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橋爪大三郎批判           -「社会学」の観念論性の一例

1、はじめに

 旧聞で恐縮ですが、「News Picks」というメディアにおいて「現代人が『よく生きる』ための宗教講義」(2020年11月13日)という記事があがっています。「日本を代表する社会学者」との紹介で橋爪大三郎という人物が宗教について語っているものです。事実この人物、『ふしぎなキリスト教』(講談社現代新書、2011年)という「キリスト教のすべてがわかる決定版入門書(新書一冊程度で巨大な歴史現象であるキリスト教の「すべてがわかる」などと銘打てる出版社の見識をまず疑うが...)」で20万部以上売り上げていたりと、宗教に関する講壇学者の代表格と見做されているようです。また、上のメディア自体、現代のビジネスマンをはじめとした進歩的「知識人」に多く読まれており、その影響は無視できないほどです。実際、この種の記事を読んで、宗教について分かったような気になっている日本人は少なくありません。

 最近もまた、安倍何某の件で「統一教会」という宗教組織が連日話題になっていますが、それを取り巻くメディア等々で「論者」や「有識者」を観察していると、誰一人として宗教が何たるか、その本質において捉えている人はいないと思わされるほどです。「宗教は害悪だ!」と叫ぶだけでは宗教はなくなりませんし、ましてや法律によって規制すれば宗教現象がなくなると思うなど浅薄も甚だしいと言えます。その程度で取り除けるのであれば、人類の歴史上、あらゆる時代において様々に異なった条件下で生きている様々な人間たちが、それぞれの仕方で宗教にしがみ続けてきたことの説明がつきません。宗教現象というのは、その論者たちでは想像も出来ないほどに極めて複雑多岐な歴史現象なのですから。

 しかし、彼らがその程度の宗教理解を晒すのも、根本には橋爪大三郎ら、宗教についての極めて狭小な部分的真理を我が物顔で語るイデオローグ〔観念論者〕が原因にあると見るべきでしょう。観念論者が「宗教」という観念において極めて一面的な側面を固定し、歪めて反映し、それを振りまく図がここに典型的に現れています。そして、それが「世論」というイデオロギーを作り出す一つの機能として働く、観念論の悪影響がここに出ています。

 従って、今回は橋爪大三郎の宗教理解を取り上げて観念論批判の素材の一つにしていきます。

2、宗教の意義と限界

 まず橋爪は宗教の特徴として「人間が経験できないこと(超越的なこと)も、必要ならば議論として取り込んでいく点にある」と書き、そのすぐ後に続けて、「経験的な領域に議論を限定する社会科学とは対極的」だと述べます。そもそも、人間の現象を「経験的なこと」と「超越的なこと」に二元的に分けて考え、どちらかに「限定」できるなどと思っている「社会科学」が浅薄なのですが、それはまた後で論ずるとして、宗教の特徴を上記のように規定することで、氏の一面性が露呈しています。

 宗教というのは、超越的なことを「必要ならば」議論として取り込んでいく、といった甘いものではありません。それはむしろ、徹底的に、あらゆる場面で執拗に、現実の事柄を観念的な仕方で吸い上げていく営みです。事実、その徹底性が高ければ高いほど、「偉大な」宗教として現実に影響を与えていきます。たとえばキリスト教においてその役割を果たしたのが、パウロです。

「イエスの死後、彼をキリスト(メシア)として神格化し、その『神の子キリスト』が復活したという神話的表象をめぐって築き上げられた信仰体系が原始キリスト教という実態である。当然のことながら、復活したのはイエスではなく、信者の頭の中で神の子キリストの復活が生起しただけである。そういうことだから、原始キリスト教はその出発の当初から、およそ観念的な救済宗教として性格づけられていった。そしてその観念性をこの上もなく徹底的に追求したのがパウロという男だったのだ」。

(田川建三『批判的主体の形成』増補改訂版、洋泉社MC新書、2009年、99頁)

 新約聖書学者の田川建三によると、パウロ思想というものがいかに徹底した観念性を主張しているか、次の一文に表れているといいます。

「女を持つ者は持たない者のように、泣く者は泣かない者のように、喜ぶ者は喜ばない者のように、買う者は所有しない者のように、此の世を利用する者は利用しない者のようにあるがよい。何故なら、此の世の形は過ぎ去るからである」。

(第一コリントス 7章29節以下)

