これまでの10年とこれからの10年
小学生の頃、道徳の授業が嫌いだった。「自由な考えで」とうたいながら求められる正解があること、人を傷つけてはいけないという話をわざわざ読ませる無意味さなどを心から馬鹿馬鹿しく思っていた。愛国心を持たせたいなら、愛せるような国をまずつくれば良いのに。それでも「正義」というのは存在するのだろう、と漠然と悟っていた。
「やらない善よりやる偽善」という言葉を明確に意識したのは3.11を通してだったと記憶している。大学の単位稼ぎに被災地ボランティアとして赴く人々、それを批判する人々。役に立つなら行かないよりマシだとも思ったし、その後しばらくしてボランティアが現地の雇用を奪ってしまうこともあると知り、正義とは何なんだろうなと思った。敬虔に信仰して貧乏でいるか、神を冒涜して強欲にまみれるか、どういう軸で幸福を見定めるかが難しいのにも似ている気がする。一年に一度しか思い出さないとしたら、それも同じ話なのかもしれない。非情だと思う? 思い出さないよりはマシかなって思う?
これまでも大きな「震災」は阪神淡路も然り多数あったはずなのだが、3.11以降は震災=「東日本大震災」を意味する文脈になったと感じている。まさしく世界が変わってしまった「インパクト」なのだ。
震災については、去年かなりの字数で書き留め自分の中で整理した。
改めて思い出すのは当時の無力感とやるせなさの数々だ。私が地元に帰れないでいるうち、報道が、ボランティアが、次々と現地入りしていく様を不思議な気持ちで見ていた。インフラが死んでいた中、帰ってこなくていいよ、一人暮らしでちゃんと食べてるの?と母親から食糧が送られてきたのには笑った。被災地から東京へ食べ物が逆輸入されてきた、その矛盾と不甲斐なさで19歳の私は感謝と泣くことしかできなかった。(コロナ禍でも無くなる前に買っておいたというマスクをくれた。母は強い。)
ゴールデンウィークにようやく帰り、東北のお菓子をお土産として大学に持っていった日。西の方の出身の子に「私は東北の食べ物は食べないから」とシャットアウトされ、腹を立てつつ全力で怒れもしない苦しさを味わった。自分も当時、福島の農産物を避けていた。何が正しい情報か解らない中で自分を守れるのは自分だけだった。それでも自分が食べて育ってきた美味しいものたちを、作ってくれている人たちも含め、諦めたくないなぁと思っていた。
震災以降の10年のうちで東北に住んだのは3年ほどだが、かつて飛び出した街で夢を描き、愛着を取り戻し、10代だった私はまもなく30歳になろうとしている。あの頃と変わらない気持ち、変わった気持ち、両方を並べて自分の価値観を考えてみることが多くなった。
今日、櫻井翔が綴るNewsweekの長編ドキュメントを読み、この人のこういう所がずっと好きだなと想った。真摯に向き合い伝えてくれようとする使命感を尊敬している。他にも、マスコミに勤める友人知人や福島に住む友人がそれぞれの立場で震災に関わっていて、こういうのを書いたよ、まとめたよと見せてくれた。私も今年はメモリアルな出来事に多少携わっているのだが、あの日ここに居なかった自分が今ここに居ること、自分ができたことは何だったのか、これからできることは何なのか、やはり考えてしまう節目の日になった。
先日ローカル番組でサンドウィッチマンが被災地を巡っていた。ニュアンスだけど、10年って言ってもここで区切るとか終わるとかじゃないからね、続いていくからね、と言っていたのがとても心に残った。文字通りに「地続き」の現実が過去になり、未来を紡いでいく。東北と一括りにしてしまいがちだが、福島・宮城・岩手と山形・秋田・青森では被害の規模が違い、その中でも地域、また人によって失ったもの、受け止めねばならなかったものがそれぞれ異なっている。これまでの10年とこれからの10年。それぞれの10年。何処でどう生きるのか、一寸先の未来すらも解らないけれど、戦争を知らなくても二度と起こしてはいけないのだと歴史に学んでいるのだから、知っているのなら、尚更強くその想いを保たなければいけないな、と誓う。備えあれば憂いは、なくならずとも軽減することはできるから。
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