「元プロアカペラー」を作った人たち ~岩城の場合~ 第6話 「Hearty-voxその3

ベースとして歩みだした僕。
Hearty voxは、相変わらずのペースでライブを重ねていた。

2005年夏に一時活動を休止するまで、多作を中心に様々な場所で歌う機会を得た。
思えば初ライブから休止までわずか8ヶ月程度だったのだが、あまりにも濃厚だった。

TRY-TONEと共演させていただいたこともあった。
主催ライブも2度、開催した。
高校生の行動力たるや。

当時すでに終焉を迎えつつあったが、関東の大学サークルに所属しないアカペラグループのメッカが存在した。

大宮ソニックシティ前の広場である。

アカペラというかストリートミュージシャンの集う場所であった。
「青いベンチ」で有名なサスケも、その辺りで活動をしていたと聞く。


当時その場所は、歌っても踊っても、注意を受けない数少ない公共の場であったためだ。
現在どうであるかはわからない。

そこで出会った仲間たちと共に歌ったりもした。
ますますメッセンジャーは捗った。

わざわざPCを立ち上げて幾つもウィンドウを開きチャットを繰り広げていた。
携帯電話のメールのタイムラグに耐えられなかったのだ。
今ならLINEか何かで済む話である。
しかしあの、「〇時にログインしよう」と待ち合わせをして、限られた時間を家族共用のPCでガチャガチャやってる感じがたまらなかった。


話を戻す。

Hearty voxがメンバーを1人変え、さらにハイフンを付けてHearty-voxとして活動を再開するのは2008年のことになる。

その間に早稲田大学Street Corner Symphonyに所属していたりもするのだが、その辺の話は後に回そうと思う。


活動を再開する頃には、メンバーは大学生。そもそも受験に集中するための休止であったのだ。

僕はというと、会社員になっていた。

激務と言うほどではなかったが、日勤と夜勤の入り交じるシフト制。

思うようにメンバーとスケジュールを合わせることが出来なくなっていた。

結果、僕は入社して1年半で会社を辞めた。

この辺から僕は、人間として生きることをやや放棄し始めている。

アカペラがやりたい。

Hearty-voxで歌いたい。

その一心で、フリーターになっていた。

ちなみにHearty vox加入の際、リーダーからは「プロ志望のグループ」と聞かされていた。
だからこそHearty voxを選んだのであった。

Hearty-voxで再度集まろうとなったときには「プロ目指そうって感じじゃないんだけど、岩城やる?」とメンバーに尋ねられた。

それでも僕は「やる」と答えた。

プロ志望のメンバーを集めることの難しさも知っていた。
現に休止中、幾度か試みては失敗している。

それに、Hearty-voxを越えるグループのイメージが、当時僕には湧かなかったのだと思う。

一生懸命歌ってたら、きっとチャンスは巡ってくる。
それくらいに考えていた。


後にそれは、部分的に現実になる。
そのきっかけが訪れる。

2009年、春。

第7回 全国ハモネプリーグである。

当時世話になっていたイベンターの方から、開催の情報が流れてきた。


実に生意気な話なのだが、当時のアカペラ界の一部には、「ハモネプ=ダサい」とする風潮があった。


当然のことだが、演奏力の他にもテレビで映えるビジュアルやプロフィールも加味した選考であるからだと思う(個人の感想です)。

一心に演奏力にのみ向き合っている、オタク気質のアカペラ人には些か分が悪いのだ(あくまで個人の感想です)。

M-1決勝進出者をこき下ろす地下芸人と構図は似ていると思う(アマチュアの大会と比較するのはどうかとも思うし何より個人の感想です)。


僕らもご多分に漏れずハモネプ否定派寄りの意見を展開していた。

僕に至っては、前年に開催された大会(後の所属グループが優勝している)の存在すら知らなかった。

ただ単に、僕にテレビを見る習慣が無かったことも関係しているが。


Hearty-voxは面白半分でオーディションを受けたにも関わらず、なんとテレビ放送のある決勝に進出してしまったのだ。
まったく、ふざけた話である。


オーディションで歌ったのは、当時僕らのレパートリーであったYUIのGood-bye days。

まさかの出来事に、それまでハモネプを否定してきた僕も浮き足立ってしまった。
公式サイトに自分の映像が載っているのは、とても誇らしかった。
この「公式サイトにオーディションの映像が掲載される」というシステムも、この後の僕の運命を変えることになる。


