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【この曲がすごい】マニアック解説第3弾!ショスタコーヴィチ交響曲第4番ハ短調

この記事はこちらの動画を基にしています。

 このシリーズでは知名度や歴史的な重要性に関わらず、私がすごい!と思っている曲を紹介していきます。
 第3弾はショスタコーヴィチ交響曲第4番ハ短調です。この曲もマーラーの7番やブルックナーの6番同様、とにかく私が大好きな曲ですが、案の定あまり人気のない曲です。
 では、一体どこがすごいのか、これからご紹介したいと思います!

ショスタコーヴィチ交響曲第4番ってどんな曲?


 まずはこの曲の概要について簡単に説明しておきたいと思います。
 この曲は1935-36年(29-30歳)に作曲されました。しかし、初演はそれから25年後の1961年で長いこと封印されていた作品です。このあたりの経緯については、後ほど詳しくご説明いたします。
 この曲の特徴としては、まずショスタコーヴィチの全交響曲の中でも最も編成が大きく、複雑であることが挙げられます。スコアによると奏者はなんと134名、合唱や独唱はないオーケストラのみで演奏される曲なのでいかに巨大かわかるかと思います。
 ショスタコーヴィチ自身はこの曲について「自分の創作活動のクレド」と語っており、それまでの作品の総決算のような位置づけとしていたようです。
 また、当時の彼はマーラーの影響を受けており、特に3番と7番を参照しながら作曲していたとのことです。

初演までの経緯


 先述の通り、4番は完成から初演まで25年もの歳月を経ています。ここではその経緯について説明したいと思います。

プラウダ批判と交響曲第4番の完成

 まず、この曲を作曲中の1936年1月に「プラウダ批判」という事件が起きてしまいます。これはスターリン粛清下のソ連における文化芸術の弾圧を代表する事件と言われています。スターリンは「社会主義リアリズム」といって明るくわかりやすい大衆的な芸術を評価しており、前衛的な芸術を「ブルジョア的」だとして批判していました。
 そんな中、ショスタコーヴィチのオペラ「ムツェンスク郡のマクベス夫人」を観たスターリンが途中で退席、ソ連共産党の機関紙「プラウダ」で「音楽の代わりの支離滅裂」と批判されてしまいます。
 これに端を発し、ショスタコーヴィチの身内や知人・友人も含めた多くの芸術家や文化人が摘発されてしまうようになるのです。
 1936年4月、そうした批判にめげず交響曲第4番を完成させます。

初演の中止とその理由

 1936年12月、初演の機会を得て最終リハーサルまで進みました。しかし、12月11日の初演当日にショスタコーヴィチは発表を撤回、演奏会は中止となってしまいます。その理由として以下3つの説が挙げられています。

 一つ目は、指揮者のシュティードリーの技量に対して不満があったためです。これはショスタコーヴィチ本人や後に初演を行うことになる指揮者コンドラシンが語った説です。しかし、シュティードリーが翌年にアメリカへ亡命していることなどから、保身のために彼に責任転嫁した可能性が高いです。
 二つ目は、その指揮者シュティードリーによる説で、オーケストラの団員たちがこの曲を演奏することに抵抗していたためです。演奏を行うどころの騒ぎではなくなったため、ショスタコーヴィチ本人が楽譜を回収したと語っています。
 三つ目は、リハーサルに同席していた音楽学者グリークマンの説で、当局からの圧力があったためです。すでに「プラウダ批判」で目をつけられていた彼は、リハーサル中に作曲家同盟の幹部から呼び出され作品を撤回するよう説得されたようです。
 作品を発表することの危険性を認識していたものの、「クレド」とまで呼んだ渾身の作品を捨て置けなかったショスタコーヴィチ。ギリギリまで粘りましたが、結局は作品を撤回してしまいました。

