【往復書簡】挑戦しよう。そうしよう。

上の壇珠さんの記事へのお返事です。

わたしが今日まで毎日ブログを書いていて気がついたのは、優しくてほっこりするような癒やされる記事にはいいねがつきやすいということです。ヒーリングの必要な人がとても多いのだと感じます。そしてそのことに言葉にならないマグマを感じてきているところでした。それは大切だ!でもきっとそれだけじゃない!逆撫でされたり狂人を見ることで活性化されることもきっとあるのではないのか!という思いです。

ぐおおおおおおおおおおおおおお!!むぁさに!!癒され過ぎて腐っている輩、多いですよね!!宗教とかスピリチュアルにはまっているひとがどす黒い顔面をしているのを見ると「お前の聖水はドブか」とか思っちゃいます。騙されるな!!バカ!!と、愛のドロップキックをしたくなります。軽々しくワンネスとか言われても「俺はお前と一体化したくねえ」って思います。俺はお前とは違う。一緒にされてたまるか。新陳代謝こそ我が命。変えてけ、変えてけ。同じ場所に長い間いると、それが『愛』でも『癒し』でも、底なし沼に引きずり込まれる気がします。そんな奴ぁ、一回無人島に漂着すればいいと思います。差し迫った命の危機は、生きる力を目覚めさせます。

壇珠さんは、子育てで意識をしたことと言いますか、このやり方は個人的に最高だったぜ!と感じた経験はありますか??私はまだ父親になったことがないのですが、暇な時に『俺の子育て』を考えます。個人的に20歳で成人は遅過ぎると感じるので、我が家では10歳成人説を採用したいと思います。男子の場合、10歳の誕生日を元服式と称し、無人島的な場所に一週間程度「死ぬなよ」と言って放置します。ある種の危機を乗り越えた男は顔つきがわかりやすく変わるので、能動的にそれを体験していただきます。それ以降は、別に一緒に暮らしても構わないのですが「君は自由だ」と言って、野放しにします。女子の場合は・・・まだちょっと想像ができていません。とにもかくにも「俺のこどもに生まれたことが運の尽き」ということを序盤から徹底的に叩き込み、ランドセルが高いという理由で義務教育を拒否しつつ、イレギュラーな人生を逞しく生き延びていただきたいと思っています。

『ほんとうのキャッチボールとは、相手が取りやすい球を投げることじゃない。投げたい球を投げあって、互いのミットの大きさを無限大にしていく遊びだったのだ』と思います。その都度自分の出せる最強の球を投げるからこそ、相手がキャッチしたことが突き抜けるほど嬉しく、返ってきた遠慮のない球を自分がキャッチできることが喜びになるのだと思います。

ぬああああああああああああああああああああ!!コペルニクス的転回!!これは令和の大発明!!世間的な「ちゃんとしなさい」の真逆ですね!!ちゃんとしないほど鍛えられる筋肉!!楽しくなっちゃいます!!嬉しくなっちゃいます!!ぐるぐるどっかーん!!これはぐるぐるどっかーんです!!

男女がつがいになることを「付き合う」と言いますが、一体なにに付き合うのかが昔から謎でした。しかし、壇珠さんの言葉を通じて正解がわかりました。それはズバリ『キャッチボール』だったのですね。お互いのミットを無限大にする遊びに、付き合うという約束だったのですね。生まれてはじめて意味がわかりました。これまで付き合うとか言われても「なにに?」という感じでした。だが、キャッチボールに付き合ってくださいと言われたら「かしこまりました」となります。やらせてください。やらせていただきます。

わたしもよく「どうすれば本音を出せるようになりますか」「本音を出したいのですが、受け止めてもらうにはどうすればいいですか」ということを聞かれます。きっとプロのカウンセラーさんなどに聞けば有用な返答が得られるのだと思いますが、わたしがその真似をしても仕方がないので、ここでまとめてわたしなりのお返事すると、「出すっきゃねえ」です。「出すしかないと思います」ではなく、出すっきゃねえ、です。この言い回しでしか言えません。

