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未来は神様のレシピで決まるという諦観と、開き直る生き方のススメ | 伊坂幸太郎さん 『オーデュボンの祈り』

20代の僕が最もハマった作家といえば、伊坂幸太郎さんだった。

新作小説の発売日をはじめて待ちわびた作家も伊坂さんで、伊坂作品というだけで「面白いに違いない」と確信めいた気持ちでページをめくっていた。張り巡らされた伏線が終盤に一気に繋がっていく展開の面白さと爽快さはもちろん、登場人物のユーモアのある振る舞いがツボで、いわゆる伊坂ワールドの虜になっていた。

だが、仕事が忙しくなるについれて、ビジネス本や教養本ばかりを読み漁り、伊坂さんの作品を含め小説を次第に読まなくなっていた。僕が、改めて小説を熱心に読むようになったのは、ここ2年くらいの話だ。

今の僕は、仕事としても、個人的な生きがいとしても、物語の創作および編集への関心が高い。

フィクションであれ、ノンフィクションであれ、物語によって具体的なイメージや感情を共有することで、己を奮い立たせたり、物事の見え方が変わったり、滑らかに読み手(受け手)の世界を変えていくことができる。衣食住と同じくらい、物語とは人間が生きていく上で欠かせない心の栄養ではないだろうか。

そして物語への理解を深めるにあたり、もう一度、自分が心を動かされた作品を見直したいと思った。特に、伊坂さんの作品は、単なるエンタメを超えて、生きていくために重要な何かが語られている印象を受けていた。だけど、それをうまく言語化できていない。

特に、デビュー作の『オーデュボンの祈り』

コンビニ強盗に失敗し逃走した主人公(伊藤)は、気づくと外界から遮断されている島に辿り着き、そこには妙な人間がたくさん住んでいて、人の言葉が喋れて未来が予測できるカカシまで存在する。その島の守り神のようなカカシが殺され(壊され)、事の真相を追っていく……というあらすじで、人に作品の魅力を紹介しようとする時に、いつも伝え方に悩む一冊だ。

そもそも、なぜ伊坂さんは喋るカカシを書こうと思ったのだろう? そして、外界から遮断されている島という突飛な設定を選んだ意味は何なのだろうか?

今回、久しぶりに『オーデュボンの祈り』をじっくりと読み直し、この物語に込められたメッセージを真剣に考えてみた。作品を読んだことのない人も、伊坂さんの大ファンという人も、ひとつの解釈として、楽しんでもらえたら嬉しい。

★ネタバレも含んでます。その点、ご容赦を!


作品の根底に流れる「諦観」の念

いきなり結論めいた話からはじめるが、『オーデュボンの祈り』は「諦観(ていかん)」の物語だと思う。

諦(あきら)めて、物事を観ると書いて、諦観。

よく僕らが「あきらめる」という言葉を使うときは、「give up」や「降参」といったネガティブな響きがあると思う。だが、もともと「諦る(あきらめる)」とは仏教用語で、本来とても前向きな意味だったそうだ。

何か悪いことが起こったり、願いが叶わないことに対して、「なぜそのことが起こったのか」「叶わないことに何か意味があるのではないか」と、物事の因果の道理を明らかに見ようとすること。また、叶わない悩み(苦しみ)から解放されるために、願望への執着から離れること。要するに「諦めること」は、悟りの極地へと向かう手段なのだ。

世の中は、いかに努力をしようが、自分の力では、どうしようもないことばかり……。そして、世の中は、自分の都合とは関係なしに流れていく。

これが仏教の大前提にある世界観であり、「そもそも生きていくこと自体が、めちゃくちゃ苦しいよね」という考え(生老病死)が仏教のすべての出発点となっている。そんな世の中で、少しでも心安らかに生きていくために、どう世界と折り合いをつけていくかが仏の教えなのだ。

そして、この自分の力だけでは、どうしようもない世界を、作中ではこう表現している。

「未来は神様のレシピで決まる」

僕ら一人ひとりの行動は、あくまで未来を決めるための材料であって、いろんな要素が複雑に絡みあって未来は決まっていく。誰かとの出会いだって、ほんのわずかなズレがあれば、その出会いは生まれてなかったかもしれない。神の見えざる手は、あらゆるところに存在しているのだ。

そんな大きな流れのなかを僕らは彷徨っていて、意志あるひとつの個体として、どう振る舞えばいいのか?

