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田中絹代監督の『乳房よ永遠なれ(1955)』が怖かった。

監督がレジェンド級映画女優である田中絹代さんであったので(プライムビデオで)観てみた。今作は乳がんにより31歳の生涯を閉じた歌人の中城ふみ子のお話であり。作中に短歌がでてくるのは中城ふみ子の作である。

女性の本能が剥き出しになったようなスゴい作品であった。なにも知らないで観たりなんかしたら大変なので、少し観る参考になるようなことを書いてみたいと思う。

●崖っぷちの夫婦関係

「えーっ田中絹代って映画監督もやってたんだ」という興味本位で観はじめたが、すぐに背筋を伸ばして見る姿勢となった。なにしろ、いきなり幼子供2人のいる夫婦であるが、夫はひどく不機嫌なのである。
以下は出かけようとする夫に妻が声をかけるシーンである。

不機嫌な夫とふみ子

ふみ子「どこいらっしゃるの?」
夫「俺はいちいち君に行き先を言わなくちゃならないかね」
着替える夫。
夫「もう(私たち夫婦は)お終いだな。違うか?ブローカー崩れの亭主が」
ふみ子「だって、今の世の中で一位にお金儲けしようなんてなかなか」
夫「(呆れるように)はっ、僕もついに君に意見されるようになったか、ははっ(吐き捨てるように笑う)」

この世の地獄のような最悪の空気である。その場にいれば毒を吸うように心が壊れてしまいかねない(幸い子供たちは外出中であった)。
以下はwikiの中城ふみ子の引用である。

戦後活躍した代表的な女性歌人の一人で、寺山修司とともに現代短歌の出発点であると言われている。

1954年(昭和29年)の中城ふみ子の全国歌壇デビューは、短歌史上のひとつの事件となった。そして現代短歌史はその中城ふみ子の登場という事件をきっかけとして、大きく転換していくことになる。

4月10日頃に発行された「短歌研究」1954年4月号冒頭に掲載されたことによって全国歌壇にデビューした。デビュー時点で乳がん治療のため札幌医科大学附属病院に入院中であったふみ子は、同年8月3日に亡くなるので、全国歌壇を舞台に活躍できたのはわずか4カ月たらずのことであった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/中城ふみ子

●本のタイトルが映画のタイトルに

この作品は「当時はやった泣かせる難病もの(健気なヒロインが難病になり、がんばって生きるが最後は亡くなり、観る者は涙してしまう作品)ではないだろうか」と思った私であるが、(観てない人には)観る前に言っておきたい「これはそんな、お涙ちょうだい的な作品なんかではない」と。

作中では大月(左)で出てきます。

『乳房よ永遠なれ』というタイトルから少しギョッとした人の多いのでは。
当時病院に入院していた中城ふみ子を新聞記者の若月(映画では大月)という男が取材して、病室で肉体関係を持ったということを本に書いて出版した。その本のタイトルが『乳房よ永遠なれ』だったのである。
当時23歳の若月は背が高く美男子であったらしい。時事新報の学芸担当の記者で中城ふみ子の才能に惚れ込んでいたようではあるが、だからって病室で関係を持つのは現代でもかなりセンセーショナルであろう。

●胸中に決して満たされぬことのない黒い空洞を持っていること

母とふみ子と堀の奥さんと

当時「短歌研究」という短歌雑誌で短歌を募集していた。そこに保守化、伝統重視の世界に留まり、動こうとしない歌壇の現状に怒りを深めていた中井英夫がいました。彼が中城ふみ子の作品を発掘したのでした。

中井は東京大学中退後、日本短歌社に入社して短歌雑誌の編集に携わっていた。中井の怒りの矛先はまず、平明な生活詠を良しとしている歌壇本流のあり方そのものに向けられた。平明な生活詠が良い短歌であるのならば、良き歌人とは健康的な常識人となる。「裡に深い暗黒の井戸を持たず、何を創ろうというのだろう……精神の無頼性をつゆ持つことなく、小心な身仕舞いのいい人格者が、何を人に語ろうというのか」中井は短歌の現状は文学の名に悖るものであると感じていた。

中井は優れた撰者の条件とは、胸中に決して満たされぬことのない黒い空洞を持っていることのみとの信念を持っていた。中井は、五十首応募を通じてまず中城ふみ子、そしてふみ子に続く寺山修司と、短歌史を揺るがし、現代短歌の起点ともなる逸材を発掘することになる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/中城ふみこ

