幸福論を書いてみようと思った

物理学を学んでいた時期があった。趣味なので、相対性理論や量子力学とは不思議なこともあるものだ、といくつかの書籍や動画で見ていたぐらい。そんなとき、ふと幸福の方程式というものが書けないのかと思い立った。アインシュタインはホテルのメモに「静かで質素な生活は、絶え間ない不安に縛られた成功の追求よりも多くの喜びをもたらす」と書いたらしいが、自分ならどうなるか。
書き始めて数分、「健康」「笑顔」「エンタメ(映画、書物、漫画、アニメ)」「運動」「社会貢献」「友人関係」「恋愛」・・・どこかで見たキーワードが羅列され、加算したり乗算したり。やはり積分も重要よな、などとなんか思い立ったり。そのなんとなく作られた方程式に、もはや他人事感しか生まれない虚無を覚えた。

そこから一年ほど。いくつか書籍を読み漁って、最近手にしたのがアランの『幸福論』。幸福論という名称に、幸福をこねくり回そうという哲学界隈独特の意地を感じていたのだけど、読んでみるとちょっと違った。そこにはただ「こうあったらよいのに」を当時の時代背景とともに書き連ねたエッセイがあるのみ。

幸福とはなにかを描く手法として、こういった方法があるんだなとしっくりきてから、自分なりの幸福論を書いたらどうなるか、ウズウズしていた。書き続けられるか、もしくは途中で飽きるか、途中で考えが変わるか、それは定かではないにせよ書いてみたい。

幸福論とは、思想であり、姿勢であると思う。自分を具体的に変えていくのは難しいのだけど、どうありたいかに近づく姿勢を自分で取ることはできるもの。その姿勢をもって生きていけたら、自分なりの幸福論ができあがるのではないかと思う。哲学の行き着く先は、自分なりの幸福論を描くこと。それが自分とは何かの答えで、人生の意味の過程となる。

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