『オーデュボンの祈り』は、そんな問いを僕らに投げかけてくる物語だと思っていて、その理由をこれから説明していきたい。


悲しい結末に向かうことを誰も止められない。

そもそも、『オーデュボン』とは何なのか?

これは、歴史上に実在した人名で、ジョン・ジェームズ・オーデュボンのことだ。19世紀のアメリカ人で、鳥類研究家として、北アメリカの鳥類を極めて写実的に描いた博物画集の傑作『アメリカの鳥類』を書いたことで知られている人物だが、なぜ彼の名前が引用されるかというと、「リョコウバトの悲劇」が作品の大きなモチーフになるからだ。

リョコウバトとは、北米・東海岸に生息し、中部やメキシコ湾岸で越冬するハトで、18世紀には50億羽いたと推測されている。オーデュボンはその渡りを目撃し、3日間、空が鳩で埋まり、翼の音が絶えず鳴り続ける光景をみて、とてもつもない感動を味わったと日記に書いている。

そのリョコウバトは、1890年代には数が激減し、1914年に動物園で飼育されていた最後の一羽が死亡し、絶滅してしまった。原因は人間による乱獲で、肉が美味だったことから食糧として大量に捕獲され、繁殖力が弱かったことも激減に拍車をかけたそうだ。

50億羽いた鳥が100年以内で絶滅してしまうなんて、誰も考えなかっただろう。『オーデュボンの祈り』で、こんなセリフがある。

「あまりにも数が多すぎた。数が多いことが人を鈍感にしたんだ。いくら虐殺しても絶滅につながるとは思えるわけがなかった。おそらくオーデュボンだって、リョコウバトが消えるとは予想していなかっただろう」

そして、まさに「諦観」を感じる文章が登場する。

 リョコウバトが消える結末は、誰にも止められなかったんだ、と彼は言う。

 なぜなら、大きな流れだからだ、と。良くも悪くも世界には大きな流れがあって、それには誰も刃向かえない。流れは、雪崩や洪水のように巨大だが、水が温(ぬる)むようにゆったりとした速度でやってくる。リョコウバトの絶滅もそうだし、大半の戦争だってそうだ、と言った。誰もが気づかないうちに、すべてがその流れに巻き込まれていく。

おそらく、リョコウバトを狩猟していたハンターも、個別に会えば、お人好しの親切な人間も多くいるだろう。一人ひとりに特別な悪意はなかった。ただ、その積み重ねが、一つの種の絶滅という悲劇に結びついてしまった

時として、神様のレシピが、悪い方向に流れてしまうケースというのは、少なくないのかもしれない。材料自体に害はなくても、その組み合わせで生まれた料理は最悪のものとなってしまう。善意で行った行動も、結果から見れば、悪い結末へとつながる前触れとなってしまう可能性も存在する。

誰も気づかないうちに、すべてがその流れに巻き込まれていく。読んでいて、とてもやるせない気持ちになってくる。

『オーデュボンの祈り』の主人公である伊藤の祖母の言葉も印象的だ。

「人生ってのはエスカレーターでさ。自分はとまっていても、いつのまにか進んでるんだ。乗った時から進んでいる。到着するところは決まっていてさ、勝手にそいつに向かっているんだ。だけど、みんな気がつかねえんだ。自分のいる場所だけはエスカレーターじゃないって思ってんだよ」


なぜ、カカシが未来を見通せるのか?

そして、神様のレシピで決まる未来を見通せる存在として登場するのが、人の言葉を話せるカカシ、優牛(ゆうご)だ。

なぜ、優牛は未来を見通せるのか?

それは、田んぼに立つ優牛に鳥たちが様々な情報を持ってきてくれるから。また、風が様々な人の噂を運んできてくれるから。数多くの情報を正確に知ることのできる優牛は、その情報を掛け合わせることで、未来に起こり得ることを予測することができる。未来を予言するというより、精度の高い天気予報というイメージだ。

だから、変数が多いと未来予測が難しくなる。1週間先くらいのことまではほぼ正確に見渡せるが、それ以上先になると、シナリオが何十通りもできて、断定ができなくなる。

この島のなかで、優牛は守り神のような存在として扱われていた。何か事件が起これば、優牛に事の真相を尋ねる。警察ですら優牛に依存していた。

だけど、優牛は未来のことは絶対に教えてくれない。教えるのは、すでに起こった事実だけ。そして、優牛は島民に「絶対に島の外に出てはいけない」と伝えて、島民たちはそれを厳守してきた(正確にいえば、商人として外との世界と貿易する人物を除いて)。主人公の伊藤にも、「まだ、島から仙台に戻るタイミングではない」と伝える。

