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「@@すぎる」

数年前にインスタを始めた。それまではFacebookしかやったことがなく、しかも「友達」としかやっていないため、たとえ「友達の友達」であっても基本的には類似思考の範囲であった。

一方、インスタは公開範囲を決めていないため、私が閲覧する相手も不特定多数となった。

その結果、気になって気になって仕方がないことが発生した。「@@すぎる」である。昭和視点からの単なるジェネレーションギャップなのであろうが、どうにもこうにも気になりっぱなしである。

かつて同じように気になった言葉がある。それは「@@でよろしかったでしょうか」。若いスタッフが多いファストフード店の「ポテトはSでよろしかったでしょうか」のみならず老舗デパートでも「タオルは赤のお色でよろしかったでしょうか」といちいち丁寧に念押しされる。

「よろしかったでしょうか」が切り出されるのは、レジの段階だ。ポテトもタオルもまだ私のものではない。今まさにお金を払い、所有権が店から私へと移動する渦中だ。つまりその行為は現在進行中だ。

それにも関わらず「よろしかっったでしょうか」と過去形で聞かれると、まるで「MではなくS」「ベージュではなく赤」と決断を下した私の行為が誤っていないか、再考した方が良いのではないか、と確認されているようだ。

本来、レジで行うSと赤の確認は、今、目の前にあるこれらの物が、客が下した決断内容と合致しているかどうかの確認なので、「よろしかったでしょうか」の過去形ではなく「よろしいでしょうか」の現在形になるはずだ。

もう一つ、うっかりムッとした態度にならないよう気をつけている言葉がある。「@@していきますね」。これにおいては美容院の洗髪台に始まり、テレビの料理番組でも連発され、私の脳はもはや時空を行ったり来たり、しまいには朦朧としてしまう。

客である私は既に洗髪台に寝転がっているわけであって、もはや洗髪の第一段階は始まっている(まさにまな板の上の鯉である)。なのに、そこで「髪を洗っていきますね」と声がけされる。もしかしたらこれは目隠しをした客を驚かせないようにとの配慮なのかもしれない。だが、ならば「お湯をかけますね」と次の行為の予告をそっと囁けば十分である。何も「僕(あるいは私)これからあなたの髪を洗います!!」とわざわざ宣言しなくても良い。しかも洗髪は一般的な美容院のサービスの一環であって、周囲を驚かせるようなことでもない。

また、ナポリタンを作るに当たり、鍋のお湯が沸騰してくれば、もう間もなくパスタを茹で始めることぐらいは想像がつく。ましてや料理番組を見ている人ならば確実に把握している。もし冷たい水でパスタを茹でようというのならば、それはびっくりするから、その時は声高に「ではここでパスタを入れていきますね」と"アテンション・プリーズ"をした方が良い。しかし大抵の場合、そんな大それたことは起きない。「パスタを入れます」と物静かに事を運ぶほうが、こちらも落ち着いて見ていられる。

と、ここまで書き、いよいよ表題である「@@すぎる」を考察しようと思っていたが、もはや10年以上も患っている私の言葉への違和感を吐き出しているうちに、「@@すぎる」がどうでもよくなってきた。

要は、私と私よりも若い世代との間には、行為への思いや力点の置き方に差があるのだ。「Sでよろしかったでしょうか」は客が後悔しないようにと案じるがゆえのためらいであり、「髪を洗っていきますね」は何があっても客を驚かせてはならないという心優しきプレリュードなのだ。

そして「@@すぎる」は、あくまでも事の中心はその言葉を発する本人であり、内包する思いが絶頂に達し、もはや言い表す術がその人の引き出しには見当たらない、それほどまでに感情が満ち溢れている時に使用する言葉だと推察する。

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