 ここでは「此の世」すなわち、現実との関わりにおいて、所有することが否定されています(古代社会では妻も所有の対象だった)。また、現実に生じる苦しみや楽しみによって泣くことも、喜ぶことも否定されています。しかしこれは、近代の共産主義思想のように、現実の社会的経済的な、複雑に絡み合った関係から「所有」を放棄して皆平等になろう、というのではありません。また本気になって、泣くことの原因である「苦しみ」や「差別」(本来肯定的な「喜び」までも否定しようというところにパウロの徹底っぷりがうかがえます)等々を現実の社会から根本的に取り除こうとするわけでもありません。もしそういうことをしようとすれば、現実の社会関係全体と闘わなければならなくなります。そのようなことは古代でも現代でも徹底しようと思えばすぐに大きな壁にぶつからざるを得ません。

 そこでパウロは「現実の否定を、本当に現実的に実行するのではなく、観念の領域においてのみ実行する」(同上、101頁)。
 つまり、この宗教思想においては、現実に存在する一切の事柄、現実に生ずるあらゆる局面に対して、それがないかの「ように」振る舞えば、現実の問題は全て解決される、と主張されます。「此の世の形は過ぎ去る」すなわち、一切の現実はいずれなくなることを根拠に、現に目の前の構造的な問題は放置され、現実は何一つ変わらないけれど、この思想にすがれば、日常生活上の苦しみや矛盾から解放されたように思える。死の恐怖からも自由になった気分になれる。そして、このように観念の領域で現実の問題を「解決」したパウロは、奴隷制という極端に人間性を収奪していく現実を露骨に肯定していくのです。

「招かれた時〔クリスチャンになった時〕に奴隷であったとしても、気にすることはない。たとえ自由になることが可能であっても、むしろ用いるがよい〔奴隷であるということをそのまま保っているがよい〕。何故なら、主において招かれた奴隷は、主の解放された者なのだ」(〔〕内については田川建三訳著『新約聖書 訳と註 <三>パウロ書簡 その一』作品社、2007年、283頁以下参照)。

(第一コリントス 7章21節以下)

 これは一つの顕著な例ですが、このようにして、現実の極めて複雑な実態を観念の領域に移しかえ、そこでの議論に終始してしまう強い傾向をもつのが宗教の根本的な特徴の一つです。そして、こう整理した時に、宗教の意義と限界が見えてきます。

 それは一方では、以上の例からも分かるように、宗教の出発点は現実の苦しみや矛盾を反映しているところにあるということです。そういう現実に対して、何かをしなければいけないという問題意識を持つことに、一応の正しさがあります。
 しかし他方で、それが宗教信仰である限り、その反映の仕方は何ほどか観念性の中に歪められてしまい、出発点であった変えるべき現実に戻ることなく、現実の変革という課題は彼らにとって忘れ去られてしまいます。そして、それ故に結果として、宗教が現実をずぶずぶに肯定する機構として働くことになるのです。つまり、正しさを含んでいた出発点は消し飛び、かえって現実の苦しみや矛盾を温存する役割を担ってしまう。

 このように、宗教の意義と限界の両面を正確に捉えることをしていない橋爪の意識は次のような発言に表れます。曰く「宗教は『人間が死んだらどうなるか』について、先人たちが考え抜いた蓄積が反映されている」。問題は、それが「反映されているかどうか」ではなくて、「どのように反映されているか」、ということにこそあるのです。上で展開した議論に無批判であるからこそ、橋爪は「死について正面から考えてきた宗教は、これまで生きた人びとから、今を生きる人々へのプレゼント」などと言いますが、これに至っては笑止です。「死」という観念を宗教思想がどのように扱って議論を展開していくか、またそれによって振りまく害には一切無頓着であるから、宗教思想が語る「死」についての知識を表面的に知ることだけで満足し、それを「プレゼント」などと呼んで済ましていられるのです。その「プレゼント」がいかに現実を歪め、人間を抑圧してきたか、それら一つ一つの歴史的実態を認識していれば、そんな軽々しい発言は出てきません。

 しかし、この浅薄な宗教理解は橋爪個人の問題ではなく、いわゆる「社会学」の方法自体にその真因があります。以下、それを見ていきましょう。

3、社会科学の方法上の欠陥

 経験的な領域に議論を限定する「社会科学」が一面的であるということは、その歴史認識の方法を見れば如実に分かります。

 橋爪は多くの日本人が「宗教なんかどうでもいい」と思っていると断定した上で、その理由を次の論理で説明します。「本来、宗教というのは人々の間に調和や安定、団結を作り出すものである。しかし、その『団結』によって、時の政治があまりにもひどいと、反政府運動を引き起こす。日本は戦国時代に一向一揆などでそれが起こり、この流れを受けて為政者は仏教の腐敗・堕落キャンペーンを広めた。だから以後、現代に至るまで日本では宗教の地位は低いままである」と。

