広報という仕事の機能は、30数年間でこんなに変遷してきた
経営広報の秘訣と並行して、シリーズ経営広報への道をスタートさせます。
これは、30数年の広報人生において、まるで鍾乳石のようにジワジワと育んできた「経営広報」という考え方に至るプロセス、試行錯誤、紆余曲折、裏話などを描こう、というものです。
広報には時期によって、旬のテーマや機能がありました。その変遷をキーワードで綴ると、ざっくりこんな感じです。一つひとつ、見ていきましょう。
80年代後半~90年代初頭 —— 企業文化!社会貢献!
私が広報を始めた1986年から10年くらいの期間を広報の立場から眺めると、いくつか特徴的なキーワードが見つかります。企業イメージ、企業文化、パブリック・リレーションズ、企業の社会的責任、コーポレート・アイデンティティ、フィランソロピー、メセナ…。
すなわち、企業がきちんと社会と向き合うことを要望され始めた時代。広報が企業の個性とか「らしさ」をアピールする開かれた窓の役割を担いはじめたともいえます。企業が「ちゃんとしている」ことを「らしさ」に乗せて能動的にアピールする、という流れだったように感じています。
すなわち、それまでの広報が商品やサービスを売るためのバックアップ機能だったのに対し、広報が世の中に対して訴求すべき素材が「商品・サービス」から「企業そのもの」に大きく舵を切った、ということです。
しかしながら、その当時多くの企業が発信した(私も発信した)メッセージは、ビジネスのリアリティから少し離れた位置に「企業」というまったく別の概念が浮遊しているかのような、フワフワした感じがします。
この当時はまだまだ、企業がいかにしてその社会的責任を果たしていくのかという命題において、今日ほど明確な指針はなく、手探りが始まったばかりだったのかもしれません。
90年代後半 —— IRの登場
今でこそ当たり前のIRという機能が登場したのがこの頃でした。マスコミさんに加えてアナリスト(という人たち)からの取材が増えはじめ、「いったい何ごとだ?」と、新鮮な驚きを覚えたものです。
90年代後半と言えば、バブル崩壊以降の時期です。証券会社や銀行などの金融機関が次々と破綻し、国有化され、日本版ビッグバンのもとでいよいよ金融システム改革に着手された時期でした。
それと呼応して、IRが登場したことは、日本の株式市場の透明性を高めるとともに、株主・投資家重視の姿勢を明確化するという趣旨において、ある意味で必然だったのでしょう。
ちなみにIRの定義を『日本大百科全書』の記載から引用すると、次のようにあります。
「株主の裾野を広げるために、会社の素顔をよく知ってもらおうとする戦略的な広報活動のこと。——中略—— 企業価値に対する投資家、市場関係者の信頼を得て、望ましい株価形成や資金調達の円滑化をはかるほか、リスクマネジメントという面もある」
ここで「戦略的な広報活動」と言い切っているのが印象的ですね。
2000年代 ① —— インターネット革命
2000年代の最大のテーマは、間違いなくインターネットの登場でしょう。経済社会の何から何まで革命的に変えてしまったのです。広報に及ぼした影響を切り取って考察すること自体、あえて不要と感じるくらいです。
インターネットによって、広報周辺のハウ・ツー探求は一気に加速しました。ホームページのコンテンツが充実していることは当たり前、メディアを介さず自社媒体で情報発信ができる、消費者との間で直接、しかも双方向のコミュニケーションが取れる、近時ではSNSを通じた発信情報の影響力が大きくなる…。
一方で、ぼんやりとですが、えも言えぬ違和感が私の中で”発芽”し始めたのもこの頃でした。アウトプットのハウ・ツーやテクニックの加速によって、本質が置いてけぼりになりやしないか、という違和感です。そしてこの違和感こそ、のちに私の「経営広報」の原点となります。
2000年代 ② —— 企業ブランドって何?
2000年代のもうひとつのテーマは、企業ブランドです。ブランドマネジメントに華が咲いた時期でした。
ブランドという言葉は、日常的にもずっと前からありました。それは「ブランド品」という言葉に象徴されるように、どちらかというと高級品の言い換えのような用語、あるいはロゴとかラベルとかの”印”。ブランドはもともと焼き印が語源ですから、それはそれで正しいのですね。
それが、そうしたプロダクトやサービスだけでなく、いよいよ企業にもブランドという”ものさし”があてがわれるようになったわけです。
企業ブランドブームがこの時期だったのには、必然的な背景があるのではないかと思います。日本経済にとってインターネット革命によるITバブルの一瞬の煌めきを「光」とするならば、それを呑みこむかのような長い「影」がありました。「失われた10年」です。
そして失われたのは企業の自信でもありました。自分たちは何者なのかという存在価値の見直しを模索する日本企業は、その拠り所として、米国企業が導入していたブランディングのメソッドを積極的に採用しました。
かく言う私も、広報室と兼務でブランドマネジメント室も担っていました。
2010年代~20年代初頭 —— 危機管理広報
2010年代から今現在に至るまで、この時期を象徴する広報の最重要テーマが危機管理広報であることに、おそらく異論はないでしょう。
この危機管理広報という機能は、何もこの時に始まったものではありません。しかしこの時期にクローズアップされたのは、経営環境の変化が大きいく影響しています。
そのひとつは、コンプライアンスの領域の拡張でしょう。法令を遵守すること当然であり、コンプライアンスはそこからさらに社会的規範、倫理観、道徳観にまで及ぶようになりました。
もうひとつは、そうしたコンプライアンスに対する監視の眼が圧倒的に厳しさとスピードを増したことです。そう、ソーシャルメディアの普及によって、企業活動は衆人環視のもとにある、という状態になりました。
謝罪会見のシーンをたくさん見ますね。広報としては学びが多いです。見事な切り盛りで逆に評価される会社、一方で残念ながら炎上してしまう会社、悲喜こもごも。私も「模擬記者会見」をセットしたこともあります。
ただ忘れてならないのは、謝罪会見の巧拙以前に、そもそもの企業姿勢が厳しく問われるようになった、ということです。
では広報の本質は何だろう?
常に向き合ってきました、この命題。試行錯誤やTry & Errorを繰り返し、「もう少しで手が届きそうだ」と粘り、這いつくばってやってきました。
次回の【経営広報への道】では、そうして見えてきた「ドーナツ化現象」についてお話しする予定です。
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