孫悟空は、実在したのですね。壇珠さんが、孫悟空に思えてなりません。出すっきゃねえ。出すっきゃねえのですね。実際に口にしてみるだけで、途端に元気になるから不思議です。人間って、幸せになりたい願望と同じくらい破滅したい願望があると思います。壇珠さんの言葉は、そのツボを見事に押してくれます。喜怒哀楽の喜と楽ばかりを求めがちな我々に「怒も哀も、深い味わいがあるんだぜ」と、広い世界を提示してくれます。全部こい。酸いも甘いも全部こい。そんな気持ちになれたとき、人間って無敵ですよね。勘違いだと思いますが「あ、俺は無敵だった」ことを思い出させてくれます。

各種SNSをやっていると、好きの数がマーケティングみたいになるから興味深いですよね!!私の場合「嫌われたっていいじゃないか」みたいな投稿に好きの数が集まるので、いま、多くの人々は嫌われることや傷つくことに怯えて生きているのかなって思います。無論、私もその一人なのですが、そんな自分をけしかけるためには「嫌われないためにはどうすればいいか」などという生ぬるさでは到底通用しません。嫌われないためにどうすればいいかなんて、範囲が狭すぎます。そんなことより覚悟一発。嫌われたっていいじゃないか。潔く、嫌われてしまおう。この『潔く』が大事だと思っていて、嫌われたことをうじうじ悩み続けることは最悪だと思います。他にも「自分に自信がないです。どうすれば自信を持てますか??」という悩みも結構いただくのですが、私は「自信なんてどうでもいいじゃないか」と思っています。自信があるからやるのではなく、能力があるからやるのではなく、ただ、やりたいと思ったからやる。言いたいと思ったから言う。そのことが尊いのであって、その結果傷つくのであれば、思い切り傷つけばいいじゃないか。思い切り傷ついて、思い切り泣いて、次の日に「よし、もう一発」と別のやり方を試せばいいじゃないか、と、そんな風に思ってしまうのです。傷つくことを恐れて誰ひとり愛さない道を選ぶより、思い切り愛して傷つく道を選びたいと思うのです。だって、我々、最後には死ぬのだから・・・傷つくことさえできなくなる日が、必ずやってくるのだから・・・!!(熱唱)

そこから、なにかといえば最悪でも〇〇にしかならない、という発想に至るまでの迷いが消え、節操がなくなり、犯罪者の強みを手に入れました。これまでわたしは面の皮が厚くなったことで乗り越えられてきたことがたくさんあるのですが、これを人に勧めてみたかったので読んでとても嬉しかったです!犯罪者の強み・・今回も書いていて自分の恐れと対面しています。この部分を消さずにアップできたら自分を褒めたいと思います!

壇珠さんの勇気を讃えます!!讃えると同時に「俺も晒さなきゃ」という、強迫観念に襲われます。どうしよう、俺も死ななきゃってなります。少し前、日本で『死ぬこと以外はかすり傷』というタイトルの本が出版されました。私は天邪鬼なので「死ぬことだってかすり傷だろ」と思いました。著者に対して「結局お前死ぬことビビってんじゃねえか」と思ってしまって、ビビることは一切問題ないのですがビビってないぶっていることにイラっときて「絶対買わねえ」と思いました。死ぬことだってかすり傷。そう言えなければ本当じゃないと思ったのです。このような考え方をすると、なにをするにしても「最悪の場合、死ぬだけ」という思考になります。最悪死ぬだけだから、もうやっちゃえという風になるのです。頭がおかしいのでしょうか。

