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読書の日記:3月19日~3月25日

結果として、現代フランス哲学が軸になってる読書時間。


多様性の時代を生きるための哲学

鹿島茂さんの対談集『多様性の時代を生きるための哲学』の石井洋二郎さんの「ブルデューあるいは『ディスタンクシオン』と格差社会」を読みつつ、内田樹さんの『街場の文体論』の第7講 エクリチュールと文化資本と第8講 エクリチュールと自由を再読していくと、すごく理解が深まるというか、面白い。


街場の文体論

内田樹さんの『街場の文体論』は単行本も文庫版も当然のように買っていて、多分年に1回ぐらいは読み返している。

内田樹さんは、2020年まではわりあい「私淑している」といえる状態で、彼の言うことには全面YESだったんだけれど、2020年のコロナ禍でのコロナワクチン接種奨励の方向性や、ロシアのウクライナ侵攻への見解などから、私は興味を失った。

・・・というか、誰でも間違いはあるし、内田樹さんにも判断に間違うことは多々あるんだ、と自分を納得させることに随分時間を費やす羽目になった。

そのくらい、わたしは内田樹さんに拘泥していた、ということらしく、彼の語り口や考え方に随分影響を受けていたのだとも思う。

今も新刊が出れば買ってみるけども、「ここは不要だな」と読み飛ばすページも増えた。

まぁ、思えばそれは幼稚な態度だ。自分の気に入らないことを言われたら耳を塞いでしまう、という行為に等しい。

とはいえ、現在も多くの死亡者と後遺症に苦しむ人を生み出しているコロナワクチン接種を奨励した姿には失望したし、そのことに後悔の念を持ち合わせていることもとんと聞かないことには怒りさえある。

ロシアのウクライナ侵攻にしても、その大きな要因になる「マイダンの虐殺」についての言及はなく、独裁者プーチンの虚像ばかりを言い立てる辺りも、足りないなぁこの人・・・と、むしろ呆れてもいるんだけど。

コロナ禍とウクライナ侵攻で、日本の左翼ポジション知識人の質の低さが暴露され、わたしと同じように憧れの、また、師と仰いでいた人に失望した、という経験をした人は少なくないだろうなと思う。
(というか、逆に一定数はいてほしい)

かと言って、それではそういう人たちの意見はすべてシャットダウンしてしまうか、というと、わたしの場合は、聞くべきところは聞き、捨てるべきところは捨てればいいと思っている。そもそも、情報ソースを減らすことは愚かな選択だ。

情報リテラシーという言葉は、メディアリテラシーと同じくらいの意味で使われ、ネット環境にアクセスする際の注意点ぐらいで語られることが多いけれど、わたしとしては、どういう情報がマスメディアで語られ、流布される一方、どういう情報が言い落されているかを精査する能力が「情報リテラシー」だと考えている。

この「言い落されていること」に着目せよと注意を促したのは内田樹さんだったのに。

コロナ禍の最中に、『レヴィナスの時間論』という本が出た。

フランスの哲学者でユダヤ人のエマニュエル・レヴィナスは、第2次世界大戦中、長く抑留されていた戦時捕虜収容所からフランスから戻ると、リトアニアに残した彼の家族のほぼ全員が強制収容所で殺されたことを知った。その時の虚無感、熱心なユダヤ教徒だったユダヤ人たちの「神に見放された」「神はいなかったんだ」と棄教していく姿に茫然としながらも、ユダヤ教の論理的・宗教的な立て直しを粛々と進めていく中で『時間と他者』という時間論を講義し、まとめた。

この本に書かれていることは、ものすごく大雑把に言えば「時間をかけなければわからないことがある」「即時的に決められるものは少ない」という2点に絞られると思うけれど、この本を読みながら、内田樹はこんな本を書いているのに、全然理解してないじゃないかと、不満に思い、それから少し悲しかった。


結局、内田樹さんに学んだことは、すべてを丸呑みにすることはできないが、すべてを排除することも、できないということ。

判断をするのは常に自分でなければならないし、その責任もどこかで自分で背負っていかなければならない、ということ。

・・・誰でもができることではないけれど、わたしはできるから。

(だから、内田樹さんの最新刊『だからあれほど言ったのに』も買ってしまっている)



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蛇足だけど、トップ画像は、ニセコのグラウビュンデンさんに妹とお茶しにいった時のもの。手前の薄ピンク色のケーキは、ルバーブのチーズクリームケーキで、甘酸っぱくて美味しかった。

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