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第44弾「WORLD OF WARMTH」

ハーイ!みんな元気?あたしけいご。

44曲目はこれ。WORLD OF WARMTH。これは完全なる言い訳だけど、どうしても、自分が「こういう世界観を作りたい」という理想に、まだ、自分の歌詞が追いつかない。時間が足りない。これが、もう、ほんとうに悔しい。悔しいけれど、毎日、出す。毎日出す・・・まるで、自分にはそれしか能がないみたいに、阿呆みたいに、痴呆みたいになりながら、毎日、出す。

「WORLD OF WARMTH」

なんでもいい なんでもいいんだ おれ
なげやりな わけじゃないぜ

どこでもいい どこでもいいんだ もう
遠いところまで 行けたらなあ

いつの日か きみのこと 忘れるのなら
いつの日か この場所を 離れるのなら

一度だけ 一度だけでいいから
見せてくれないか WORLD OF WARMTH

なんにもない なんにもないんだ おれ
なげすてた わけじゃないぜ

どうでもいい どうでもいいんだ もう
全部 投げ出して 行けたらなあ

ほんとうは きみのこと 忘れたくない
いつまでも ここにいて 離れたくない

もう二度と 戻ることはないから
笑ってくれないか WORLD OF WARMTH

なんにもない なんにもないんだ おれ
あきらめた わけじゃないぜ

どこでもいい どこでもいいんだ もう
君のとなりに 行けたらなあ

悲しみが声をあげ 泣き出したとき
こぼれだす透明が ふるさとならば

もう二度と 戻ることはないから
笑ってくれないか WORLD OF WARMTH

もう一度 一度だけでいいから
見せてくれないか WORLD OF WARMTH

今日は、九平少年の話をさせてください。熊本県で起きた水俣病にまつわる『苦海浄土』っていう、有名な本があります。あたし、この本に出てくる、ひとつのエピソードが大好きなの。大好き、っていうと語弊があるんだけど、このエピソードを思い出す度に、ああ、あたしも頑張ろうって前向きな気持ちになる。そんなエピソードを、みなさまにも、共有させてください。

小さなこどもが水俣病にかかると、成長過程で異変が起きて、おとなになるときに、骨とか、体の部位が、ぐにゃぐにゃ曲がったまま成長しちゃうのね。でね、この、九平少年っていう男の子は、水俣病のせいで体がぐにゃぐにゃになっちゃうの。小さなこどもなのに、足腰はまるで老人みたいで、下駄をはくことも重労働になるような、そういう被害を受けてしまったの。

おまけに、九平少年は、目も見えない。そんな九平少年が、ある日、外でなにかやっているのを、著者・石牟礼道子さんが、目撃するの。でね、九平少年はなにをやっているのだろうって観察していたら、彼、棒切れで地面を叩くように動きながら、石ころを拾っているの。そして、幾たび目かに、棒切れが目指す石ころに触れた。少年は、まるで愛撫をするように、その石ころを握りしめました。彼の右手は半分硬直していたから、左手に、ちょうど野球ボールくらいのサイズの石ころを、彼は、大事そうに握りしめていたの。

それでね、彼、その石ころを思い切り空に放り投げるの。その直後、彼は、これまでの全動作の中ではもっとも素早く、両腕で棒切れを横に振り払った。そう、彼は、目も見えない、体の自由もきかない状態で、たったひとり、自分以外誰もいない場所で「野球」を、やろうとしていたのよ。棒をバットにして、石ころをボールにして。自分一人でピッチャーをやって、自分一人でバッターをやる。そして、全身全霊の力を込めて、棒切れを振った。

少年の腰は、がくんと揺れた。それでも、少年は転ばなかった。石は、あらぬ方向にごろりと落ちた。棒が振られたとき、石ころは、すでに地面に落ちていたのです。少年は、静かに石の落ちた方向に向かって首をかしげ、彼のバットで、再び地面の上を叩き始めた。石ころを探すために。ボールを拾い上げるために。もう一度、野球をするために。今度こそ、バットに石ころを当てるために。その瞬間を、著者である道子さんは、目撃してしまったの。

それでね、道子さんは、言葉にできない感動を覚えるの。水俣病が蔓延すると、大抵、海の付近の漁村は「あそこの海の魚は食えたもんじゃない」とか言われて、街全体が閑散とするのね。海に水銀が流れちゃうと、魚がそれを食べちゃうから、結果、魚を食べたひとが水俣病になる。だから、みんな、この村を捨てる。結果、死んだ村、みたいに、なってしまうのよ。でもね、そんな漁村の中で、九平少年のけんめいな動作だけが、この真空を動かしていく唯一の村の意思そのものに見えた、と、道子さんは、書いているの。

あたし、このエピソードを思い出す度に、なんだか泣きそうになってしまうの。目も見えない。体の自由もきかない。下駄をはくことだけでも重労働なのに、それでも、九平少年は「野球をやりたい」という、少年特有の遊びたい気持ちを胸に抱き続けていて、たったひとり、友達もいない閑散とした漁村のなかで、石ころを空に投げて、それを打ち続ける。そんな日々を過ごしている。大袈裟だけど、なんだか、いまの自分を重ね合わせてしまうのよ。

