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雑記

前回の記事から2ヶ月も経ってしまった。

書きたいことが色々あるので、整理しながら書こうと思う。
まずは一番重苦しい話題から。

家庭のこと

家の中は相変わらずで、私は今この瞬間も『家族を捨てたい』という気持ちを抱えている。

変わったこともある。
それは私が自分の持つ家族へのネガティブな想いを『持っていてもいいんだ』と思えるようになったこと。

これまでの私は、家族に対してわだかまりがあろうとも『私は長子なのだからしっかりするべきだ』『親の面倒は私が見なくてはならない』と自分を押し殺して生きてきた。

幼い頃から誰に強制されたわけでもなく、荒れ果てた家庭の中で育った私が自分で作り上げたアイデンティティ。
自分らしさを踏みにじって構築した『模範的長子たる私』。

マジでクッソくだらない。

勢いと活力に溢れた10代20代、自分でどうとでも生き方を決められたはずの30代を棒に振って40代を迎えた結果が今の私だ。
金にだらしない愚弟の尻拭い、自分の生活の不安を前面に押し出して私を離すまいとする母と暮らす自分。本当にくだらない。

と、昔の私だったらここで止まっていたと思う。

自分の境遇を嘆き、哀れみ『どうせ私の人生なんてこんなもんだ』と自嘲して終わっていただろう。
そして、諦めの気持ちだけで家族と暮らしたに違いない。

しかし、今の私は少し違う。
いつだって家族を捨てても後悔はしないし、一人になりたいという気持ちを隠しもしない。
母にはかなりひどい言葉をぶつけたと思う。
しかし、この母にはかつての義父の事で許せない点がいくつもある。
これまで黙ってきたのだから、もう我慢はしない。

その母は、先日ステージ1の肝臓癌と診断された。
来年入院・手術となるが、私はそれを聞いても全く心が揺れなかったし、どこか他人事だった。

酷い娘だ。

病気の母親を労われない私は、多分人様から見てとんでもない娘だ。

遠方の病院に検査や診察の為あと2回通院するのだが、私は付き添いながらも心は寄り添えない。

死んでもいいとは思わないけれど、だからと言って何としても長生きしてほしいとも思えない。

終わりにした方が良い親子関係はある。
終わりにした方が良い家族関係も。

以前なら、こんな事を考えるなんて自分はどこまで非道なんだと思っただろう。
しかし、私はもう自分の素直な感情を罪悪感で塗りつぶすような真似はしない。
私が私の心を殺したら、誰が助けてくれるというのか。
私は私をもう蔑ろにはしない。

そう決めた。

服のこと

放課後等デイサービスに勤め始めて数ヶ月、私は私服を驚くほど着ていない。
平日は制服通勤だし、ロッカーがないためアウターは室内でも違和感のないフリース。コートなんてまだ一度も袖を通していない。
土日は学びに充てているから外出は整骨院とマッサージのみ。もちろん楽な服装。これらの服は私服リストからは除外している。

じゃあ日用品や食料はいつ買うのかと言えば大抵金曜の退勤後だ。
土日は動かないという固い意志の下、必要な物は退勤後に購入する。

私は以前、散々「黒が似合わない」「喪服になる」と言っていたが、今現在平日の服装はこうだ。

・黒のポロシャツ
・黒のヒートテック
・黒のパンツ
・黒のスリッポン
・紺のフリース

アウターくらいは似合う色を持ってきたくて紺にしている。
ほぼオールブラックだが、今の仕事にはこれが最も無難なのだ。

寒くなってから、春夏に着ていた服を何枚か処分した。
介護の仕事を辞してから順調に太ってしまった為、きつくなってしまったのが大きな理由。
最近は脂質を減らした食事を心掛けているが、一度ついた肉はなかなか頑固だ。