 ここには二重の誤まりが存在します。

 まず、反政府運動が起きたから仏教は弾圧を受け、だから日本では宗教の地位が低いのだ、と単純な因果関係で歴史を説明してくれますが、こういう「社会科学的」説明は、人間の営みの総和としての歴史を世界史的な規模で類比的に捉えることをしない、無知にすぎません。「仏教」の弾圧を直接「宗教」の地位の低さに繋げる論理的飛躍には目をつぶるとして、こういった種の弾圧というのは、ことをキリスト教世界に限っても、2~3世紀のローマ帝国による原始キリスト教への弾圧、16世紀ドイツの農民運動に対する諸侯の弾圧等々、キリスト教ヨーロッパにおいても歴史上いくつも起っているわけです。にも関わらず、ヨーロッパでは「宗教の地位は高い」。上の論理ではこの事の説明がつきません。両者の歴史上で類比的に捉えうる弾圧がある時に、一方で日本では宗教の地位が低く、他方でヨーロッパでは正反対になっているのは「何故」か、というこの問いを説明することから全体的な認識に進むところです。しかし橋爪が行っているのは、歴史の中から一方だけ説明できそうな事実を持ってきて、「AだからB」と言っているに過ぎません。

 このように「経験的な領域に議論を限定」してしまう「社会科学」は、所与の事柄について、その新聞記事的な意味での「客観的」な事実を組み合わせることで事足れりとします。従って、それでは人間の営みの全体的な総和である歴史現象を時代や場所を超えて類比的に全面的に捉える問題意識には到達できず、歴史の一面、しかもごく皮相の一面において分かったつもりになり、その一面があたかも全体的な真理かのように説明されます。しかし、部分的な真実に過ぎないものを全体的真理かのように振り回すのは虚偽でしかありません。それは現実を正しく認識することを妨げます。

 また、そのような「社会科学」の姿勢は「宗教というのは人々の間に調和や安定、団結をつくり出すものなのです」という断定にも出ています。たしかに、宗教教団なり宗教的組織は表立っては調和や安定、団結を強調するでしょう。しかし、その人が自分たちをどう表現しているかということと、その人が実際にどうあるか、どうなっているかはしばしば異なるので、その「調和」や「安定」、「団結」といった観念が、上のパウロの例のように、個々の歴史の場において、どのように働き、どう作用しているかを見ていく必要があります。そして、それを見ていれば、様々な歴史的な条件や状況によって、同じ宗教現象でも多種多様なひろがりを持つものなので、宗教という歴史現象をいくつかの観念に直対応させて結び付け、それを前提するなどという初歩的な間違いは犯さないはずです。

 実は、この歴史認識の基本の一つは、マルクスがすでに述べていることです。「日常生活ではどんな商人でも、ある人が自称するところとその人が実際にあるところとを区別することを非常によく心得ているのに、われわれドイツ人の歴史記述はまだこのありふれた認識にも達していない。それは、それぞれの時代が自分自身について語り想像するところのものを、言葉通りに信じているのである」(古在訳『ドイツ・イデオロギー』岩波文庫、72頁)。これはマルクスが当時のドイツの観念論者たちに言っていることですが、それから100年以上たった現代の「日本を代表する社会学者」さんにも当てはまってしまっています。

4、観念論批判の前提としての宗教批判

 ここまでのことをまとめると、橋爪の「社会科学」は歴史認識の基本的な方法が欠落して、個々の現象を個々の観念とのみ一対一に対応させて考えることしか知らないから、一方では歴史の現象も、他方では観念の領域の様々な動きも、認識することが出来ません。

 だから氏は、仏教やキリスト教などの宗教を表看板に掲げている、狭い意味での「宗教」しか宗教現象として捉えられず、「現代に至るまで日本では宗教の地位は低いまま」などと言って平然としていられるのです。
 しかし、最近話題の「統一教会」と自民党の癒着を例に出すまでもなく、創価学会と公明党、霊友会、本願寺両派等々、日本の権力中枢に密接に絡みついている宗教団体というのは調べればいくらでも出てくるので、その時点で事実誤認ですが、この認識では、狭義の「宗教」以外の宗教的現象に対して批判的〔註・非難ではない〕に切り込んでいくことが出来ません。ここに、この種の宗教理解の危険性があります。