音楽を作るたびに、いわゆる才能ってやつが、自分にはないんだってことがまざまざとわかる。納得のいかない日々。力が及ばない日々。悔しさばかりがドボドボあふれて、もう、自分はなにをやっているのだろうかとか、思っちゃう。もちろん、自分で決めたこと、自分が『やりたいと思ってやっている』ことだから、誰にも文句は言えないし、文句を言いたいとも思わないけど、でも、やっぱり、自分を不甲斐なく感じる瞬間は、つらいものがある。

でもね、九平少年のことを思うと、ああ、自分は甘えていただけなんだなってわかるの。そして、また、それとは違う意味で「自分も、九平少年と同じなんだ」って、思うのよ。ボールを上にあげる。そして、思いきりバットを振る。見る人が見たら、なんて、無謀な努力を重ねているのだと、笑うこともできる。馬鹿にすることもできる。でも、九平少年は、バットを振ることをやめない。ボールを投げることをやめない。それは、彼が「いつかバットにボールが当たる瞬間」を、信じているからだと、あたしは、思うのよ。

なにかをやると、いろいろなことを、言われるのよ。毎日投稿なんて無駄だ。とか。もっと作り込んだ方がいい。とか。お前は音楽をなめている。とか。でね、自分に余裕があるときは「うるせー!」で済むけど、油断をしていると、自分が間違っているんじゃないだろうかって、自分を信じることができなくなるの。間違っているのは自分で、マイナスな考え方が行きすぎると、自分は音楽をやる資格のない人間なんだ、みたいなことを、思うのよ。

それでもね、九平少年のことを思い出すと、ああ、自分は間違っていないんだって、思うことができる。九平少年は、プロ野球選手になるために、バットを振っているんじゃない。バットを振ることが好きで、いつか「ボールに当たること」を信じて、野球をやっているんだ、って。あたしも、多分、似たようなもの。音楽をやることが好きで、いつか「ボールに当たること」を信じて、うまくいかないことばかりだけど、それでも『バットを振る』ことをやめられない、それだけなんだなって、自分を認めることができるのよ。

毎日、空振りの連続。罵倒されることの方が、圧倒的に多い。そんな日々だと「なんで自分は、こんなことをやっているのだろう」とか、考えちゃうのよ。木を植えた方が、よっぽど世の中のためになるんじゃないか、とか。ね。でも、それでも、どうしてあたしは音楽を作り続けることをやめないのだろう。その理由が、九平少年のエピソードの中に、あるような気がしたの。あたし、昨日、東京の日本橋でジビエ料理をご馳走になったのだけど、一緒にいたK様が「才能の有無を見分ける方法は簡単。才能があるひとは、どれだけそれを『やめとけ』って言われても、やめることができないひと。周囲がどれだけ止めても、それをやめることができなかったひと。それだけよ」って、話してくれた。あたしに、作曲の才能も、作詞の才能もないかもしれないけれど、それでも『やめない』才能なら、あるのかも、しれない。

九平少年が、いつの日か、バットにボールを当てる日がきたとしても、それでGDPが向上するわけでもないし、失業率がさがるわけでも、景気が上向きになるわけでもない。乱暴に言えば「誰の役にも立たない」スキルを彼は磨いているわけだけど、でも、あたし、思うの。もしも、九平少年が、いつの日かバットにボールを当てる日がきたら、それは、とんでもない『希望』を生み出しているのだと、思うのよ。少なくとも、あたしは、その出来事を、まるで自分のことのようによろこぶことができる。そして、よし、あたしも頑張ろう。あたしも、あたしなりに、バットを振り続けようって、勝手に励まされて、勝手に元気になると、思うのよ。人間が生きるということ、生きる力を伝えていくことって、きっと、こういうことだと、思うのよ。

だから、あたしは、思いました。無様でもいいのよ。不器用でもいいのよ。未熟でもいいのよ。愚かでもいいのよ。ヘタクソでも「それをやりたい!」と思うなら、やりたいことを、やりましょうよ。九平少年は、決して、誰かを元気付けるために、野球の練習を、していたわけではない。これは、当たり前の、こと。でもね、誰かがなにかに一生懸命に取り組むとき、たとえ、その姿がダサいものだとしても、必ず誰かを元気にしているのだと、必ず誰かの励ましにつながっているのだと、あたしは、信じていたいと思います。

じゃあ、またね。愛してるわ。バイバイ。

坂爪圭吾 keigosakatsume@gmail.com

【イベント情報】

4月28日(日)15時~16時@ごちゃまぜの家「定期演奏会」

5月4日(土)15時~17時@三重県志摩市「around.HANA」

5月5日(日)19時~21時@愛知県名古屋市「夜空と月のピアス」

非常にありがたいことにライブ出演のオファーをいただいたわ。うれしい。とってもうれしい。内容としては、みなさまとお話を楽しみながら、途中、四、五曲をお披露目させていただく感じになります。生けいごちゃんから放たれているエネルギーはそれなりのものがあるから、それに触れるだけでも参加の価値があると思うわ。あと、もし、こんなあたしと「イベントを開催したい!」なんて思ってくださる方がいたら、是非、お気軽にお声をかけてちょーだい。交通手段さえどうにかなれば、あたし、何処までも行くわよ。

西日本(および日本国民)のみなさま、kozotte、遊びに来てちょんまげ!!


バッチ来い人類!うおおおおお〜!