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「良い大学を卒業する」と幸せになれるのか? という話

だから、来年は

みんなでサクラを見ながら

存分に日本の春の宴を楽しもうではないか。

新しい季節が始まった

進学や入学した皆さんおめでとうございます。

そして、ということは、

入試に備えた1年の始まりでもある。

長年の疑問。学歴って生きていく上で必要なのか?

前回、自分のnoteで

“あんまり関係ないかもしれないけど、「マインドフルネス」を勉強している人と会話すると、結構高学歴だったり、頭の切れる人が多い。(MBAホルダーだったり、大学院出てたり、大企業に勤めている人が結構たくさんいる事を知った。だから、詐欺ではないとは言い切れないけど。自分の価値観でこういう人達は信用出来ると思っている。)”

と書いた事に対して、なんでこんな直感が出てきたのだろうかと疑問に思ったので、「学歴って生きていく上で必要なのか?」に対する、今断面で自分の考えを書いてみた。

※後最近、「東大王」がやたらメディアに出てきて、「学歴なんて関係ない」という風潮と逆行ってないか?と思ったのと「鈴木光」かわいいなって思ったので。

日本の入試制度は努力重視型

大学入試の出題範囲について調べてみた。
めっちゃ精緻に調べたわけではないけど、基本的には文部科学省の検定済み教科書からの出題範囲に限られるらしい。(直接載っていないとしても、教科書に載っている情報を論理的につなげていけば答えにたどり着く、らしい。私大だと時々、意味不明な奇問とか出るけど。噂だと、どっかの大学の日本史の問題で、有名でもなんでもない道路の名前を答えさせる問題があったらしい。)

ということは、高校までの教科書を全て理解していれば基本的に全員「東京大学」の入試には合格出来る事になる。

そうなると、よくYahoo newsとかで見る大学名/学部名が偏差値順に並んでいるのは、ある意味「大学受験までに費やした個人の勉強に対する努力量」の順位表、なんじゃないかと個人的に解釈している。

だから、この「順位表」の上の方に名前がある大学を卒業した人達に対して、
「人生のどこかのタイミングで(小学校入試、中学入試、高校入試、大学入試)努力をしてきた人達」

と見なして、直感的に信用するようになったのだと思う。

学歴が高ければ幸せになれるのか?

今現在、個人的な回答は

「No」だ。

学歴と幸せは直接的に関係しない。
そもそも、「幸せ」自体、人によって定義が異なるし。

自分の中では「幸せ」とは、「人生の目的」を見つける事と「それに向かって日々前進」出来ている事だと思っている。

でも、「人生の目的」ってどうやったら見つかるんですかね?

インドでも行けば見つかるのかしら笑

でも、なんで自分の中では「高学歴」=「幸せ」に近い感覚を持っているんだろうか?

「Brain Driven」に今のところ、自分の腑に落ちる記述があった。


「葛藤して選択した経験」が人を成長させ人生を幸福にする

大学に入ってから社会人になり、今までの環境で所謂世間で言う「高学歴」の人達と多く接してきた。

その人たちと話していると、やっぱり教育課程のどこかのタイミングで、「葛藤」して「努力」してきた経験をしている人が多い。

自分自身、大学受験の浪人生活の中で数え切れないくらいの葛藤と苦労を経験し、他人と自分を比べ、幾度となく「自己劣等感」を味わった。

だから、勉強の苦労話を聞くと「うん。うん。そうだよね。」と同調してしまう。(聞くところによると、大学受験より小学校、中学受験の方が大変だとか。高校受験はしらんけど。)

それでもって、「葛藤し、選択した経験を持つ人」は人生が幸福になる
権利(みんなあるけど)があるし、その確立が高いものであって欲しいという一種の願望がある。

人と比較しての「葛藤」はあまり良いものではない

「葛藤して選択した経験」が人を成長させ人生が幸福になる、と思う一方で、他人と自分を比べ続けて「自己否定」してしまうと、うつ病や精神疾患になる可能性があるので、そんなときは一呼吸置いて、「瞑想」でもしてみると良いと思う。

一番大切なことは、他人との比較ではなく

過去の自分と比べたときに、どれくらい成長したか気づけることだ。

たとえそれが第一志望の学校ではなかったとしても、

「葛藤して、努力し、選択した経験」は必ず、その後の人生を豊かなものにしてくれる。

太宰治の名言にこんなものがある。

「 勉強というものは、いいものだ。代数や幾何の勉強が、学校を
卒業してしまえば、もう何の役にも立たないものだと思っている人
もあるようだが、大間違いだ。植物でも、動物でも、物理でも化学
でも、時間のゆるす限り勉強して置かなければならん。日常の生活に直接役に立たないような勉強こそ、将来、君たちの人格を完成させるのだ。
何も自分の知識を誇る必要はない。勉強して、それから、けろりと忘れてもいいんだ。
覚えるということが大事なのではなくて、大事なのは、カルチベートされるということなんだ。カルチュアというのは、公式や単語をたくさん暗記あんきしている事でなくて、心を広く持つという事なんだ。つまり、愛するという事を知る事だ。
学生時代に不勉強だった人は、社会に出てからも、かならずむごいエゴイストだ。
学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。
けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ。
これだ。これが貴いのだ。
勉強しなければいかん。そうして、その学問を、生活に無理に直接に役立てようとあせってはいかん。ゆったりと、真にカルチベートされた人間になれ!」
(「正義と微笑」より「パンドラの匣」新潮文庫収録)

こういうことだ。勉強するというのは、自分をカルチべートすることだ。笑

まぁ、でもどうしても人は他人と自分を比べてしまうんですよね笑

「大いに葛藤を楽しもう」

そして、来年

今日と比べた自分の成長に気づいて、

サクラの下で宴を楽しもうではないか。

おじさんも、社会復帰に向けて一歩ずつ前進するよ。

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