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【小説】君の名は③

 私の名前を知らない人はいないだろう。
 ショパン・コンクールで優勝し、一躍世界的な名声を手に入れた。おまけに、自分で言うのもなんだが、そこそこ美貌もある。「美人天才ピアニスト」とか「ピアノ界の天使」とかあれこれパッケージを付けて、様々なメディアが私を報道した。

 ニューヨークでもパリでも東京でもリサイタルを開けば、即日完売。私が弾けば、ダフ屋が儲かる。
 CMやテレビ出演の依頼も舞い込んで来たが、私は「練習に集中させてほしい。せっかく私の演奏を聴きに来てくれる人に、練習不足でいい加減なものを聴かせるわけにはいかない」という理由で全て断った。その態度がまた私の評判を上げた。
 ヒースロー空港に着くと私がピアノを弾く姿のポスターが目に入った。全世界が私に注目している。すべてが私の掌中にある。誇張ではなく本気でそのような全能感に浸っていた。

 あるとき、ミュンヘンでリサイタルを開いた後、次のリサイタルまで2日ほどオフがあった。オフの日も朝から練習に励む…なんてことはない。
 私は基本的に練習が嫌いだ。プログラムはどうせ誰もが喜ぶ、ショパンやモーツァルトの有名な曲だ。そんなのとっくの昔に暗譜している。いまさらやることはない。むしろ練習し過ぎて疲れてしまい、本番で上手く弾けなかったら元も子もない。

 昨日はカーテンコールが長くてうんざりした。舞台袖に引っ込んでは出て、引っ込んでは出てを幾度となく繰り返す。大勢の眼差しを一身に受け、喝采を浴びるのは気分が良いが、あんまり長いのはごめんだ。こっちは時差ボケで頭がぼーっとしているのだから、さっさとホテルで休ませてほしいのに。

 控え室に戻ると大量の花束が届いていた。いろいろな種類のきつい香水をばら撒いたような匂い。どうせくれるなら、花束より札束の方がずっと良いのに。紙幣はかさばらなくて、ゴミにならないし、匂いもない。お金ならいくらあっても困らない。

 そんなことを考えながら、私はベッドに寝転がったまま窓から街を見下ろした。青空の下に赤茶色の旧市街が広がっている。

 シャワーを浴びて着替えてから、気まぐれに一階のラウンジを覗いてみた。いつも朝食は部屋に運んでくれるので、利用したことはない。
 人は疎らだった。窓際にぽつんと一人で朝食を食べている東洋人顔の男がいた。身なりはいちおう清潔だが、見るからに冴えない顔で髭も剃っていない。仕事なのか旅行なのか知らないが、きっと一番下のランクの狭いシングルルームに泊まっているに違いない。なんだか哀れに思えてきた。有名人の私を見たら、少しは気が晴れるかしら?
 私は彼に近づいていった。


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