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動じないキミと空回りしたワタシ

こんにちは。

大人になると、揺るがない意志をもつ人を羨ましく思えたり、純粋な信念みたいなものに触れると、眩しすぎて目を背けてしまう、なんてことありませんか?

うちの娘には、生まれた瞬間から“ズン”という動じない意志を感じた。産道をとおるときに羊水を飲んでしまったのか、少し呼吸が安定せずに酸素マスクをあてて寝かされていたときのこと。偶然だろうが、マスクを自らたぐり寄せて、口元へ近づけ、微笑みを浮かべた。その様子をみて、助産師さんたちは、「自分で呼吸が楽な方法みつけてる。この子は、大物になるわ。」と笑った。

1ヶ月健診で産院を訪れたときにも、まだまだ頼りなげに泣く周りの赤ちゃんたちを気にもせず、例の“ズン”とした貫禄とともに待ち時間をやり過ごし、診察が終われば、さっさと寝に入る具合だった。

4ヶ月で児童館へ遊びにいったときにも、お決まりの“ズン”で、初対面の職員さんたちから、「この子は、なにか肝がすわってる感じするね」と言われていた。

いま、2歳。イヤイヤ期特有と思われる本人すらどうしたいのか分からないワガママを言うときもあるけれど、基本的に娘は、いつも真っ直ぐ。

「ローソンいく」といって、ズンズン歩き、お店に入れば目当てのお菓子は決まっている。「電車にのる」といって、ズンズン歩き、改札をくぐると必ず「赤いのにのりたい」と言う(赤と緑があるけど緑の率が高く、緑が来てもしぶしぶ乗ってくれる)。

前にも書いたが、娘は乗りものが好き。中でも、最近の憧れは新幹線の『はやぶさ』。パパが不在の休日に、少し時間に余裕があったので「見にいくだけだよ」と言って、入場券を買って新幹線を見に行った。そこで、うっかり、わたしは娘の“ズン”を忘れていた。

“ズン”を備えた娘は、『はやぶさ』を目にするなり、「見にいくだけだよ」なんて言葉はふっ飛び、すっかり自分も乗れると信じている。そのことに気づかないわたしと、“ズン”を決め込んだ娘。二人の関係は、先頭車両の前で機嫌よく写真撮影したところまでは良好だった。

かっこいいねと話しかけながら、次は『こまち』をみにいく?なんて、入場券代のモトをとって帰ろうとする貧乏性のわたし。対して、グイグイと手を引っ張り抵抗する娘。あれ?と振り返ると、はっきりと娘の顔には「はやぶさに乗らずに帰るわけにはいかぬ」と書かれていた。

そこで、ようやく娘の思いに気づく。次々に車内へ進む乗客たちに続き、「あそこから乗れるよ」と言わんばかりに、ズンズン歩いてゆく。どうにかして、“ズン”を止めなければと必死のわたしは、無情の抱っこ(抱え込みともいう)に打ってでる。間の悪いことに、イヤイヤ期ときたもんだ。その後の惨劇は、想像にたやすいことだろう。

すったもんだのあげく、なんとか『おせんべい二枚』で手をうってくれた娘。すれすれのところで、“ズン”は食欲に負けてくれた。

その日のことを、わたしは恥じた。たぶん、親として初めて、子供に対して恥じた。娘は、これまで「見たい」なんて一度も言ったことがない。何度も何度も「のりたい」と言っていた。知っていたのに、分かっていたのに、憧れの『はやぶさ』を前に、「見るだけ」なんて、酷なことをしたワタシ。まさに、喜ばせたい思いが空回りした出来事。

その日から、ふとしたときに「はやぶさのりたかったー」と言う娘。そのたびに、心がチクリとするわたし。少ない言葉で自分の意思を伝えられるようになった2歳。そう長くは続かない時期なのだから、ひとときだけでも親の感情を抑えて、子供の声にきちんと耳を傾けることが大事だと学んだ。

実はこの出来事を書くか悩んだのですが、自分の反省の記録として残しておくことにしました。少し大げさかもしれませんが、親として、成長の機会をもらえたなと感じたエピソードです。


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