そんな優牛が、ある日、殺されてしまう。いや、壊されてしまう。

未来を見渡せたはずの優牛が、なぜ自分の死を止められなかったのか? そして、その犯人は誰なのか? これが、『オーデュボンの祈り』の読み手を惹きつける謎のひとつだ。


手も足もでず、祈るしかできない悲しみ。

結論から言うと、優牛の死の真相は「自殺」だった。ある島民に「私の願いを聞いて下さい」と、自分を壊す依頼をしていたのだった。

そして、自殺の理由は、大きく2つ。そのひとつは、存在し続けることに耐えられなかったこと。もうひとつは、大きな流れへのささやかな抵抗だ。

この後者のささやかな抵抗のために、優牛が仕掛けていたことこそ、伊坂さんらしい細かい伏線を回収していく展開になので、本作を読んでない方は、是非小説で味わって欲しい!

そして、前者の自分の存在に耐えられなかったという死因が、ものすごく切ないと感じた。

そもそも、優牛が島民に「絶対に島の外に出てはいけない」と伝えていた理由とは何か?それは、島民を、この島を守りたいという想い故だと思う。

小説の前半で、優牛が生まれる瞬間のエピソードが登場する。幕末の頃、島を外界と閉ざす決断を下した島のお偉方に対し異を唱えたことから拷問され、命を落とす寸前の禄二郎の最後の行為が、喋るカカシをつくることだった。「案山子はこの島を見捨てない。私の案山子がこの島を時代遅れにさせない」。その禄二郎の意志を優牛は受け継いでいる。

島が外界と閉ざしているにも関わらず、時代遅れにならずに生き延びてきたのは、優牛が外の世界から運ばれてくる情報を島民に伝え続けてきたからだった。

そして、「島の外は住むに値しない」と優牛は言う。それは、外の世界で起こっている様々な悲劇を優牛は知っていたからだ。人間の愚かさを悲しんでいたかもしれないし、リョコウバトの絶滅を聞いて人間に本気で腹を立ててもいた。それ故に、島民には外の世界との交わりを切ってほしいと思っていたのではないだろうか。

だが、その島でも悲劇は起こる。妬みや嫉妬から、殺人も起こる。

それを優牛は止めなかった。未来に起こり得る悲劇について、島民へ言及はしなかった。なぜなら、大きな流れには逆らえないからだ。一時的に、悲劇から逃れたとしても、それは違う悲劇へと繋がっていく。バタフライ・エフェクトだ。将来に起こり得る様々なシナリオを見通せる優牛は、その螺旋から逃れられないことを誰よりも知っていた。

それでも、島民からは「なぜ教えてくれなかったのだ」と詰め寄られる。頼りにされ、大切にされてきたのと同じくらい、優牛は糾弾されてきたのだ。悲劇の結末がわかっても、止めることができず、手も足も出せない自分。まさに突っ立っているだけのカカシ状態。

その比喩として、伊坂さんは優牛を「喋るカカシ」という、かなり突飛な設定にしたのではないだろうか。そして、彼には祈ることしかできない。だから『オーデュボンの祈り』というタイトルなのだろう。

祈ることしかできない自分に嫌気がさして、優牛は死を選ぶのだが、それはただ悲観的な結末という訳ではなかった。自分の死が、大きな流れへのささかな抵抗に繋がると優牛は確信していたのだ。

僕は優牛は死んだのではなく、未来を予測するカカシという自分の役割を手放したのではないかと思う。そう、『オーデュボンの祈り』は「手放す」物語であり、手放すことこそが諦観なのだ。


願望への執着を手放した先にあるもの。

この「手放す」という言葉がふさわしいと思ったのは、主人公の伊藤と、その元恋人の静香との会話だ。

伊藤が、優牛のいる島を訪れることになる要因のひとつに、5年間交際して、別れた恋人の静香の存在がある。静香との関係が上手くいっていれば、伊藤はコンビニ強盗といったバカげた行動はとらなかっただろう。

ふたりが食い違ったのは、アイデンティティへの考え方のズレが原因だった。

静香は親の愛情を十分に受けて育っておらず、自分の存在を証明するには、自分の能力を社会に認めさせるしかないと思って生きてきた。だから、仕事で結果を出し、「彼女でなければダメだ」と周囲から評価されることで、自分のアイデンティティを確立させようとしてきた。伊藤は、その生き方に不安を覚えるようになっていく。