私は思うのですが、かっこいい男とかっこいいっぽい男って、全然別物だと思うのです。そして、世間ではかっこいいっぽい男(要するに偽物)がちやほやされている気がして、癪です。鼻につくし、目障りだと思います。俺は絶対に騙されねえぞと身構えます。そればかりか「化けの皮を剥がしてやる」と、なんだか燃えている自分がいます。昔から『暴く』と言う言葉が好きで、社会に蔓延する嘘を暴くことに命を賭けているみたいなところが自分にはあります。学校の先生が言っているあれって全部嘘だよね、とか、ニュースが伝えているあれって全部嘘だよね、とか、みんなが大事に守り続けているものの大半って実は案外無価値だよね、とか、基本的にアンチから入ります。頭をさげたくないものには絶対に頭をさげたくないし、その代わり、あなたには参りましたとなった瞬間、全身全霊で頭をさげたいと思います。

あちきはイタズラ好きな子どもでありやんしたよ。

この一文、大好き過ぎます!!あちき!!ありやんしたぁ!!(絶唱)

そこを使って触れ合える関係は、正しいとか立派だとかすごいとか素晴らしいとかいうものよりもずっと、「面白い」のほうが好きだと思い出させてくれるのだとわたしも思います!!圭吾さんがそうして遊んでくれることを、わたしも最強に嬉しく思っています。いいねの少ない狂人書簡ですが、読者さんのその観察の目のほうにはきっと面白くうつっていると願うばかりです!こちらこそありがとうございます!!

もう本当にありがとうございます!!僕は元気です!!おかげさまで元気です!!幸せに条件をつけると、途端にややこしくなりますよね。友達がいなければ幸せになれないとか、お金がなければ幸せになれないとか、結婚をしていないと幸せになれないとか、健康じゃないと幸せになれないとか。でも、私は思うのです。友達がいなくても幸せになる道はあるし、金がなくても仕事がなくても家族も恋人も社会的な肩書きもなんにもなくても、それでも幸せになる道はある。絶対にある。ないと困る。あると信じたい。あると言ってくれ。誰も言ってくれないなら俺が見つける。そして「ほら、あったぜ」と言ってやる。言ってやるから「ない」とか思って闇落ちしてるやつ、ちょっと待っててくれ。俺がこれから見つけるから、それまでもうちょっと生きててくれ、そして俺が見つけたらそれを一緒に喜んでくれと思います。

私は、大学時代に朝鮮語の勉強をしていました。理由は『挑戦』と言う言葉が好きで、朝鮮語で挑戦ってなんていうのかな??と思ったからでした。結論から言うと、朝鮮語で挑戦は「トジョン」と言います。挑戦者は「トジョンジャ」で、挑戦するは「トジョナダ」と言います。俺たち、まだまだ発展途上なんだ(途上なんだ=トジョナダ=挑戦する)と言う風に覚えると、忘れないです。人生の醍醐味って、挑戦することだと思います。どんなにくだらないことでもいいから、なにかしらに挑戦できている時の自分はナイスガイです。逆に、変に深刻になっている時って、なんにも挑戦していないで、ただただ頭だけになっている時だと思います。そんな時は、この朝鮮語を思い出しています。トジョナダ。これが、私が2年間通って退学した大学で得たことのすべてです。法学部だったのですが、他の教養は全部忘れました。

面白いかどうかだけで、生きる道を選ぶことの面白さは格別です。絶対に、昔は全員そうだったはずだと信じます。いまは忘れているだけ。いまは眠っているだけ。それならば、我々が叩き起こすまでです!!うおっしゃー!!まったく男女の話題に戻れていない狂人書簡ですが、当事者(坂爪圭吾&壇珠さん)が男と女であることが救いだと感じています!!「これが本当のキャッチボールだ」と言えている点において、大丈夫と思い込むことにしたいと思います!!勇気を出して上から目線、行きます!!読者諸君、俺たちを見よ!!生きるとは、こういうことであると!!人間と人間が会話をすると言うことは、こういうことであると!!俺たちがお手本を示してやる。こうやるんだよ、と。こういう風に発狂をすればいいんだよ、と。優等生よりも優等生、風紀委員長よりも風紀委員長な我々を、刮目せよ!!と・・・!!

バッチ来い人類!うおおおおお〜!