そして本番当日。

僕らは惨敗を喫した。

78点。その日出演のグループの中で、最低得点だった。

演奏した楽曲は、レミオロメンの粉雪。

オーディションの後、番組制作サイドと協議の末に決定した、急拵えのアレンジではあった。

とはいえ、あまりにも、であった。

放送時には楽曲の一部をがっつりとカットされる体たらくである。

出番が前半であったこともあり、他のグループがキラキラと輝く姿も直視出来ず、大部屋の控え室の隅で、僕らは真っ黒に沈んでいた。


ハモネプ決勝に出演するグループは、確実にそれに相応する何かを持っている。

確かに、決勝進出組よりも演奏が上手いグループはいくらでもある。

しかし、それだけではない。

輝きを放つ何かを、それぞれ持っていた。

僕らにはそれが欠けていた。
おまけに当日の演奏は散々なものだった。

当然の結果だった。


その結果を受け、Hearty-voxは再び活動休止に入る。




以下余談

ハモネプ、本当に苦い記憶です。笑

ですがその後「プロ」というものを意識する大きなきっかけにもなったような気がします。


ちなみに、のお話をしますが、少し長くなります。


ハモネプ放送直後、決勝進出より前から出演予定だった、大会形式のイベントがありました。

放送を受け、主催団体内で「やっぱハーティ出すのやめよう」という話になったそうです。笑

しかし誘ってくれた担当者がライブを見たことがある方で、「絶対大丈夫だから!」とゴリ押ししてくれたそう。

結果そのイベントで、僕らは優勝しました。

ハモネプでは各グループに担当のスタッフさんが付いてくださるのですが、
なんとそのイベントも見に来てくださったんです。
会場汐留なのに(関係ない)。

そして「ハーティやっと勝てたぁ~」と言いながら、号泣されてました。

僕らの前にも、僕ら以外にも沢山のグループに付いてたはずなのに。

それだけ毎回本気なんだなあと、その情熱に驚き感銘を受けました。


出る人も、作る人も本気です。

あの頃の自分に言いたい。

自分より目立ってる人に悪口言うのやめなさい!!恥ずかしい!!


そしてそして。

そのイベントの審査員をされてたのが、後の恩師、幾見雅博氏。

イベント後に「あの子たちいいね」と、共通の知り合いを通じて僕とアキラに連絡をくれました。
新しいグループ作りたいから来い、と。

アキラはそれ以来、幾見さんとずっと仲良しですが、

一方の僕は仕事の忙しさや幾見さんからの圧に耐えかねて、そのグループをすぐに抜けてしまいました。


後にJARNZΩに加入することになるわけですが、その時プロデュースしてたのが、お察しの通り幾見さん。

メンバーから「コイツを新メンバーで入れたいんです!」と伝えたとき、

「やめとけ、岩城は逃げる。」

と、幾見さんは仰ったそうです……苦笑

その後JARNZΩが幾見プロデュースを離れるまでの数年間、弟子としてたっぷりと教えを受けました。
当然その知識や経験は今も大きな力になっています。

ただ、JARNZΩも脱退してしまったし、
幾見さんを敬う会であるInMasterPieceの活動にも参加出来ていない現在。

「やっぱり岩城は逃げたな」って思われてんのかなぁ……

という訳で、余談でした。

追記
ハモネプ出たときのメンバーのGood-bye  days貼っときますね。


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