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誰にでもわかる感じではない『誰にもわかるハイデガー』 | 筒井康隆

 『誰にもわかるハイデガー』は、筒井康隆が1990年に実際に行った講演を元に文字起こしした書籍である。それにしても、30年近く経ってこのような書籍として世に出てくることは驚きである。

 この講演は、もともと筒井康隆の小説『文学部唯野教授』に関連して行われたものである。文学を批評する大学教授の講義の体を取ったこの小説は、大学教授という存在を批判的に見た視点が面白い、筒井康隆らしい小説で、そちらも合わせて読むとより楽しめるのかもしれない。

 それにしても、テーマがハイデガーである。ハイデガーは哲学者だ。1889年にドイツに生まれ、1927年に『存在と時間』によって、人間という存在が本質的に時間的存在であり、過去から連なる現代に生まれてきた我々は、特定の歴史的、物質的、精神的環境を背負って存在するという理論を展開した20世紀のもっとも重要な哲学者のマルティン・ハイデガーだ。自分で書いていても、何を書いているのかわからないぐらい難解だ。

 そのハイデガーを、誰でもわかるように講義しようというのだから、さすが筒井康隆である。常人には到底叶わぬであろう解釈で、わかりやすく存在と時間の概念を解説してくれるに違いない。

 と、思ったら大間違いである。『文学部唯野教授』執筆の際に、その中で「解釈学」というものに触れるときに、ハイデガーの『存在と時間』を読んで研究しようとした筒井康隆。1ヶ月かけて読んだ『存在と時間』がやはり難解で、その内容について自分なりの解釈を迷いながらも講義するのである。いや、講義の言葉を聞く限り、筒井康隆もほとんどわかってないぐらいの勢いなのだ。これのどこが「誰にもわかる」なんだろう!? これで講演をして小説を書いてしまうところが、さすが筒井康隆御大の凄さである。小難しい哲学は自分なりにケリを付けて、それをいかに小説としての面白さに昇華させるか。それが小説家として正しい姿なのだろう。

 しかしながら、さすがに筒井康隆の講演における言葉選びは平易でわかりやすい。もしかすると、これを読めば『存在と時間』、そしてハイデガーの論がわかったような気になるのかもしれない。僕はわからなかった。でも、それでいいのである。筒井康隆らしい語りと、彼の死生観へとつながる『存在と時間』の解釈が見えてきただけで、ファンとしては十分に楽しめるからだ。

 この講演は30年前のものであるが、最近『老人の美学』で死について語った筒井康隆が、この頃からすでに死について考えていたということがうかがいしれて、実に興味深い。そういう観点で読んでみて、まあ、ハイデガーはなるほど全然わからない、って感じでいいのかもしれない。難しいタイトルに反して、軽く読める楽しい1冊である。


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