ムンクではないけれど…

ご時世がご時世でありまして、淡々と日々を生きています。でもそれかて悪くはないもんです、音楽においてだって、ドラマティックばかりがいつも善、ではないのですから…生活の中にも、きっとそのような性質がありましょう。


話は突然変わります。

一応このような職業をしていますから、「あなたにとって音楽とは何ですか。」という質問を幾度かされてきました。その都度、僕は曖昧な答えしかできず、辛酸を嘗めました(この表現は大袈裟でしょうか、えぇ、大袈裟だ)。辛酸はさておき、少し苦い思いはしたと思います。僕の曖昧な記憶によれば初めてこの質問を受けたのは高校生の時で、だからその、それはもう答えられっこないです、言語化がとても得意な子か、神童か、若しくは音楽をほんとうには愛していない場合でない限り。

などなどと、いった内容を、もともとはツイートしようと思いTwitterで書き始めたのですけれど、140字の世界には書けることと書ききれないことがありました。それでこちらへ逃げてきた。「帰る家」があるというのは、なかなかいいものではあります。

さあ、何だか分からないグダグダはこれでおしまい。ところで、答えが浮かんだのです。それは"浮かんだ"なのか、もしくは本当は1000年も前から知っていたことを単に思い出しただけなのか、知らないけれど。


ーーー「叫び」。である。叫びです、僕にとって音楽は。と言いたかったのです。なにもピアノを使ってガチャガチャ喚き立てるのではない。ではなくって、どうしても発せずにはいられない主張、"叫び"。
「心の叫び」という言い方があります。その際「叫び」という単語が持つ語感にはとても強い、いえ、もっと言えば"痛い"何かが宿っている。その感じ。それが、いやもちろんそれだけではないのだけど、でもやっぱりそれこそが、ピアノを長年弾いてきて、もう大部分の記憶は遠のいてしまったが、それでも自分の中にありありと残っている数少ない感覚のうちのひとつであり、今後もそれを弾いてゆく(弾いてゆかなければならない)、"わけ"の根幹であるらしいのです。曖昧な音楽という事象を取り巻く感覚の中で、しかし数少ない、いつでもありありと思い起こすことのできるもの。。。


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ピアノを始めたきっかけは母がピアノの先生を自宅でしていたからで、だから自分がピアノを知らなかった頃の記憶というのがありません。これはある意味では不幸ですしある意味ではやはり幸運なことだと思っています。イチローさんがかつて、野球をいつまでも追いかける理由を「最初に見た人がパパ、みたいな、そんな感じじゃないですかね。だって最初に見ちゃったんだもん。2歳なのか3歳なのか、覚えてないですけど」と仰っていたのに、何故だか鮮烈な印象を受けて、以来僕も同じように言うことにしています(おい)。

ところで子供の頃から思っているのだけれど、少なくとも不器用な人間にとって、世の中には生きやすい日と生きづらい日というのが混在しているようです。僕はやっぱりどちらかといえば、生きやすい日の方が好きです、だけれど、どうも経験によれば、ある一部の音楽は不思議なことに"生きづらい日"の方にこそ、より一層美しく輝き、素晴らしいらしいのです。

音楽の役割のひとつに、それが私たちに喜びや楽しみを与え生活を豊かにしてくれる、というものがあるとするならば、もうひとつには、どうしようもなく生きづらい時にもどうにか、音楽が、救ってくれる、という事がもちろんあるでしょう。音楽は優しい。僕は自分を取り巻く縁と運には本当に感謝しているのですが、素晴らしい作品と、先生と、演奏会場での体験と、しかもそれらとその都度必要な瞬間に(つまり多くは自分が弱った瞬間に)、これまで何度も巡り会うことが出来、そうした美しい瞬間の数々と、日々の地味な練習との行き来によって、音楽は長い年月をかけて、でも着実に、僕にとっては、なんというのか、どうしても「こうあってほしいもの」となってゆきました。
どうしても「よくあってほしい」。だって、(突然精神論的になるが)自分を救ってくれた 音楽 への恩を、仇で返すことなんて、できないじゃない。そして、(これがまた音楽の素晴らしい、いや困った、性質なのですが)それは他の手段ではやっぱり代替不可で、音でなくてはどうしても表せない、だから弾くこと関してはいつも、何よりもまず自分のために、どうしても意味があります。そしてまた、(これは何故なのだか今でも分からないのだけど)、演奏舞台に放り出された瞬間にしかどうしても言うことのできない表現というものが、あるのです。だから演奏会場でのコミュニケーションというのにも、やっぱりどうしても意味があります。

練習と演奏会の関係に於いて。演奏会が練習の到達点、つまり、日々の練習の積み上げの結果を最も発揮できる晴れ舞台としての演奏会、という関係性は比較的見えやすいけれど、一方でむしろ、年間のところどころに演奏会の日が散らばっていて、だからこそそのほかの日々がより輝いて見える、そんな関係性にどちらかといえば頼って僕は生きているような気がするもんで、やっぱり不器用だなぁとも思いますし、いい職業に巡り合えたな、とも思います。時々言わなければ死んでしまう、いや、もちろん死んではしまわないのだけれど、それでもやっぱり心は、躍動ある息遣いを失ってしまう。そのようなことって、ありましょう。。。


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さて、今世の中は大変なパンデミックの最中にあります。多くの音楽家にとってもこの事態は、物理的にも精神的にも苦しい。
物理的にというのはつまりもう、文字通り"金銭的に"苦しくなり得る、ということで、これに関しては、憎きコロナめ、と言っておきます。
精神の問題が、順序としてきっとその次にくるでしょう。音楽を奏でる場が突然無くなるということは、表現の場が突如無くなることで、音楽がその人にとっての"母国語"であればあるほど、それは尚苦しいのだと想像します。でも、こちらに関しては今のところ、僕はそれはそれでたまにはいいんじゃないかと楽観的に考えています。過去、時には心身を削って書かれた鬼気迫る偉大な音楽の数々の中には、自分の音楽を自由に届けることが叶わなかった、さらには許されなかった時代に書かれたものが多くある。それらの時代に、もちろん今の自分の生ぬるい生活を比べてしまうことなんて決しておこがましくてできないけれど、沈黙の日々の中で沸き起こる葛藤、みたいなものを、少し疑似体験してみるのもよいじゃない。芸術は、どうしてもそれを表現せずにはいられなかった天才達の衝動と、それを抑圧する力との闘争の歴史の中で"強さ"を獲得していった、そんな側面がある。「叫び」です。より強い叫びが、これから先の日々で得られる可能性があるのなら、時には少しくらい苦しくたってよい。それは表現者の負うべき責任の一つでしょう。
てなあたりで、はい。あぁ、いつも書き終えることには一苦労だ、携帯電話で文字を打つことも苦手だし、でもコロナという情勢に主題がたまたまハマり、ひとまず無事には締まったのぅ。


おまけ:
何かと"速い"結果思考を多く必要とされる現代ですが、人間のとある性質に関するとても興味深い記事を最近見つけたので、最後に置いておきます。「ネイティブ・ケイパビリティ」について。アーティストは特に、常にこの視点とは無縁でいられないのでしょう。
https://wired.jp/2020/03/19/negative-capability/

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