「いったい全体、君は何がどうなれば納得するんだ」別れる時、僕ははじめてそう声を荒らげた。と言うよりも、それが別れる原因となった。

「みんながわたしを囲んで、『すごい、すごい』と拍手をしてくれて、『君のことを待っていたんだ』と泣いてくれれば」と無茶なことを彼女は言った。「そうなれば、納得するし、安心する」

「歴史上の人じゃあるまいし。うぬぼれているんだ」僕は思い余って、なじった。

静香自身も、自分の考え方に不安を抱いている。だけど、自分の生き方を変えることは難しかった。

不意に、伊藤の言葉を思い出した。「君がいなくなって困るのは君が重要な仕事を握っちゃっているからだ。一回、それを手放してみろよ」最後に会った時の、台詞だ。

彼の言葉は正しかったのかもしれない。それは静香にも分かっていた。けれど、正しいことが人を幸せにするとは限らない。それも事実だ。静香にとっては、誰かに必要とされることが、必要だったのだ。

この静香が望んでいる誰からも『すごい、すごい』と拍手される存在。それこそが優牛であって、島をどう導いていくのかという重責を一人で担っており、それ故に苦しんでいた。

静香のように、「何でもわかる優秀な存在」として周囲から評価されることに憧れる気持ちは誰しも少なからずあるのではないだろうか。でも、分かりすぎてしまうこと、また周りから頼られすぎてしまうことは、苦しいことでもある。それを、優牛は教えてくれる。

願望への執着を手放すこと。未来は神様のレシピで決まると思って、開き直ること。肩の力を抜くこと。やはり『オーデュボンの祈り』は諦観の物語なのだ。


開き直った生き方のススメ。

諦観とか、「あきらめる」「開き直る」と言っていると、すごく消極的で後ろ向きな姿勢に映るかもしれない。でも、伊坂さんの作品は、開き直った上で、愉快に生きていくために大切なものを教えてくれる。

それが、ユーモアだ。

ユーモアとは、人生の矛盾・滑稽(こっけい)等を、人間共通の弱点として寛大な態度でながめ楽しむ気持ち

辞書で引くと、こう書いてあった。なかなか鋭い表現で、驚いた。そう、人生の滑稽さを寛大な態度で接し、「むしろ、そこが良い!」と愛でる気持ちがユーモアなのだ。

『オーデュボンの祈り』に続く、伊坂さんの2作目『ラッシュライフ』に登場する黒澤という登場人物が僕は大好きだ。「私は人生に失敗した」と嘆く旧友に語る投げかける黒澤の言葉が、まさに伊坂作品らしいセリフで、ちょっと長いけど、付き合ってほしい。

「俺は昔から、逃げてばかりだよ」黒澤は笑う。「それにもう、抵抗するのはやめた」
「抵抗?」
人生に抵抗するのはやめた。世の中には大きな流れがあって、それに逆らっても結局のところ押し流されてしまうものなんだ。巨大な力で生かされていることを理解すれば怖いものなどない。逃げることも必要ない。俺たちは自分の意思と選択で生きていると思っても、実際は『生かされている』んだ。そうだろう?」
「それは君が学生時代に嫌っていた、『宗教』じゃないのかい」
「違うよ。人生は道じゃないと、そう思うことにしただけだ」
「道じゃない?」
海だよ」黒澤は肩をすくめる。「ルートも標識もない、茫洋(ぼうよう)たる大海原だ。俺たちはそこで、でかい魚にでもつかまって、大きな流れに身を任せている

(中略)

「俺が言いたいのは、宗教とはまったく別のことなんだ。もっと単純なことだ。いいか、俺たち人間は、もとはと言えばアメーバとか、単細胞の生き物だったんだろう? それが、気の遠くなる年月をかけてゆっくりと進化した」
「キューブリックの映画に出て来たモノリスを思い出すよ」
「俺たちは今やこれほど複雑な生き物になった。感情を持って、記憶を操作する。嘘を吐いて、人を出しぬいたり、名誉を欲したりする。ジャズも演奏する」
「それがどうしたんだい」
「それだけで充分、凄いことだろ。宗教を持ち出す前に、生きていること自体に驚いて、拍手をすれば良い
「君は面白いことを言う」

まさに諦観の境地。そして、小説の終わりほうで、再度、旧友に再会した時の黒澤のセリフが、また良い!