現在ではズレているのを承知で言えば私は、
「わざわざ作品を作って発表するような人はどこかぶっ壊れている(決してわるい意味でなく)のかもしれない」と思うことがある。なにか言いたいことがあるから作るのであれば、現状に満足している人はわざわざ作ろうとは思わないのではなかろうか。
中城ふみ子はまるで自ら捨て身でぶつかっていって、短歌を作るネタをもぎ取って生きているように見える、彼女にとっていい作品を生み出すためなら、過酷も悲惨もいとわないように見える。

堀とふみ子

作中でふみ子が短歌を発表する集まりの堀さんの家を訪ねるシーンがある。
堀さんはふみ子にとって憧れの男性であるが、同じように短歌を志す奥さんもいるし、その奥さんとふみ子も友人なのであった。

バス停へ向かい歩いてるふみ子と堀。
ふみ子「ねえ堀さん、私が歌の集まりに出て行くのは、あなたがいらっしゃるからだって申し上げたら、どうなさって」
堀「(黙って歩く)」
ふみ子「ごめんなさい、私ってわがままね、だから主人にも嫌われたの」

胸の内にしまっておいて言わなければよいようなことを、あえて言ってしまうふみ子である。きっと自分の言いたいことを我慢して、相手に合わせて生きることができないのである。

●『乳房よ永遠なれ』を監督3本目の作品として選んだ田中絹代

『月は上りぬ(1955)』も(プライムビデオで)観たが、脚本も撮影も編集も演技も本当によくできていた。こちらは「お姉様があの素敵な男性と結婚したらどんなにか素敵でしょう」という少女漫画のようなお話であり。多くの男性が求める女性像、下品な言い方をすると男好みの女性像であり、多くの人が感情移入できる作品ではないかと思った。その次の作品が今作『乳房よ永遠なれ』であった。

田中絹代はこれまで監督として2本の映画『恋文』『月は上りぬ』を撮っていたが、田中絹代本人が映画化を決めたわけではなく、完成した映画も脚本を手掛けた成瀬巳喜男、小津安二郎の影響が強いものであった。しかし3本目の作品として選んだ「乳房よ永遠なれ」は、監督は田中絹代、脚本も田中澄江、そして主人公は当然、中城ふみ子(映画では下城ふみ子)と、女性が女性を撮るという当時としては画期的な映画として制作が始まった。

「乳房よ永遠なれ」の映画化について、田中絹代監督としては当時の日本映画では他にほとんど居なかった女性監督として自立を目指す意気込みとともに、「女の立場から女を描いてみたい」との思いがあった。

映画の中では、当時妻もの、母ものと言われた映画のように、自らを犠牲にして子どものために尽くし、夫からの冷たい扱いに耐え続ける女性像、いわば受動的な女性像も描かれてはいる。しかし映画の主題は積極的に男を求める、誰かのためにではなく自分のために生きようとするふみ子の姿であった。

監督の田中絹代は、これまで俳優として男性社会の中で生き、死んでいく役を演じ続け、そのような中で一種の男性不信を抱くようになっていた。「女の立場から女を描いてみたい」との田中絹代の願いは、映画「乳房よ永遠なれ」において、主体的に性を楽しむ、自分のために生きる女性像として結実した。日本映画におけるこのような女性像は、「乳房よ永遠なれ」のふみ子が初めての例であった。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/乳房よ永遠なれ_(映画)

田中絹代監督は映画を作ってみたら問題作になったのではなくて、あえてそういう映画を作ろうと思って作ったのであった。それで興行成績はどうなったかと言えば以下である。

封切された週は東京都内でトップの観客動員となり、地元にあたる札幌では通常1万5千人程度である観客動員数が6万を記録するなど、映画は興行的に成功を収めた。当時の映画の専門誌評にも、「ここに、はじめて日本にも女流監督の作った作品が現れたといって良い」との評がなされ、キネマ旬報の1955年ベストテン投票では16位となった。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/乳房よ永遠なれ_(映画)

ふみ子が胸に違和感を感じるシーン、大事な人に会うために着替えるシーンは男性監督であればこうは撮らなかったかもしれないと思ったりした。特にふみ子が友人の家のお風呂に入っているシーンは驚愕と言うか、私の中では「ギャーーーッ」と悲鳴があがったくらい剥き出しで怖かった(素晴らしかった)。

この後私は、女優の田中絹代作品を見たくなってベルリン国際映画祭最優秀女優賞 を受賞した『サンダカン八番娼館 望郷(1974)』(プライムビデオで)を見たが、また違う意味で「ギャーーーッ」と私の中で悲鳴があがった。これは演じているのではなくてその人として作品の中に存在しているのではないだろうか。これは女優だけでなく監督も経て到達した境地ではなかろうか。これもこれであまり見たことがない存在感で怖かった(素晴らしかった)。


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