 つまり、そのような広義の宗教的現象を批判的に切開し得ない姿勢は、一方で「社会科学」的に物事の一面を分かったつもりになって、他方でそれでは説明しきれない部分を宗教に求めて「宗教を知ることは、人生の質を高め、よりよく生きるための手がかりになるでしょう」などと教会の説教家のような発言をしてしまう。これでは宗教を温存することにしかなりません。断っておきますが、ここで私は宗教が悪だと言っているのではないということです。前半で論じたように、宗教という現象が社会にもたらす好い側面もあるので、それを無視して宗教を無くそうと言っても無意味です。しかし、そこからよほど注意していなければ、その好い側面が同時に社会に悪い影響を与えてしまう、というのが宗教の持つ特徴でした。

 従って、我々が行うべきは、この好い面を十分に継承していきながら、意識的に宗教的現象が陥る悪い影響を克服していくことにあるはずです。そしてそれは、我々を取り囲む歴史的社会的現象において、複雑に絡み合った現実と観念の関係を、統一的に捉えていくことで可能になるので、現実と観念を固定して一面的に見ることしかしない「社会科学」のように、一方で「科学的説明」を、他方で「宗教的真理」を両手に花で、都合のよい時にそれを出したり引っ込めたりするのでは、肝心の現実の総体にはいつまでも切り込めず、結局のところ、宗教を真に克服することにはなりません。何故なら、それでは人間の歴史社会において宗教という現象がどう働くか、ということの極めて一面的な知識を単なる知識として手にすることにしか、原理的に出来ないからです。

 実に、このように「社会学者」や「宗教学者」などと称される人々が宗教に無関心な層に対して行う「宗教には科学では説明できない何か人生の奥深い真理が隠されていますよ」といった形での呼びかけ、宣伝文句は、戦後、日本の知識人たちによって幾度となく主張されてきました。しかしそれは所詮、上で見てきたような意味で観念論の裏返しとしての宗教意識でしかなく、これも又極めて典型的な観念論的認識です。従って、そのような仕方で宗教に対する関心が高まったとしても、何故人間はこれほど長く宗教を営み続けているのか、その意義と限界を正確に捉えてそれを克服していく運動などにはならず、一時の宗教ブームに終わります。

 このような宗教ブームが度々起こるという事実が、無自覚的な観念論者が知的大衆の大部分を占めるということの反映ではないでしょうか。つまり、一度立ち止まって考えてみると、「宗教現象」といえども「政治現象」や「経済現象」などと同じく、広い意味での社会的な現象の一つであり、そのどれもが人間が歴史的に営んできた営み以上でも以下でもないのです。にもかかわらず、現代的知識人、特にブルジョワ学者たちにとっては、政治現象や経済現象などは「科学的」に分析し得るのに(註。彼ら自身はそう思っているものの、この「科学」理念自体が矮小な為に、その分析も観念論的で一面的であることは、マルクスのブルジョワ経済学批判を挙げるまでもないでしょう)、宗教現象は何だか古臭くて迷信的で「科学的」に捉えられない。だから彼らは宗教現象だけは特別に「科学」と対立するものとして抱え込んでしまう。

 しかし、そのように統一的に捉えられないのは事柄の性質の違いが主因なのではなく、彼らの「科学的」な認識それ自体が観念論的であることが問題だと言えます。実際、宗教現象というのは、他の歴史的社会的な人間の営みに比べて実に顕著に、現実を歪めた形で観念に反映していくものなので、どれだけ観念論を自覚的に克服しているかがその認識の深さを決定的に左右していきます。観念論に無自覚である彼らには、自分の認識が一面的であるかどうかも反省的に捉えることが出来ないのです。
 もちろん実際には個々の現象をこれは宗教現象、これは経済現象、などというように割り切れるほど歴史は単純ではなく、それらが何重にも重なって現象したりするわけですが、原則として、宗教批判をどれだけ徹底出来ているかということが、あらゆる歴史現象を統一的な歴史認識の方法において貫けているか、他の社会的現象に対してどれだけ観念論を克服し得るか、ということの一つの指標になるはずです。

 そう捉え返した時に「宗教批判はあらゆる批判の前提である」と言われる所以が分かります。しかし、橋爪社会学の宗教理解の水準から推察するに、少なくとも日本ではまだ、宗教批判は実践的にも本質的にも終っていないと言わざるを得ません。

 このように整理してみることで、現代の日本において我々が宗教批判を展開していくことの意味が、少しは明らかになったのではないでしょうか。

2022年7月27日
  東谷 啓吾
(この文章は、哲学者・牧野紀之氏のブログに初出した以下の文章の再掲です。)


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