ラッシュライフという曲を知っているか?」黒澤が言う。
「いや」
「Lushは酔払いという意味で、飲んだくれのやけっぱち人生ということらしい。おまえに必要なのはむしろ、そういう開き直った生き方かもしれないな」
「私は酒は飲めないし、やけも起こせない」
「そんな深刻に答えるなよ」と黒澤は苦笑する。「もっと気楽に構えろよ。魚に身を預けて、のんびりと
それでも佐々岡は、難しい顔をしている。
「俺はさっき泥棒のプロフェッショナルだと言ったよな」
「確かに」
「でもな、人生については誰もがアマチュアなんだよ。そうだろ?」
佐々岡はその言葉に目を見開いた。
「誰だって初参加なんだ。人生にプロフェッショナルがいるわけがない。まぁ、時には自分が人生のプロであるかのような知った顔をした奴もいるがね、とにかく実際には全員がアマチュアで、新人だ」
(中略)
「この前、テレビで野球解説者が言っていたぜ。『新人らしく失敗を恐れずプレーしてほしいですね』

魚に身を預けて、のんびりと生きていけ。この肩の力を抜いたユーモア溢れるスタンスが、すごく好きだ。そして、『新人らしく失敗を恐れずプレーしてほしいですね』という伊坂さんからのエール。

『オーデュボンの祈り』の優牛の死も、神様の位置から降りた優牛のユーモアに満ちた振る舞いだったことが最後にわかる。どんな時でもユーモアを大切にすること。それを、伊坂作品から学んだいるように思う。


どんな人間も、みんな「カカシ」である。

繰り返すが、『オーデュボンの祈り』は諦観の物語だ。あきらめの物語だ。

伊坂さんは、祈ることしかできない優牛の悲しみを描いているが、僕らも大きな海の中で彷徨っているだけの存在だとしたら、カカシと大差はない

作中にこんな会話がある。

「警察は無能だ」小山田の笑みを、はじめて見た気がする。「そう思わないか?」
この世に有能な人なんているのかな
「しょせんカカシだ」

この会話を聞いて、思い出すのは、村上春樹さん『風の歌を聴け』の一節だ。

「でもね、よく考えてみろよ。条件はみんな同じなんだ。故障した飛行機に乗り合わせたみたいにさ。もちろん運の強いのもいりゃ運の悪いものもいる。タフなのもいりゃ弱いのもいる、金持ちもいりゃ貧乏人もいる。だけどね、人並み外れた強さを持ったやつなんて誰もいないんだ。みんな同じさ。(中略)

だから早くそれに気づいた人間がほんの少しでも強くなろうって努力するべきなんだ。振りをするだけでもいい。そうだろ? 強い人間なんてどこにも居やしない。強い振りのできる人間が居るだけさ。」

強い振りができるかどうか。これを伊坂さん風にいうなら、ユーモアのあるカカシかどうか、ということではないだろうか。

強い人間も、完璧な人間も存在しない。どうにもならない世の中で、開き直って、肩の力を抜き、ユーモアを持って生きていこう。

そんなメッセージを『オーデュボンの祈り』からも、その他の伊坂さんの作品からも感じる。当時は言語化できてなかったけど、きっと20代の頃の自分は、それを直感的に感じとり、そのメッセージに励まされ、伊坂さんの作品を読み漁っていたんだろうと思う。

そして、それは今の僕にとっても、色褪せないどころか、ますます自分の指針として受け取れるメッセージだと今回改めて感じた。人生のアマチュアとして、新人らしく失敗を恐れずプレーしていきたい。

・・・

あとがき

最後まで読んでいただき、ありがとうございました!

伊坂幸太郎さんの作品を本当に久しぶりに読み返してみて、当時は気づけなかったメッセージを沢山拾えたように感じます。

あらすじを追って楽しむだけではなく、作者の意図を想像しながら読むと、また違った味わいがあると、改めて実感しました。

そして、20代の前半の頃に熱心に読んだ小説の内容を意外と忘れている自分がいることにも気づきました。普通に初読のように、楽しんでいる自分がいました(笑)。伊坂さんの好きな作品は他にも沢山あるので、それらもしっかりと読み直し、改めて記事化したいと思います。

この記事が、伊坂作品を楽しむ人の何かしらの参考になれば幸いです。ありがとうございました!

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井手 桂司

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フリーランスのブランド・エディター。一人ひとりの持っている物語を、言語化し、発信し、届ける手伝いをしてます。 IKEUCHI ORGANIC、Oisix ra daichi、コルク…などのメディア編集を担当。noteでは好きな小説についての感想を書き綴っていきます。