ようやくの初演

 その翌年、1937年にわかりやすい「暗→明」の構造を持った交響曲第5番を発表、この作品の大成功により彼の名誉は回復しました。しかし、4番は再び批判されることを恐れてか、お蔵入りとなってしまいました。
 1953年のスターリンの死後、いわゆる「雪解け」の時代が訪れます。彼の作曲家としての評価も安定したものとなり、1961年12月30日にコンドラシンの指揮でようやく初演されることとなります。このとき、すでにスコアは紛失していたため、パート譜から復元したそうです。
 ちなみに、マーラーの弟子でもあり、ユニークな演奏を行うことで有名な指揮者のクレンペラー。彼はなんと1936年の初演後に客演していた南米でこの曲を演奏する予定だったそうです。もちろん中止になってしまったわけですが、もし実現していたら彼の非常にユニークな演奏の録音も聴けたかもしれません。残念です。

ここがすごい①第1楽章


 それでは、具体的にどこがすごいのか、順を追ってみていきましょう。

 第1楽章は巨大で複雑、緊張感に満ちたものとなっています。
 提示部はブルックナーのように3つの主題を持っています。展開部では突如、急加速して爆発的な大音響に至ります。ここのスリリングな展開は非常に印象的です。再現部では冒頭の主題が再現されますが奇妙に歪められています。また、コーダでは「カッコウ」のような動機が登場します。このあたりはマーラーの影響を受けていると思われます。

ここがすごい②第2楽章


 第2楽章はシニカルなスケルツォです。
 主題は第1楽章展開部(急加速するところ)のリズムから派生しています。トリオ(中間部)は後の交響曲第5番第1楽章の主題に通じます。そして、コーダはチャカポコチャカポコと打楽器が不気味な軽さのあるリズムを刻みます。これは晩年のチェロ協奏曲第2番や交響曲第15番でも用いられます。

ここがすごい③第3楽章


 第3楽章はシリアスとパロディが同居したごった煮状態となっています。このあたりもマーラーの影響でしょうか。
 まずティンパニのリズムに乗ってファゴットがおどけたように登場します。それが次第に大きくなっていき深刻な行進曲へと至ります。こうした「滑稽」が「悲劇」へと転じていく展開は、後に交響曲第7番第1楽章でも行われます。有名なボレロ調の部分です。
 主部へ入ると3拍子へリズムが変わり、次々と軽い主題が登場します。中には「魔笛」のパパゲーノのアリアや「カルメン」の闘牛士の歌などもパロディとして登場します。
 最後は再び強烈な金管が現れて冒頭の行進曲が再現されます。その壮大なカタストロフの後、チェレスタが静かに謎めいた余韻を残しながら終わります。

作曲者本人の語り

 
 ここでショスタコーヴィチ自身が晩年に語った回想での言葉をご紹介します。

「音楽の代わりの支離滅裂」*の後、指導部が、私に懺悔して自分の罪を償うように、執拗に説得した。だが、私は断った。当時は、若さと肉体的な力が、私に味方したのだ。懺悔の代わりに、私は交響曲第4番を書いた。

*「プラウダ批判」のことを指す(筆者注)

まとめ


 このようにショスタコーヴィチの4番は、マーラーをはじめとするそれまでの交響曲の伝統をベースに、様々な挑戦を試みた意欲作です。それでいて、時代に翻弄された悲運の大作でもあります。
 ショスタコーヴィチという作曲家は、その背景にある社会や歴史といったものと不可分です。もちろんモーツァルトやベートーヴェンもそうですが、この作曲家の場合はもっと特別な意味合いを持っています。彼の音楽からはその生い立ちや人となりよりも、まず当時のソ連に横溢していたであろう空気に思いを馳せることになるでしょう。さらには、それを演奏する者や聴く者のおかれた社会も問題となります。
 今まで以上に「自由」が瀕死の状態にある現代において、ショスタコーヴィチは非常にアクチュアルな存在であると私は思います。


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