あらためて生き残った服達を見ると、やはりシンプルで全く飾り気のないデザインのものだけが残っている。

結局はこういう路線が一番自分らしく、しっくりくるのだろうな。

死ぬまでに一度くらいは「私にはこの手の服は縁がないので」と感じる服を着てみたい気もする。

まだ当分は私服を着る日も少ないだろうから、それこそ沢山妄想しながら筋トレやストレッチで身体を整えて春を待とうと思う。

学びのこと

Webライターを目指してからまだそこまで経っていないものの、これまで自分が書いてきた文章とライターとして求められる文章の違いをまざまざと見せつけられている。
かつて某匿名巨大掲示板にあれこれ書き込んだり、仕事の愚痴を延々無料ブログに書いたりしていた頃の文章は役に立たない。

しかし、そこが面白い。

感情ありきの文章ではなく、読み手に分かりやすく伝えるための文章の難しいこと。

自分の書く文章の幅が広がるようで楽しい。
読み物として面白いかどうかは別として、今は仕事としての文章の書き方を学ぶのが本当に楽しい。

家庭の事でイライラしていた時間は、いくらか文章を学ぶ時間にすり替えられて、少しだけ自分の心に『楽しい』が入り込んできた。
こういった事すらも、以前ならば『私にはそんな余裕はない』と諦めてきただろう。
そう思うと、まだまだ活力は枯渇していないと感じられるのだ。

推しのこと

オタクらしく推し活についても触れておこう。

前回の記事を書いてすぐ後、某刀剣育成ゲームに今更ながらハマってしまい、現在沼の中にいる。

数年前からこのゲームの勢いは知っていた。
けれど当時は資格取得に一生懸命でゲームどころではなかったし、そもそも『もう年齢的にあれこれハマる元気もないな』と枯れたつもりでいたのだ。

しかし、結局オタクは死んでもオタクなのだ。

そもそも小学生の内に頭角を現した私が、加齢の為引退なんてできるはずもなかった。
とはいえ、若い頃のように暇さえあればゲーム…というほど元気はなく、隙間時間にプレイする程度。
SNSで人様のツイートや二次創作を見ながら幸福に浸っている。

私の推しは複数いるのだが、最近になって推しの色や香水を身に付ける人の気持ちが分かってきた。というか思い出してきた。
20年若かったらもっと精力的にあれやこれや手を出せるのだけど…と悔しい気持ちはあるものの、この年齢になってもこうして好きになれるものやことに出会えるのは幸せなことだと感じる。

明日も生きる

まだしばらく状況は落ち着かないし、心が乱れる日もあるだろうけれど、それでも私を支えてくれるものがある限りは生きられそうだ。

それが家族ではないのが悲しい、と思う人もきっといるだろうし、私を非情な人間だと感じる人もいるだろう。

しかし、人が何を拠り所にするかはそれぞれで、多くの人がそれは家族やパートナーだと思うだけの話。
この世に生きる全ての人がそうではないのだと、今は罪悪感もコンプレックスも感じることなく断言できる。

私は人に恋愛感情を抱けないからそういった意味でのパートナーは今後も現れないし、死ぬ時はきっと一人だ。
母のように、不安を感じそれを露わにして家族にぶつけられるならどんなに楽だったかと思う(母への皮肉が含まれるのを否定はしない)。

しかし、これが私という【個】だ。

今でも折に触れ『このまま死にたい』と思う。
『全部なくなれ』『いっそ家族が死ねばいい』とも。
その直後、こんな風に考える自分は欠陥品だと、以前はそう思っていたのだ。

今も自分の考えは歪だと思うし、一般的には到底共感されないであろうことも想像できる。

けれど、これも私だ。

それを受け入れて生きていく。
いつか家族と別れる日、きっと後悔するのだろう。

もっと優しくすればよかった、もっと労わればよかった。

きっと、心のどこかでそう思う。
自由を手にした喜びを感じながら。

歪でいいのだ。
そんな自分を、自分だけは認めてやると決めた。


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