものと言ってもいいだろう。
② 原文に近い現代語要約
いままで説明してきたように平安を好む人の感情は世界中同じであり、各国の交際も人々の世渡りもその目的は平安でないものはない。さらに、物を盗み人を殺す者もも平安を求める者に含まれるものとすると、人生の目的は他人を害して自身を利することにすぎない。これをもって教育の本旨とするには似つかわしくないが、人生発達の視点に着眼すれば、この疑問も解けるだろう。
そもそも人生の智識がまだ発達していない段階では、心身の働きは形体(物質面)に偏るのが常である。だが、人生の発達が完全ならば、形体の安楽に加えて、精神的な愉快を重んじるようになり、そしてはじめて人類至大の幸福を理解するだろう。盗賊など他人を害して自身を利する者は、人生の働きが未発達で、形体(物質)の面でしか平安の主義に従っておらず、いまだ精神の愉快を知らないか、その範囲が非常に狭く、自身以外の美を楽しむ感情に乏しいのみである。
教育の趣旨は、形体と精神両方を導き、その働きを最大限引き延ばすことにある。世に害他利身の輩がいるのは、教育はいまだ広まっておらず、人生が未だ発達していないということだが、平安の主義は自然とその間にも行われて支障がないことを理解すべきだ。
形体の安楽を知って精神の愉快を知らない者は、盗賊だけでなく、現在の世界各国の交際においてもそうである。西洋諸国の人民がいわゆる野蛮国を侵略して、土地や財産を搾取して自らのものとするのは盗賊に異ならない。英仏が富み、それを維持している費用はも遠い野蛮国から得たものである。遠国だけでなく、国境を接するプロイセンとフランスの戦争で、プロイセンがフランスから賠償金を獲得したのもは、隣国を貧しくして自ら富もうとする手段である。
このように現在の世界各国の人民は、自分の安楽のみを考え、他の不幸を知らない者である。一国形体の安全を求めて、国外の安全を愉快と感じる精神に乏しいものである。すなわち国の教育がいまだ上達していないと言ってもいいだろう。
考えたこと
① 文明論の概略と似たレトリック
「教育の目的」はほとんどが福沢の「平安」論といっていいほど、人々が求める「平安」についての説明が続く。福沢のいう平安は何も考えずに現状に満足すること(「足らざるを知らざる状態)ではなく、、精神も形体もともに高尚の道へと進もうとする中で得られる平安であった。ここには『文明論之概略』で述べられている相対的な文明観が反映されていると思う。西洋の文明は東洋の文明より相対的に進んでいるだけで、現在の西洋の文明も野蛮な物なものとして見られるだろうと言っている。
そして、教育の目的は形体と精神の両面において人の能力を最大限発達させ、「足らざるを知りてこれを足すの道を求める」ことにあった。精神的な発達が無ければ他人を害して平安を求める者となってしまうわけである。こちらも文明の進歩を人の智徳両面の進歩であると述べた『文明論之概略』と似ている。
②とにかく読みづらい
にしてもこの「教育の目的」は読みづらい。教育について語っている内容より、「平安」について語っている内容の方が圧倒的に多く、いまいち教育が具体的にどうあるべきかについては述べられていない。
『福沢諭吉教育評論集』の注によれば、未完結の原稿の第1章「人生」第2章「教育の目的」「第三章(無題・未完)のうち、第2章の部分を東京学士会院で演説したものだったそうなので、いまいち福沢も「教育の目的」についてまとまりきっていなかったのではないだろうか。
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