見出し画像

【エッセイ】グールドのいる風景

 「閉店」の告知を見て初めて入店を試みたり、「テナント募集」の広告を見て店のことを思い出そうと努めたり、「売物件」の看板を見て建物の大きさを実感したりすることがある。しかし、そこが青空駐車場になるころには、かような思いは跡形もなく忘れてしまう。結句、一時の甘い感傷的な気分だけが残るのだ。

 私には忘れ難き店がある。否、忘れ難き店の痕と言った方が適切であろうか。なぜなら、その店に入ったこともなければ、店の名すら知らず、八百屋であったことを知っているだけだからだ。偉そうに人間の情と記憶の曖昧さを指摘してはみたものの、私もまた甘い感傷に浸る一人にすぎぬ。

 自宅から最寄駅へ向かう中途に小さな商店街がある。かつてはそれなりに栄えていたのであろうが、今は僅かに10店余り、うち半数は常時シャッターが下りている。辛うじて商店街の体を保っている有様である。とは言え、最早ありふれた風景の一つだろう。
 その一角にありし八百屋は店舗兼住居の建物であり、土間に商品を並べていた。「昔ながら」と言えば聞こえは良いが、薄暗く埃っぽい古臭さそのものの店構え。交通手段も情報網も発達し、様々な選択肢が与えられた現代において、かような店が淘汰されるのは必然である。ましてや近隣に廉価のスーパーマーケットができたとなれば、閉店したとてなんら不思議はない。

 その八百屋が閉店してから(と言っても私は閉店したこと自体を知らなかったのであるが)しばらく後のことである。私はいつも通りJRの駅へ向かってその商店街を歩いていた。
 その店の前を通りがかった折、シャッターが開いていることに気が付いた。何とはなしに中を覗いてみれば、空っぽの土間が広がっている。その奥の柱には振り子時計が掛かっており、針も振り子も止まっている。
 そして、土間の中央に一人の老紳士がいるのが見えた。この店の主人だったのだろうか。彼は木製の肘掛椅子に深く腰を掛け、脚を組み、頬杖を突いた格好で、ぼんやりと青空を眺めていた。その姿はグレン・グールドのポートレートそっくりであった。ブラームス初期の作品が収録されたレコードのジャケットに使用されていたものである。
 すでに述べたとおり、この店には何も思い入れはない。けれども、グレン・グールドのような恰好をした老紳士の姿が、ガランとした空虚そのものである風景が、なぜか強く私の心に残っているのである。

 それからほどなくして、私は8年ほど勤めた銀行の職を辞した。今もその店の前を通るが、爾来、彼の姿を見ていない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?