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「救われた」という言葉に救われたのは、こちらの方です

こんにちは。

よく「ちょっとバタバタしてまして」なんて言い訳しながら予定を先送りするけれど、マジでバタバタするのが年度末ってやつですね。何もかもに追われながら、バタバタというより、ジタバタしながら、久しぶりのnoteを書いています。

さて、そんなバタつく毎日の主役は、これまたバタバタ走り回るオテンバな娘。そんな娘が保育園でどんな風に過ごしているか、先生とやり取りする連絡帳で垣間見ることができるのは、とてもありがたい。

先日、連絡帳のコメントの末尾に『優しい娘ちゃんのおかげで、皆救われました』と、書いてあった。何を大それたことをしたのだろうかと思ったけれど、内容は他愛もないお散歩のエピソードだった。

園を出る前、子供たちが列をつくり、娘は仲良しのAちゃんと手をつないで出発を待っていた。そこへ、Bちゃんが娘と手をつなぎたいと言い始めた。先生が娘に相談したら、「いいよ」と言ってBちゃんと手をつないでお散歩に出かけることができた。

先生は、娘の優しさを褒めてくださったのだけど、この「救われた」とのコメントを読んで、いつも救われているのはこちらの方だと、つくづく思った。それと同時に、日頃の先生方のご苦労に、改めて感謝した。

いま、娘はイヤイヤ期。娘のクラスのお友達の大半は、イヤイヤ期に差し掛かっているはず。娘一人を相手にするも大変なのに、先生方はイヤイヤ期の群れを率いてくださっている。その苦労は想像に絶する。先のエピソードのようなことが日常茶飯事で、仮に娘が嫌だと断れば、Bちゃんはダダをこね始め、いつまでたっても散歩に出発できなかったかもしれない。

分別のある大人の集団を統率することも大変なのに、意思疎通がままならないイヤイヤ期の群れを率いるのは並大抵のことではない。たった今まで機嫌良く遊んでいたのに、ふとした何かで泣きわめくことに発展する娘の様子をみていると、そのエピソードがまさに紙一重の出来事だったのが良くわかる。先生方の日頃の苦労が「救われました」という一言に滲み出ていた。

娘は、保育園が「だいすき」と言って毎日出かけていく。小さい我が子を預けることへの罪悪感など賛否両論あるけれど、わたしは働きながら子育てする道を歩み、娘の「だいすき」がそのことを後押ししてくれている。その「だいすき」を育んでくださっている保育園の先生方に、心から「大好き」と言いたい。

けれど、次の日の連絡帳には『今日も娘ちゃんと手をつなぎたいというお友達がいましたが、娘ちゃんはAちゃんと手をつないで歩きました』と書いてあった。娘は、どうやら2日続けての救世主にはなれなかったようです。親子ともども、まだまだ修行が足りまへん。


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